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賛美しつつ主の庭に入れ (詩編100・1~5)

メッセージ

2010年9月5日富里教会
「賛美しつつ主の庭に入れ」
(詩編100:1~5)

1. はじめに

今朝は、詩編の100編を取り上げさせていただきました。5節しかない非常に短い詩編ですが、この中に、私たちの礼拝と賛美のあり方が力強く述べられております。今朝は、この詩編100編を通して私たちの礼拝のあり方、そして礼拝の中で賛美をするとは一体どういうことなのかを、学んで行きたいと思います。

2.招詞(1節「主に向かって叫び声をあげよう」)

招詞といいますのは、礼拝に来てくださいという招きの言葉です。あるいはこれから神様を心から賛美し、礼拝しましょうと言う呼びかけの言葉です。1節に「全地よ、主に向って喜びの叫びをあげよ。」とあります。皆さん、この言葉を聞いたことはないですか。英語で何というでしょうか。実は英語では、「SHOUT TO THE LORD」となっています。いつも教会学校の賛美の時に歌っている「シャウト・トウ・ザ・ロード」の賛美です。あの歌の歌詞に「SHOUT TO THE LORD ALL THE EARTH・LET US SING POWER AND MAJESTY PRAISE TO THE KING」という言葉があります。あの賛美は、この詩編100編からとったものです。

すなわち、礼拝の始めには、全地に向って、大きな声をあげて叫ぶようにして会衆を呼び集めるのです。遠慮がちに、小さな声でこれから礼拝が始まりますと言うのではなく、大声で人々を呼び集まるのです。あの、上野のアメ横の客引きのように、大きな声で、だれかれかまわず呼び込みをするのです。全地ですから、自治会の人も隣近所の人も友だちも親戚も道行く人も、だれかれかまわず主の前に呼び集めることです。これが1節の招詞の言葉です。ここから礼拝が始まります。

3.賛美(2節「喜び歌って御前に進み出よ」)

そして、次に賛美を歌うわけですが、私たちの礼拝でも讃美歌を歌います。普通の教会の礼拝に比べて、説教が始まるまでに、3曲歌います。これは少し多いと思う方もあるかも知れません。でも、神様の前に出るには賛美が必要なのです。賛美を英語でプレイズと言いますが、これは、神様の御性質(属性)をほめたたえることです。つまり、神様は愛の方、義なる方、そして恵み深く、その慈しみは絶えることがありません。そういう神様の愛、恵み、憐れみ、慈しみ、真実といった神様の御性質を、ほめたたえること、これが賛美です。

賛美は神様への最高の供え物であり、礼拝の最も大切な要素なのです。そういう神様への賛美を捧げつつ、礼拝する者も、神様の御性質である愛、恵み、憐れみ、寛容、平和な性質を持つものへと変えられてゆくのです。神に似たものへと造りかえられて行くのです。それが賛美の力と意味です。

偶像の神でさえ、神に会う時にはいろいろと準備をし、御供え物をしながら近づいて行って、初めてお会いできるのです。礼拝というのは、生きた霊である神様にお会いし、その御臨在の中に入り込むようなものです。私たちも、供え物が必要なのです。その最高の供え物、それは何かと言いますと、賛美なのです。しかも、喜びの賛美であり、お祝いの賛美なのです。この1節から2節の中に「喜び」という言葉が3回も言われています。この喜びこそが、詩編100編の基調、すなわち根底に流れているものなのです。この喜びの賛美を神様は最も喜ばれるのです。

では、何が喜びか。それはこの時代のイスラエルの人々の、一番の喜びは、自分たちの罪が赦されたという喜びなのです。あのバビロンでの囚人としての屈辱の生活から解放された喜びなのです。今、こうして神様と会うことが赦された、神様のおられる神殿に、その御臨在の中に入ってゆくことができるという喜びなのです。

そして、この現代の霊のイスラエルの民である私たちにとっては、私たちの罪が赦されたという喜びなのです。私たちには、イエス・キリストと言う大祭司がついており、このお方が、私たちの罪のために御自身の肉体をもって、私達を罪から贖い出して下さり、救いの業を成し遂げて下さいました。(ヘブライ書9:11~14)ですから、今私たちは、このイエスの恵みにあずかって、必要な助けをいただくために、大胆に恵みの御座に近づくことが出来るのです。神様から、一人子イエス・キリストを贖いの供え物としていただいているのです。このイエス・キリストを喜ぶこと、このお方の救いを感謝し、主の御名を喜び賛美すること、これこそ何にも変えがたい最高の供え物なのです。イエス様こそ、神様が準備して下さった完全な供え物です。

私は今日はこのことを声を大にして言いたいのです。主を喜ぶ賛美の叫び声を、そして喜びの賛美の声を、今日からあげてゆきましょう。主を賛美すること、主を喜ぶこと、ここに私たちの力の源があります。シャウト・トウ・ザ・ロード!!

4.宣教(3節「知れ、主こそ神であると」)

そして賛美しながら、主の前に来て、主の御言葉をいただきます。そして主がどんなお方であるのかを知ることができるのです。「知れ、主こそ神であると、主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」(3節)とあります。御言葉を通して、神様がどんなお方であるのかを知ることができます。主は私たちを創造されました。そして私たちを主の所有物だと宣言して下さいました。主は私たちを御言葉をもって、日々に養って下さるお方です。

神様を礼拝し、神殿に行って主を礼拝するということは、神様をもっと深く知るということです。神様はどういうお方か、聖書のみ言葉を開いて、神様ご自身を目の前にはっきりと示すことです。ここでは、主は牧者であり、私たちはその牧の羊であると告白しています。ですから、主への賛美は、御言葉からその賛美の根拠が与えられるのです。

イエス様は羊飼いとして、道に迷った私たちを探し出し、見つけ出して連れ戻して下さるお方です。死をもかえり見ず、命がけで、私たちを死から救い出し、弱った私たちを肩に担いで仲間のところに連れてきてくださいます。まさに「私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れです。」(100:3)

5.主への応答(4節「感謝と賛美をもって主の庭に入れ」)

最後に、4節には「感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」とあります。これは、御言葉を聞いて、更にもう一歩主の前に進み出る事です。主の門に進み、さらに主の庭に入ります。神殿で言いますと、最も聖なる場所、至聖所へと入ってゆくことを意味します。神様と面と向って合間見える場所です。

そして神の庭で、神様と親しくお会いし、神との交わりを持つことができます。今まで固く閉ざした心が開かれて、神様を受け入れ、涙を流しながら神様の愛と安らぎの中に憩う一時です。悔改めと罪の赦しが起こります。和解の業がなされます。神様のいやしが起こります。ある人には大きな神のビジョンが与えられるかもしれません。牧師、あるいは宣教師になるという決心が与えられるかも知れません。今まで中途半端な生活を悔改めて、もう一度、新しく生まれ変わって信仰生活を最初からやり直すという再献身が与えられる人がいるかも知れません。

礼拝の中では、ここで献金の時間となっていますが、これは、単に献金をするということだけではなく、自分の全生涯,自分自身を神様にささげますということの現われとしての献金の奉仕です。十一献金をささげる方がいるかもしれません。これは、私の生活費の全ては神様からのものです。ですからその全てをお返しする思いで、全生活費の中の十分の一をささげます、これは私の全てです。神の恵みに対する感謝の応答として献げる時です。

6.頌栄と派遣(5節「主は恵み深く慈しみはとこしえに」)

最後に、主の恵みと慈しみを賛美しつつ、そのことがとこしえまでも続くこと、そして主の示された真実は、時代を経ても変わることなく続いてゆくことを歌っています。とこしえにとか世々に及ぶということは、変わることのない主の真実を表わしていますが、それは時代を超えて受け継がれてゆくことを意味しています。ここに、私達クリスチャンは、主の恵みと真実をたずさえて、世に出て行って、そのことを未来に向って人々に宣べ伝えるものであることを宣言しています。派遣の祝祷の時です。祝祷は自分が個人的に受けて、自分で取って置くものではありません。神の祝福を受け、その祝福をたずさえて世に出て行って、福音を宣べ伝えるためのものです。

GOD BLESS YOU、この神様の祝福を受け、これをたずさえて全世界に出てゆくことです。そして家庭で職場で学校で地域で、いつでもどこでもあらゆる人にこの神の祝福を分け与えることです。これが証の生活です。私たちはこの祝福をたずさえ、祝福に満たされてこの世に遣わされて行くのです。これが最後の頌栄と祝祷の場面です。主を喜びましょう。賛美こそ我らを救ってくださり、今も共にいてくださる主イエス・キリスト様にふさわしい、最高の供え物です。ですから、信仰を持って霊によって、生ける限り主を心から賛美して行きましょう。ハレルヤ! ハレルヤ! 
                                   (岡田 久)

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