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香油をすべて捧げた女 (マルコ14:3~9)

メッセージ
2018年3月11日富里キリスト教会
「香油をすべて捧げた女」
(マルコ14:3~9)

Today,7years ago we experienced unbelievable catastrophe. We have experienced mega earthquake and Tsunami and nuclear explosion. After 7 years we can many victims losing their life and families and jobs and hometowns. Without exploring their purpose of life and the end of the world and seeking God through the faith we Japanese may not find the true peace in heart.

1.石膏の壷を壊して香油を注いだ

「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3)
イエス様は、十字架に架けられる前に、らい病人シモンの家にいて食事をしておられました。何気ない文章ですが、イエスとその一行が食事をしていたのは、らい患者の家だったのです。皆さんはいかがですか、らいにかかった人の家に行って食事をすることができるでしょうか。

イエス様は、らい病人シモンの家に入って、そこで食事までしていたのです。このシモンと言う人は、良性のらい患者だったか、あるいはすでにらいが治った人かどうか書いてありませんが、一行は水だけではなく食事をとっていました。いかにイエス様が、そういう病いに侵された人、そして社会的にも差別を受けている人のところへ、ご自分から積極的に入って行かれた方であったかということです。罪人を招くために来てくださったイエス様です。

その食事の席に一人の女が入ってきました。純粋で高価なナルドの香油の入った石膏の壷を割っていました。そして、それをイエス様の頭に注ぎかけました。恐らくそこに居合わせた人々は、一様に驚いたに違いありません。この香油はヒマラヤの高い山の木の根っこからとられたもので、非常に高価なものでした。その場にいた人が見積もっていますが、300万円もの価値のある香油です。ヨハネによる福音書の方では、この女性はあのマルタ、マリア姉妹の妹のマリアが香油を注いだと書いてあります。

しかも彼女は、その香油の入った石膏の壷を壊して、中身全部を惜しげもなく主イエスの頭に注いだのです。香油の香りが部屋全体に広がりました。彼女は石膏の壷を壊して中身を全部注ぎましたが、わたしでしたら、香油を使う分だけ注いで、残りは元の壷に残しておいたかもしれません。でもこの女性は壷を壊して、全部イエス様に注ぎました。わたしはここに彼女の思いがいっぱい詰まっているような気がしてなりません。

While Jesus was in the Bethany being in the home of a man known as Simon the Leper. A woman came with an alabaster jar of very expensive perfume made of nard. She broke the jar and poured on the head of Jesus with perfume of nard. I realized about these actions of her on these three points. As the first meaning, to pour the perfume on Jesus’s head is the sign of appointment as the King and the Savior. And the second meaning to pour the perfume on his head is the sign of the Redeemer to our sins. Third meaning is the sign of the Lord.

A)救い主キリスト、王なるキリスト

まず第一に、イエスの頭に香油を塗るということは、「イエス様はキリスト」だというマリアの信仰告白を表しています。キリストの意味は「救い主」と言う意味です。ギリシャ語では「クリストス」といいますが、ヘブライ語では、「メシア」と言います。このメシアは「メシャー」と言う動詞、すなわち「油を注ぐ」と言う動詞からきています。イスラエルの王様は代々、預言者からこの油注ぎを受けて王の地位に立ちました。ですから、この女がイエスの頭に香油を注いだということは、この方は紛れもなくイスラエルの王であり、預言されてこられたメシア=救い主だということを告白しているのです。

B)贖い主なるキリスト

そして第二に、この香油を注いだということは、イエスの葬りの準備をしてくれたということです。彼女だけが、これから主イエスが何をされようとしておられるのかを知っていました。イエス様はこれからいよいよ十字架に架かられるために進んでゆく強いご遺志を持っておられました。この場面はちょうど主が十字架につかれる2日前の出来事です。

弟子の中で主の十字架の死を知っている者はいませんでした。でもこの女だけは、主の十字架の贖いの死を予感し、今自分でできる限りのことをしてあげたかったのです。これから死を迎える人に必要なものは何ですか。餞別ですか、何かを持たせることでしょうか。何もありません、死にふさわしい準備、それは葬儀の準備です。遺体に塗るための香料を買って、埋葬の準備をしたのです。

彼女だけが、この時、イエス・キリストはわたしの罪のために十字架に架かり、贖いの子羊としてご自分の肉体を捧げてくださるということを信仰をもって知っていたのです。ですから、彼女は自分ができる限りのことを精いっぱいイエスにしてあげたかったのではないでしょうか。イエスは十字架の苦しみと死をもって、わたしの罪を贖ってくださる神の子羊だという確信を持っていました。

C)主なるキリスト(献身)

そして第三に、彼女はこの香油の入っていた石膏の壷を割りました。と言うことは全部を注いだということです。また、器を割るということは、これが最後の別れになるという意味もあります。よく戦いに行くときに、武士が酒を酌み交わして戦場に赴く場面があります。その時、みな飲み干してから杯を地面にたたきつけて出かけてゆきます。今生の別れを意味しています。死の覚悟をして出かけるということです。彼女は彼女なりに、主イエスに地上での最後の別れを示されたのでした。

そして壷を壊すということは、自分と言う入れ物を打ち砕いて、自分の真実の心を主に注ぎだすということです。石膏の壷はわたしたちの体、あるいは外なる自分を意味します。そういう外形の自分、見せかけの自分と言うものを粉々に打ち砕いて、あるがままの自分の心を明け渡して主に仕えるということです。

Through pouring the perfume on His head, Mary confessed Jesus is the King and the Savior and the Redeemer and the Lord. She broke the jar and poured very expensive perfume up. Then she broke down the outward of her and broke down herself as a shame and gave her spirit to Jesus by surrendering her heart as it is. Because she knew Jesus is going to the cross to redeem the sins of all mankind involving her own sins. She prepared the burial of Jesus applying oil to Jesus’s body. And she did everything she could to the best of her ability.

わたしたちはみな、一個一個の壷です。自分の心の中に宝物をもっています。それを自分の殻と言う外形的なもので囲い込んでしまっています。でもこの自分の外側の人、人に見せよう見られているという表面的な自分の殻を打ち砕くことによって、わたしたちの心の中にしまい込んでいる宝物、すなわちイエス・キリストがあふれ出てくるのです。せっかくの高価な宝物を、わたしたちはしまい込んでいることはないでしょうか。表の人、見せかけの自分を壊すことによって、自分の心の中にあるキリストの愛が流れ出てくるのです。

本当の自分、罪深い自分、汚れた時分、失敗した自分、病気や障害を持っている自分を、石膏で固めて隠していることはないでしょうか。彼女が石膏の壷を割ったということは、自分を隠している見せかけの自分、表面的な自分を、自分のプライドや見栄と言ったものを打ち砕いたということです。あるがままの自分を主に捧げたということです。時も場所も顧みず、彼女は今、自分にできる最上のもの、すなわち真心をイエス様に捧げたのでした。

2.わたしに良いことをしてくれた

ところが弟子たちの中に、彼女のこの行為を非難する者がいました。
「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限りのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。』」
(14:4~9)

この一人の女性の行為を、無駄なことだと言って非難する人もいました。確かにそうです。何万円もする香油が地面に滴り落ちるのですから、誰でももったいないと思います。使う分だけ出して使った方がいいと思います。余ったら残しておけばいいと思います。でもこの人たちはマリアの心を理解していたでしょうか。マリアがどんな思いで、この高価なナルドの香油を買ってきて、それを全部イエス様に注いだのかを。

マリアの行為は確かに社会的経済的には、もったいない無駄な行為かもしれません。経済効果はマイナスです。でも信仰的には、何にも代えがたい行為ではなかったでしょうか。それは何よりも、貧しい人々に対するよりも、イエス様ご自身に対する奉仕だということです。イエス様に最大限の尊敬と感謝と献身の思いを示したのが、ナルドの香油です。

実際、もったいない、無駄だといった人がどういう人だったかと言うことをヨハネの福音書の方ではこう書いています。「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこういったのは、貧しい人々を心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(ヨハネ12:5~6)

弟子のひとりユダは、貧しい人々を何とか助けてあげたいという思いではなく、自分が会計をごまかしていたので、もったいないと言ってマリアを非難したのでした。確かにそうですね。300デナリオンで売って貧しい人に施した方がいいという人に限って施しをするかと思うと、そうしないで自分の懐に入れてしまうことがあります。ユダは会計をごまかしていたとあります。

According to John’s Gospel, the man who accused her was Judas.
He said to her , why did you waste the expensive perfume it worth more than one year’s wages, you should sell the perfume and give the money to the poor. It was somehow good idea but he never care for the poor only to say, Judas was a keeper of the money bag and he used to cheated money. And he was later to betray Jesus.
But if he was so, Jesus loved Judas pouring the unconditional love to all mankind involving Judas and Mary and all of us. Mary answered to Jesu’s love and redemption with all her heart. She understood Jesu mind perfectly. In her eyes there was only Jesus moreover the one on the cross reflected . but in Judas’ eyes there are many people and competitors. There is no place of Jesus and the cross of Jesus for the sinners in Judas mind. God’s love was wasted for Judas ,he ran into the darkness in the night later. We would like to do Jesus what we could like Mary seeing the cross of Jesus. And serve Him what we could.

これから十字架に架かられ、そして死んで葬られようとしていたイエス様です。それはすべての人々の罪にために自分の苦しみと死をもって、その罪を贖い赦そうと決意していたのです。その神の愛と御子の十字架の贖いの業は、すべての人々に注がれていたのです。そのお方を目の前にして、マリアはいてもたってもいられなくなって、自分の全財産をはたいて香油を買い、それをイエス様に手向けとして捧げました。自分ができる限りのことをしたのです。

マリアは、自分の心を砕いて自分ができる限りの真実をもって、この主の愛に答えたのでした。でもユダは、この主の愛の真っただ中にいながら、主を見るのではなく、同じ仲間を見、また貧しい人々の方を見ていました。イエス様の心から離れていたのです。イエス様の十字架の愛を見ていませんでした。わたしの罪のために、今十字架に架かろうと決心し、そこへと足を踏み出してゆこうとしているお方が見えていませんでした。このイエス様の愛を無駄にしていたのはだれだったでしょうか。

マリアは全身全霊をもって、このイエスの愛を受け止め、心を開いて自分を主に明け渡しました。そして、自分のできる限りのことをイエス様にしたのです。人はそれぞれ、自分のできる限りのことを精いっぱいすればいいのです。でもそれはまず、イエス様に対してです。本当に貧しい人々に施したかったら、まずイエス様に自分自身を捧げることです。それから、イエス様の愛をもって人々に仕えるのです。そうでなければ、真のボランテイアは続きません。マザーテレサは、朝早く起きてまず主に礼拝を捧げ、それからインドの町に出て行きました。貧しい人々、病いの人々のところに出かけて行く前に、毎日主の前に立ちました。イエス様のこの愛を一身に受けているからこそ、貧しい人々にできる限りの愛の奉仕ができたのです。

私たちもマリアのように、自分でできる限りの愛の業をしましょう。人に見せるのではなく、いつもイエス様を目の前において仕えてゆきましょう。わたしに罪のために十字架に架かって、私の身代わりになって苦しみ死んでくださったお方の大きな愛を、忘れることがないように、自分のできる限りのことをして主に仕えてゆきたいと願っています。今もこの主イエス・キリストの十字架の愛はすべての人々の上に降り注がれています。誰でも主を見上げるならば、罪赦されて主と共に歩む人生を送ることができます。        

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