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進歩があらわれるために (Ⅰテモテ4:11~16)

メッセージ

2014年10月26日富里キリスト教会

「進歩があらわれるために」
(Ⅰテモテ4:11~16)

1.信心の鍛錬

Ⅰテモテ4:7を読んでみます。「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来たるべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」
「信心」と言いますのは、読んで字のごとく「信じる心、敬虔な心、神を畏れ敬う心」です。この時テモテは、まだ年が若かったと言われています。それでも30歳40歳にはなっていたと思いますが、伝道や牧会においてはまだまだ経験が浅かったようです。

そこで、恩師であるパウロは、エフェソの教会の牧師でもあったテモテに対して、牧会者としての基本をこの手紙の中で教えております。信徒がいろんな間違った教えや間違った信仰に心を奪われて、そちらの方に引っ張って行かれないように、しっかりと福音を語って欲しいと言っています。当時、パウロは弟子のテモテをエフェソに留まらせて、聖書の教えを人々に解いて教えるように指導したようです。

当時も今も、聖書の正しい教えと異なる教えを説く人々が現われて、教会を混乱させていました。そういう異端的なサタンの教えに惑わされないようにと、若き伝道者テモテに書き送ったのが、この手紙です。いわゆる牧会書簡と言われています。では、どうしたら信心のために自分を鍛え、立派な奉仕者になって行くことができるのかということを、パウロは次のように勧めております。

2.言葉、行動、愛、信仰、純潔において
模範者となる

「これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、誰からも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(4:11~12)

エフェソの教会の牧師として、テモテはパウロから五つの点で信徒の模範となるべきことを教えております。ここでは愛と信仰という言葉よりも、まず最初に来ているのは、「言葉と行動」です。牧師の資質が最もよく表れているのは、その人の言葉と行動です。いくら良いことを言っても、いくらすばらしい説教をし、伝道しても、弟子訓練をしていていても、その人自身の言葉と行動においてその働きの実が現われて来なければ意味がありません。弟子訓練を教えていながら、自分自身がキリストの真の弟子となっていない人を見ます。特に言葉遣いは、その人の心の中にあるものが出て来ますので、隠せるものではありません。ついポロッと本音が口を突いて出たりすることがあります。詩篇141:3に「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守って下さい。」とダビデが祈っていますように、自分の唇に悪い言葉が出てこないように、常に番人を置いて見張らせて下さいと言いたいです。

また「愛と純潔」においても人の模範になることです。愛の行動が一歩道を踏み出して、性的な間違いに陥ってしまうことがよくあります。教会は今も昔も、そしてどこの教会でも男性も女性もおられます。特に女性の方が多いです。ですから教会員同士の間では、性的な間違いを犯さないように気を付けなければなりません。また、いかがわしい話を口にすることや、性的不品行は絶対に慎まなければなりません。よくテレビのお笑い番組で盛んに言っているような冗談や卑猥な話も避けるべきです。

神学校を卒業する時に、一人の先生が卒業生にこう言って激励してくれました。「諸君は、これから教会に遣わされるわけだが、お金に関わる金銭トラブル、そして賭け事などのギャンブル、そして女性問題の性的トラブルに巻き込まれなければ、生涯一人の牧師として立派に成功します。この三つだけは絶対に気を付けてください。」と。

3.聖書朗読と勧めと教えに専念せよ

さてでは、どうしたら私たちもテモテのように言葉において、行動において、愛において、信仰において、純潔において信徒の模範になりうるようなクリスチャンになることができるのでしょうか。13節から読んでみます。「わたしが行く時まで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老があなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」(4:13~15)

「聖書朗読」というのは、当時、聖書という文書が少なかったということがあげられます。ユダヤ教の聖典である旧約聖書がありましたが、これは誰でも手にして読めるというものではありませんでした。教会に巻物のような聖書が一冊あれば良い方だったかもしれません。これを教会の長老が読み上げます。その言葉を会衆が聞きます。また、パウロから送られてきたいろんな手紙類があったでしょう。それをまとめたのが新約聖書です。また、信徒の方々の中で文字を読むことができない人が多く、誰かが聖書を朗読し、それを耳で聞いていたようです。そして、その教会の牧師や教師が説明して人々に聖書の意味を解き明かしていました。いずれにしましても、聖書はまず声に出して読まれるべきものです。今日のように、誰でも聖書をもっていても、やはり聖書は声に出して読む、朗読するということも大切な読み方です。

次の「勧め」というのは、聖書の言っていることを、ただ聞くだけではなく、自分たちの生活にあてはめて生活するようにと勧めることです。生活全般にわたってクリスチャンとしての生き方についての指導と勧告をすることです。余り夜遅くまで起きていないで、早く休んで、朝のデボーションを持ちましょうとか、夫婦関係、親子関係、そしてクリスチャンの信仰生活全般にわたっての具体的な指導など勧告などです。そして聖書に書いてあるような、正しい生活をすることです。言葉において行動において、愛、信仰、純潔の点で人に非難される生活をやめて、神の前に正しい生き方をすることです。それらはすべて聖書から来ます。聖書の教えを離れては、ふしだらな生活、乱れた生活になってしまうことは火を見ることよりも明らかなことです。

「教え」というのは、聖書の神についての教え、人間の罪の問題やイエス・キリストの十字架と復活についての教理を教えることです。今、毎週の祈祷会では、キリスト教入門講座として「聖書の教理」を学んでいます。神について、人間について、イエス・キリストについて、聖霊について、そして教会について、キリストの再臨についての教理をしっかりと身に着けることです。

4.進歩があらわれるために

ここに「専念しなさい。」という言葉がありますが、これは英語でattend となっております。attend という言葉は、「専念する、傾聴する、世話をする」という意味がありますが、皆さんがよく知っている言葉に、cabin attendant (客室乗務員)という言葉があります。スチュワーデスさんのことですね。つまり、このような御言葉の働きに専念するということは、何か上から教えるというのではなく、CAが、機内でお客さんにいろいろお世話するように、信徒の声を傾聴して、信徒に仕えるようにして御言葉を語り続けなさいということではないでしょうか。

15節でも繰り返して、「これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。」と言っています。そしてその次に、「そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」とパウロは言っております。つまり、聖書の御言葉の朗読、そして聖書の勧め、聖書の教えにattend 、専念する時に、あなたの信仰も成長し、伝道や牧会の働きにも進歩が見えてくるということです。
いかがですか、皆さんもパウロのようになりたいと思いませんか。イエス様のような働きをしたい、イエス様に似るようなクリスチャンになりたいと思いませんか。イエス様までは行かなくても、パウロのように信仰者として、立派な福音宣教の働きの生涯を全うしたいと思いませんか。

もしそのことを願うならば、簡単です。この「聖書朗読、聖書の勧め、聖書の教理」をしっかりと学び、自分のものにして誰かにそのことを語って行けばいいのです。この御言葉の働きに専念して行くならば、あなたの信仰の成長も霊的な奉仕の進歩も、目に見えて明らかになって来るというのです。口語訳聖書では「すべてのことにあなたの進歩があらわれるため、これらのことを実行し、それを励みなさい。」と訳しています。

教会から離れて行って信仰を失いかけているクリスチャンや、既に信仰を捨ててしまっている「クリスチャン」のほとんどは、ここに留まらなかった人々です。「聖書朗読」「聖書の勧め」「聖書の教え」に専念しなかった人々です。残念です。「信仰は聞くことに始まる。しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とパウロは言いました。聞くことを止めてしまった人々です。私は皆さんがそうなって欲しくはありません。

5.自分自身と教えに気を配る

最後に16節を説明して終わりたいと思います。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」(4:16)

最後にパウロはテモテに二つのことに気を付けるようにと言っています。それは、「自分自身」に対して気を配り、注意しなさいと言っています。もう一つは「聖書の教え」について気を配ることです。牧師は、聖書の教えについて気を配り、教会の中に間違ったサタンの教えが入って来ないかどうかを注意しています。また、それと同時に、クリスチャンは「自分自身、プライベートの生活」についても十分と注意するようにと警告しています。

そして牧師や教師が身を持ち崩した場合には、本人だけがその責めを負い責任をとらされるだけではなく、御言葉を聞く人々をも救いから落としてしまうことになると警告しています。牧師が自分自身の私生活と、聖書の教えをしっかりと守って伝道牧会をするならば、牧会者だけではなく、聴衆である皆さんをも救うことになります。牧師が自分自身を汚したり、キリストの御名を辱めるようなことをした場合には、牧師本人だけではなく教会員の方の信仰もダメにしてしまうと言っています。

そうならないように、お互いに御言葉を朗読し、御言葉を自分と自分の生活にあてはめ、御言葉の教えをしっかりと心に刻みつけるようにしたいものです。そして共に、御言葉によって進歩して行きましょう。必ず、その人の言葉、行動、愛、信仰、純潔の点において進歩があらわれて来ます。そして、牧師であろうが信徒であろうが、それぞれの働きにおいて立派なイエス・キリストの奉仕者となって行きたいと願っています。

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