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香油を注ぐ (マルコ14:3~9)

メッセージ

2011年4月17日富里キリスト教会
「香油を注ぐ」
(マルコ14:3~9)
1.石膏の壺を壊して

「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:1~3)

ナルドの香油といいますのは、ヒマラヤの高い山にある木の根から取れたもので、非常に高価なものです。その場に居合わせた人が、すぐに見積もって計算していますが、300デナリオン以上に売れると見積もりました。1デナリオンは一日の日当分ですから、労働者の約1年分の給料の価値がありました。こんな小さな壺に入って約300万円もの価値のあるものです。香水は女性の命と言われますが、彼女に取りましても自分の財産の全てだったかも知れません。

それにしても、壺を壊さなくても、ふたを開けて半分注いで、残りは取っておいてもイエス様は喜ばれたと思いますが・・。それともこの女性は気前が良かったからでしょうか。あるいは死者に塗るための香油だとしたら、全部使い切ってあとは縁起が悪いから使わないということで、容器を壊してしまったのでしょうか。どうしてわざわざ、石膏の壺を割ったのでしょうか。

私はこの石膏の壺を割るというということは、彼女の気持ちを表わしているような気がしてなりません。つまり自分の心の壺を割るということことではないかと思います。自分の命とも言えるほどの宝物が入った心の壺を、打ち砕いたということです。自分のかたくなな硬い心、自分の殻を砕いた、すなわち古い自分、過去の自分、罪の自分、かたく閉ざした自分の心を粉々に打ち砕いて、全てをイエス様の前に注ぎ出したということではないでしょうか。別な言葉でいうならば、彼女は自分の罪の全てを主の前に告白して、自分の心のうちを全て打明けたということです。

2.香油の香りが満ちあふれた

ヨハネによる福音書の方では、この女がマルタとマリヤの姉妹のマリヤになっています。同じような箇所ですが、そこを読んでみますとこう記されています。
「そのとき、マリヤが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)とあります。マリヤが、主の足に塗った香油が部屋中に満ちあふれました。でも、マルコによる福音書の方は、壺を割っていますから、おそらくこのかぐわしい香油の香りが部屋中にもっといっぱいに広がったと思います。

「壺」という漢字は、おもしろい形をしています。つぼの中に十字架が入っていて、その上にふたをしているような漢字です。つまり、私たちが、自分の罪をお互いに告白し合い、イエス様に感謝の祈りを献げるならば、私たちを包んでいる自分という殻が割れて、心の中からイエス様の愛が湧きあがってくるということです。皆さんは、すでにイエス様を信じて受け入れていますから、お一人お一人の心の中に十字架があります。あとは自分の壺を打ち砕いて、包み隠さず、背伸びをせず、自分のあるがままを証し合うことです。そこにイエス様の愛が満ちあふれるのではないでしょうか。

3.香油を頭に注ぐ

そして、この女性はこのナルドの香油をイエス様の頭に注ぎました。よく女性は、自分の好きな俳優さんに、高価なプレゼントを惜しげもなく捧げると言われます。それこそ中には、何百万円もする高級車をプレゼントする人もいるかもしれません。でも、この女性の場合には、確かに高価なものでしたが、ナルドという純粋で貴重な香油を捧げました。でも、その捧げ方は、壺を割って、その香油を主の頭の上に注いだのです。これには二つの意味があります。

一つは、イエス様はメシヤであるということです。メシヤという言葉は「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉です。つまり、彼女は、このお方は、私の救い主、メシヤだと言うことを告白しています。そして第二の意味としまして、イエス様ご自身がおっしゃっておりますが、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8節)ということです。つまりイエス・キリストの死、しかも十字架の贖いの死をあらかじめ知って、準備したということです。

イエス様は、わたしの救い主であり、しかも十字架の死を通して世の罪を贖い、私の罪をも贖って下さるお方だと信じていたのは、彼女だけではなかったでしょうか。他の弟子たちは、イエスが逮捕された時、クモの子を散らすように逃げて行きました。この時には、まだ誰もイエスが十字架の上で世の罪のために贖いの死を遂げるということは考えておりませんでした。ですから、その場にいた人々は、彼女のこの行為を理解できませんでした。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」(4~5節)と言って彼女を厳しくとがめたのです。

先月の東日本大震災で、中国人の研修生を雇っていた経営者の方が犠牲になりました。その方は、日本に来て津波の恐ろしさも避難場所も良くわからない外国人のために、自分を省みず、避難場所まで誘導し、そして更に他の人を避難させるために戻って行き、帰らぬ人となってしまいました。自分の命を省みず、命がけで他人を助けようとしたこの一人の日本人経営者に、中国人の従業員のみか全世界の人が心から賞賛の言葉を贈り、哀悼の念を捧げました。中国人の従業員がどんなにか感謝したことでしょう。言葉では言い表せないものがあります。

そのように、イエス様も私たちが罪の深みに溺れて、呑み込まれて死んでしまうところを御自分の命を引き換えにして、私たちを救ってくださいました。私たちが今日あるを得ているのは、一重に、このイエス・キリストの十字架の贖いの死以外にはありません。イエス様が、私達の罪の身代わりになって十字架の上で死んでくださったのです。その死によって、私たちは今生かされております。私の好きな賛美歌にこういうのがあります。朝よく歌いました。

「罪の深みにおぼるるわれ 尊い御名を呼びたりしに
救いの君は御手を伸べて 引き上げませリ愛もて
愛なり 愛なり 救いうるは愛なり
愛なり 愛なり 救いうるは愛なり」(聖歌442 一節)

イエス様は、愛を持って私たちを罪の深みから救い上げて下さいました。そして自らは、罪の罰を背負って、私たちの代わりに死んでくださいました。この主の大きな愛は、この香油を捧げた女性にも、また弟子たちにも、そして主を裏切ったユダにも同じように降り注がれていたのです。そして、現代の私たちにも同じように注がれています。

イエス様の愛は尽きることはありません。十字架の上で私たちの罪を今も贖い続けておられます。そしてすべての人に、惜しみなくその愛は注がれています。
今は救いの時、恵みの時です。主は私たちのあるがままの姿を受け止めてくださいます。心の壺を割って、あるがままの自分を主に捧げましょう。その時、私たちの中から主の十字架の愛が、お互いに溢れ出してくるのではないでしょうか。私たちの教会が、この主の十字架の愛で満たされ、感謝と賛美が満ちあふれる教会になることを願っています。             (岡田 久)

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