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集会をやめてはいけない (ヘブライ10:19~25)

メッセージ

2012年7月15日富里キリスト教会
「集会をやめてはいけない」
(ヘブライ人への手紙10:19~25)

1.スモール・グループと静聴の時間の大切さ  

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」
(ヘブライ10:19~23)

この聖書の時代、ヘブライ人は、エルサレムの神殿に行かなければ神様とお会いすることはできませんでした。神殿が信仰の中心だったのです。あるいはまた、町々にあるユダヤ人の会堂に行って、そこで聖書を学び祈りました。しかし、何と言っても聖地エルサレム、シオンの丘の神殿こそヘブライ人の心のよりどころでした。しかし、今やイエス・キリストが十字架にかかり三日目に甦って、生ける神の神殿となってくださいましたので、ヘブライ人のクリスチャンは、いつでもどこでも、イエスの名によって祈るならば、そこで神様とお会いできるようになりました。(サマリヤの女とイエスの出会い=ヨハネ4:21~24)

キリストの裂かれた肉と、流された血潮によって、なんのはばかることもなく「天のお父様!」と叫び祈ることができるようになったのです。神殿に行かずとも、教会堂に行かずともいつでもどこでも聖なる時、神様とお会いできる時間が取れるのです。イエス・キリストの名前によって、遠慮なく神様の前に出て、呼びかけ、その御声を聞くことができるようになったのです。堂々と神様の前に行き、神のそばに近づくことができるのです。そういう大きな恵みと特権をいただいているのだから、あなたがたは集会を欠席したり、休んだりして、この特権を無駄にしてはいけませんと勧めています。

今日ほど、この時間の管理が難しくなってきている時代はありません。人間の目を楽しませるインターテイメントの時間が、私たちの生活に入って来て、あっという間に時間が奪われてしまいます。居ながらにして、インターネットを通して世界中のいろんな映画や番組やゲームを楽しむことができます。しかも無料で何時間も楽しめるのです。よっぽど、私たちが意識して貴重な聖なる時間を取り戻さない限り、どんどんと時間が奪われてゆきます。夜と昼が逆転するくらい簡単に生活のリズムが狂ってしまう時代です。貴重な時間が狙われています。

クリスチャンは、時代の中にあって時間に支配されるのではなく、時間を支配する必要があります。それには、まずへりくだって神の前に立ち、静まって主の御言葉に耳を傾ける神に従うという時間を取り戻さなければなりません。そのためにも、毎週集まって祈ること、日々の生活の中で祈ることが大事です。

2.SGでの愛と励ましの交わりの大切さ

次に、「愛と励ましの場としてのSG」について考えてみたいと思います。23節から読んでみましょう。「約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブライ10:23~25)

ここではっきりと、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」と言いています。つまり、せっかく信仰に入ったのに、集会を休んでしまう人、来なくなってしまう人が多くいたということです。そういう人たちの悪い習慣をまねすることなく、あなたがたは集会に出ること、集会をもつことを止めてはいけないと励ましています。

私も今まで牧師をしてきて思うことは、せっかくバプテスマを受けても、その後教会に来なくなる人がいかに多いかということです。何のためのバプテスマだったのか、信仰告白だったのか落胆する事ばかりです。そこで反省したのが、バプテスマの後にしっかりと弟子訓練、霊的な訓練をすることの大切さを教えられました。今まで何人の方がバプテスマを受けて教会を去って行ったでしょう。残っている人よりも、信仰を失いかけている人の方が多いのです。教会の他行会員の名簿がどんどん増えて行っています。富里教会も例外ではありません。

そして、そういう途中で来なくなる人について共通していることは、バプテスマ直後の信仰訓練が足りなかったということもありますが、グループに入っていなかったということです。例えば、教会学校の成人科とか女性会、壮年会、青年会、家庭集会、スモールグループに属していない。あるいはクリスチャンホームという家族に属していないとか、ともかく何でも教会の小さな交わりのグループに参加していない人は確実に来なくなってしまうことが多いということに気がつきました。そこで、バプテスマ前から、どこかのグループにしっかりと籍を置き、自分を霊的に励ましてくれる仲間、いわゆる居場所を確保しておく必要があると思うようになりました。

そしてその集会を通して、またグループ同士の励ましを通して落ちそうな人、辞めて行きそうな人を励まして行くのです。24節を現代訳聖書では「また、互いに勧め合って、どのようにしたら他の人を愛し、助けてあげることができるかということについて心を配ろうではないか。」となっています。集会を通して、またグループのメンバー同士の交わりを通して、他の人を愛し助けるために心を配りなさいと言っています。私はここが教会の命の源のような気がします。この兄弟姉妹の愛と励ましの交わりがあるからこそ、そこに自分の居場所を見つけ、そこで安心して養われてゆくのです。

屋根をはいでそこから、中風の人釣り降ろした五人のSGのメンバーのように、一人ではできなくてもメンバー四人で力を合わせて取り組めば、一人の人をイエス様の足もとに連れて行くことができます。イス様は、そういうSGのメンバーの強い愛に満ちた信仰と励ましを見て「子よ、あなたの罪は赦されたと言いました。」(マルコ2:1~12)ここにグループによって、一人の人が救われるということが始めて起こります。愛の共同体である教会の、命のあふれる伝道の最前線です。これがグループの力です。グループの力で魂を救い、グループの力で魂をいやすのです。そのためにも、まず仲間を見つけるところから始めましょう。

別の英語の聖書(Amplified)には、「集会をやめたり怠ったりせず、互いに叱咤激励し合いなさい、その人の罪を警告しなさい、良いことを促しなさい、そして励まし合いなさい。」となっています。信仰のともし火が、今にも消えかかりそうな人々を励ますだけではなく、叱咤激励し、時には叱ったり注意したり、警告をしなさい。そして集会を休まないように声掛けをいつもしなさいと言っています。時には、休んでいるメンバーの家を訪問したり、病院にお見舞いに行ったりすることもあるでしょう。またSGは、ただ集まって励ますだけではなく、時には相手も面と向かって対峙し厳しく警告することも必要です。これは、本当に気心の知れた小さなグループだからできるのです。

3.終末の時代におけるSGの果たす役割

なぜそこまでして、SGの集会を続ける必要があるのでしょうか。それは、25節の後半の御言葉です。「かの日が近づいているからだ」というのです。かの日とは、キリスト再臨の日のことです。これは、パウロがヘブライ人に向けて語っている言葉ですから、少し厳しいことを言っています。と言いますのは、ヘブライ人は神に選ばれた民です。そしてユダヤ人の中からイエス・キリストが生まれました。そしてその選ばれた民、ヘブライ人の中から更にキリスト者として選ばれたのが、ユダヤ人キリスト者です。このクリスチャンは血筋の上でも霊的な意味でも、二重の救いの恵みにあずかっているのです。

ちょうど祈祷会で、マルコ13章の小黙示録を学んでいます。今は、終わりの時代に入り、間もなくキリストが来られるということを学んでいます。今まさに、私たちはそういう時代に直面しています。一層主の再臨の時が近づ来つつあります。だからこそうろたえたりあわてたりすることなく、救いを信じてきちんと几帳面に集会を守って、その時を持つことが求められています。お互いに救いの確信を確かめ合いつつ、祈りのうちに愛を持って互いに支え合い励まし合うこと、これが終末の時代の私たちのあるべき姿ではないでしょうか。だから、この確信をしっかりと持って、集会を休んだり止めたりしないようにしましょうと、パウロは言っているのです。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その核心には大きな報いが伴っているのである。・・・私たちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得るものである。(10:35、39口語訳)今は終わりの時です。昨年の3・11以来その時がいっそう近づきました。だから、あわてることもひるむこともなく、共に集まる集会をやめることはせず、むしろそのような時だからこそ、信仰と希望と愛の集会、SGを熱心にすることに励みましょう。         (岡田 久)

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