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試練と誘惑 (ヤコブ1:2~4、12~15)

メッセージ

2015年8月9日富里キリスト教会

「試練と誘惑」
(ヤコブ1:2~4、12~15)

1.試練と信仰

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けた所のない人になります。」(ヤコブ1:2~4)

先ほども申しあげましたが、試練のない信仰生活はありません。信仰生活は、あの海を渡ってこれから何もない砂漠の道を行こうとするようなものだからです。もし、信仰生活に入って幸せになりたい、楽な生活楽しい生活を送りたいと願っているならば、その人は道を間違っていることになります。確かにエジプト記の中でも、海を渡って地中海沿いにまっすぐ北上して、短期間で約束の地に進む近道もありました。しかし、神はあえて海沿いの平坦な道ではなく、南の砂漠への遠い迂回路を通らせたのであります。しかも40年の間、その道を行かせました。なぜならば、その厳しい試練の道を通ることによって、人生でなくてはならないものは何か、一番大切なものは何かをイスラエルの民が学ぶためでした。そのために遠く厳しい荒野の道へ導きだしたのでした。信仰の道を選んだがために、逆に試練の道を通させられるのです。

ですからヤコブはここで、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と言っています。試練に出会ったら喜びなさいです。ペテロも同じようなことを言っています。「いましばらくの間は、様々な試練で悩まねばならないかもしれないが、あなたがたは大いに喜んでいる。」(Ⅰペテロ1:6)と。なぜならその時には信仰が試されるからです。そして試練の炎を通してその信仰が本物かどうかが証明されるからです。この世のいろんな余分なものが炉の火で吹き飛ばして、これ以外にないという本物の信仰へと磨き上げられるためです。まさに試練こそ、わたし達の信仰を鍛えるための最高の訓練の時と言えるのです。ですから、この上ない喜びと思いなさいと言っているのです。

「道」という漢字は、首に「しんにゅう」がついてできた漢字です。「しんにゅう」は人が歩いて行く姿を表しています。そしてその人生が、「首」によって歩くときに、本当の道ができるのです。「首」とは何かと言いますと、「かしら」すなわち私たちの頭、主人であるイエス・キリストが共に歩いて下さる人生です。ですから荒野への試練の道と言いますのは、どんな苦難や試練がありましても、イエス・キリストが主(首)としていつも共にいて下さる道です。「主が共におられる」ということを確かなものにして行くための道、それが信仰の道であり荒野の道です。まさに主を信じる信仰が確かなものとなるための旅、それがわたし達の信仰の道でもあるのです。

反対に、自分が偉くなって名をあげようとするこの世の道は、「しんにゅう」と「偉人」の「偉」という漢字が一緒になった漢字です。これは「違う」という漢字になります。「違う道」とは本来人間が行くべき道ではない、違う道のことです。真の道というのは、自分が偉くなる道ではありません。首なるキリストが偉くなる道なのです。試練の時はというのは、わたし達が自分、自分という上へ上へと向かう立身出世の道を砕かれて、自分に死んで、主イエスキリストを主とする道です。主に従う真の信仰者になって行くための、恵みの道でもあるのです。ですからヤコブもペテロもそしてパウロも「試練に出会ったら喜びなさい。」と励ましているのです。

試練を通して忍耐力が養われ、それによって完全なクリスチャンに鍛えられてゆくからです。それは喜びであり、落胆し失望することはないというのです。でも自分から進んで試練の中に飛び込む必要はありません。「試練に会わせないでください」という祈りも大事です。信仰が練られなくてもいいように普段からしっかりと御言葉に聴き従って行くものでありたいと願います。聖書は、もし何か突然の試練や苦難や災難に襲われても、わたし達が驚いたりあわてたり神を疑ってしまうことのないようにしていなさいということを教えています。

2.誘惑と罪

次に試練と誘惑の違いについてみてみましょう。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(1:12~15)

試練は神から来て、わたし達を聖なる者へと鍛錬して、神の神性さにあずからせて下さいます。それが試練です。ですから試練にあったときには喜びなさいと言っています。しかし、誘惑はそうではありません。これは神から来たのではなく、人間の内に持っている欲に唆されて、その罠に落ち込んでしまうと言っています。この試練と誘惑という言葉は、日本語では違いますが、原語のギリシャ語ではどちらも「ペイラスモス」という言葉です。時には試練になり、時には誘惑になります。そういう意味では試練と誘惑は一緒に起こるということかも知れません。

例えば人生いろんな試練があります。会社が倒産した。家族の者が病気になった。交通事故に遭った。例えば、突然会社が倒産して、一家の生活が成り立たなくなった。その上、子供たちには教育費がかかる、家のローンの支払いもしなければならない。次々と突然の試練が襲ってきます。教会でもあります。誰かが教会から離れて行った、それにつれて他の人も一緒に何人か出て行った。みんなの不満が突然、牧師家族にふりかかって来る。「どうして?」「何で!」と考える暇もないほどに、次々と苦難や試練が襲ってくることがあります。

問題はそこです。その差し迫ってくる試練を受け止めることができるかどうかです。その試練を避けようとしたり、何か別なことに気を紛らわしたりする時に、今度は誘惑が襲ってきます。目の前の問題にしっかりと目を向けて、それと向き合って、問題解決のために戦おうとするのではなく、それから目をそらそうとする時に、試練が誘惑になるのではないでしょうか。

例えば、経済的にも苦しくなって、にっちもさっちも行かなくなり、そこから逃げ出したいと思う時に、ある人は薬に走ってしまったりするでしょう。またある人は、ギャンブルにのめり込んでしまって一時的にもその苦しみから逃れようとするかもしれません。またある人は、食欲、食べ物にのめり込んで過食や拒食になってしまうこともあるでしょう。またある人は性的な刺激に走って、みだらな画像や映像にのめり込んでしまうこともあるでしょう。

そしてそういうふうに、試練を真正面から受け止めることなしに、そこから目を背けようとする場合に犯しやすい過ちがあります。それは、「わたしは神様に誘惑されているのです。」という言葉です。自分が罪を犯し、試練を避けようとしている人は、その試練に耐えられなくなり束の間の快楽や興奮に自分を忘れて、ますます誘惑にのめり込んで行くのです。そして自分のせいではない、これはあの人が悪いのだ、あの人のせいでこうなったのだと言って、現実から目を背け逃避する時に、神がわたしを誘惑した、神のせいだと言ってしまうことがないでしょうか。

自分のせいにしないのです。どこまでも他人のせいにして自分の非を認めない、あのアダムのような言い方になってしまうのです。神様が禁止した木の実を食べてしまったアダムに「何故、食べたのか」と尋ねた時に、アダムは「あなたがわたしに与えたあの女、エバがそうさせました。」と答えました。自分の罪の責任を認めないで、エバのせいにし、しかも今度はエバを与えた神が悪いと言わんばかりに反論しています。

あのイエスの弟子であるペテロとユダも、二人とも十字架の場面で同じような試練に会いました。でもペテロはその試練の中で、自分の罪深さに気が付いて主の前に涙を流して悔い改めました。でも、ユダはどこまでも自分を貫抜きつづけました。どこまで行っても自分の非を認め、悔い改めようとはしなかったのです。彼は、銀貨30枚というお金が欲しかった、彼はイエスの次に来るナンバー2の地位を欲しかった、彼は人々の賞賛を欲しいと思いました。

そして何よりも自分は義しいと信じたのです。最後まで自分の義、自分の正しさを貫き通しました。その結果が自殺です。自分の罪を認めない、そして神の義である十字架を認めない人間の行き着く先です。自殺は神に対する最大の罪です。神が与えた命を、自分で抹殺してしまうからです。わたしは試練の目的は、神様の前に自分が罪人であることを認めて、自分の非を認めて罪を悔い改めることではないかと思います。試練に会わない人はいません。誘惑に遭わない人もいません。どちらも大事なことは、主の前に自分の罪を認めて悔い改めることです。何度も何度もです。毎日毎日、熱心に悔い改めることです。これが信仰です。

ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っています。これがこのヤコブの手紙の主題です。もしわたしたちがこうして説教を聞くだけで、御言葉に従いそれを行わなければ、真に信仰によって生きているということにはならないのです。聞くことは行うことです。御言葉に聴く人は、皆、御言葉に従う人です。

わたし達が、耳にタコができるほど何度も何度も暗記した御言葉があります。「わたしはあなたに向かって罪を犯すことのないように、心のうちに御言葉を蓄えました。」(詩編119:11)心の中に御言葉を蓄えることです。そうすると御言葉が試練の中にあっても、甘い誘惑の言葉に誘われても、それを退けることができます。また罪に落ちいっても、悔い改めに導いてくれます。イスラエルの荒野の旅は、実にこの神の御言葉にのみ生きる民となるための40年間でした。40年の苦難の年月です。長い年月がかかりました。この命の御言葉を求め、御言葉に立って、この長い信仰の旅路を共に歩んで参りましょう。

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