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逃れの町 (ヨシュア記20:1~9)

メッセージ

2011年11月27日富里キリスト教会
「逃れの町」
(ヨシュア記20:1~9)
2.血の復讐者

聖書の中に殺人と復讐について書かれている箇所があります。人類最初の殺人はアダムの長男カインが、次男のアベルを殺したことから始まっています。神様は、人間が殺人の復讐をしないようにカインの額に一つのしるしをつけられました。(創世記4:15)しかし、罪を犯してしまった人間は、自分が受けた傷の故に、そのままでは承服せず、その復讐を七十七倍にして仕返しをすると宣言しました。(創世記4:23~24)

そのような果てしない人間の復讐と報復の悪の連鎖を断ち切るために、主は十戒を通して「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、うち傷にはうち傷をもって償わせる」(出エジプト記21:23~25)定めました。これは同等の償いを定めたもので、人間が怒りや復讐心に燃えて、何倍もの報復をしないように定めたものです。

その時に、故意に人を殺した場合と、過失によって偶然、人が死んだ場合とを区別して取り扱いました。(出エジプト21:12~14)そして、ヨシュアに引き入れられて約束の地カナンに入ったイスラエルの民は、誤って偶然、つまり過失によって死に至らしめた過失致死の罪を負わされた人々への救済策を講じました。それが今朝の「逃れの町」という箇所です。そして、神様はこの間違って殺してしまった場合の過失に対する、復讐と報復の悪の連鎖をなんとか断ち切ろうとしました。

神様は、殺人という事実と結果を見るのではなく、その背後にある動機を見定める方です。これは今日でも、裁判の中で争点となるところです。故意の殺人か、誤っての殺人かです。これは、故意に復讐心を持って人を殺したりすることを防ぎ、社会の悪の連鎖を断ち切ろうとするところに意味があります。また、正しい者の血を流すことによって、この地が呪われないようにするためでした。憎しみが憎しみを産み、悪が悪を産み、果てしない争いの構図が出来上がってしまわないために、はっきりと故意の殺人と過失致死の殺人の区別をしました。それを調べ、正しい裁きを下すのが、この逃れの町だったのです。(その事件の区別についての判例は民数記35:9~28を参照)

3.逃れの町

過失致死の罪を負った者が逃れることのできる町は、ヨルダン川を挟んで、東側と西側にそれぞれ三か所づつもうけられました。これは、祭司やレビ人の知的な階層の住んでいる町が選ばれました。ちょうど50キロ間隔に、まんべんなくイスラエルの国の中に配置されていました。そして、何か事件が起こった場合には、すぐにこの町に駆け込むことができるようにしました。

20:7節以降を読んでみましょう。「彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではキルヤト・アラバ、すなわちヘブロンを聖別した。エリコの東、ヨルダンの向こう側では、ルベン族に属する台地の荒れ野にあるベツェル、ガド族に属するギレアドのラモト、マナセ族に属するバシャンのゴランをそれに当てた。以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、誤って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。」(20:7~9)

ですから、逃れの町に入ったら、判決が下されるまでその町から出てはいけなかったのです。正しい審判が下されるまで、その町にとどまらなければなりませんでした。その間、逃亡者の事案について、町の長老たちの手によって調査され、確かに彼は故意ではなく、誤って人を殺めてしまったということが判明すれば、その時の大祭司が死ぬまで、そこの逃れの町に留まっていることができました。そして、その時の大祭司が死んだ後、初めて自分の住んでいた町に帰ることが許されました。

4.現代の逃れの町

実は、この六つの町は、やがて来たるべき七つ目の町の到来を指し示していました。自分の過ちも、失敗も、そして自分自身の罪をも完全に赦し無罪放免にしてくれる町を指し示していたのです。それは独りの聖なる大祭司の死を通して実現する「完全な逃れの町」があることを待ち望みつつ指し示していました。

この逃れの町制度でも、その時の大祭司が死ぬことによって、拘留されていた人がやっと無罪放免となって自分の故郷の町に帰ることが赦されました。それと同じように、誤って人を殺し罪を犯してしまった者も、怒りと憎しみの感情で人を意図的に殺めてしまった者でも、ある一人の大祭司の死によって、自分の罪を告白して悔い改めるならば、完全にその罪が、故意であろうが過失であろうが赦されるところがあるのです。目に見えない霊的な逃れの町です。

そして、現代の最高の大祭司、完全で聖なる神の大祭司がイエス・キリスト様です。この大祭司は、十字架の上で血を流され御自分の死を通して、すべての人の罪を贖って下さいました。大祭司イエス・キリストの死によって、だれでもイスラエル人だろうが異邦人だろうが区別なく、この大祭司キリストの町に逃げ込むならば、罪が赦されるのです。この町では、誰でも例外なく完全な赦しと無罪放免が保証されるのです。それが、大祭司キリストの治める場所、キリストの体であるこの教会です。

教会こそ、だれでも例外なく故意であろうが過失であろうが自分の罪を告白して悔い改め、この大祭司の十字架を見上げるなら罪赦されて無罪放免の宣言がなされるのです。教会こそ、神の聖なる大祭司がその死によって建てられた完全な現代の逃れの町です。このヨシュア記に記されている「六つの逃れの町と大祭司の死」というのは、やがて来たるべきキリストの十字架の下にある場所、すなわちキリストの教会を指しております。

既に大祭司であるキリストは、我らの罪のために十字架の上で死んでくださいました。わたしたちの完全な誰でも逃げ込める七番目の逃れの町、それはイエス・キリストの十字架のもとです。その場所は、遠い所ではありません。かつての逃れの町は、一日以内の距離にありましたが、新しい逃れの町は、目の前にあります。誰でも自分の罪を告白して、逃げ込むならば入ることのできる場所です。

その町に逃げ込みましょう。いつでも町の門は開かれています。朝でも夜でも、主の前に時間の制限はありません。主は、その手を広げて、わたしたちがその懐に逃れて来るのを待っておられます。決して拒まれる方ではありません。大祭司キリストの血が、わたしたちのすべての罪も咎も失敗を過ちも赦して下さいます。今が逃げ込む時です。

この町の門が開いている間に命がけで「逃れの町に逃げ込みましょう。」そうでなければ、罪が後を追いかけて来て、わたしたちを滅びの中に引きずり込もうとします。この完全な逃れの町に入るならば、誰でも例外なく罪赦されて無罪放免となり自分の故郷に帰って行くことができます。今日がその時ではないでしょうか。                        (岡田 久)

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