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見よ、わたしはすぐに来る (ヨハネ黙示録22:8~17)

メッセージ

2016年6月12日富里キリスト教会

「見よ、わたしはすぐに来る」
(ヨハネの黙示録22:8~17)

1.主の再臨の時が迫っていて、
中間の立場は存在しない

主の再臨の時が迫っているということを見てみましょう。
「また、わたしにこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者には、なお汚れたままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。』」(黙示録22:10~11)

キリストが再臨すると言われて続けて、早や2016年経ちました。しかしわたしが言いたいのは、キリストが来るのが遅いと不信仰になる必要はないということです。二千年くらいあっという間です。ただここで言わんとしていることは、時が迫っているから、キリストの再臨なんかあり得ないと思ってはいけないということです。ただ大事なことは、必ず起こるということです。聖書では「その時が迫っている」と言っています。英語ではthe time is nearとなっています。

それぞれの教会が、そして信徒一人一人が目を覚ましてその時を待ち続けるのです。突然主が来られてもすぐに対応できるようにしておくことです。それがこの信仰生活、教会生活をしっかりと守るということです。それが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別し、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~22)という生き方です。

聖書にはこう記されています。「不正を行う者には、なお不正を行わせなさい。汚れた者には、なお汚れるままにしておきなさい。」と。これが神の審判です。神様は、悪を行っているものを懲らしめたり、戒めたりして立ち直らせようとしません。本人の自由意思に任せています。悪を行っている者を懲らしめて、悔い改めるようにしていません。いやむしろ、悔い改めさせようとして彼らに罰を与えても、不正を決して止めることはないでしょう。どこまでも隠し続けるでしょう。そうすることによって、自分で自分を裁きに定めてしまっているのではないでしょうか。

イエス様はこう言っているような気がします。「わたしは一人一人に、信じるようには強要はしない。人間は自分がなりたいと思う人になればいい。ただわたしを選ぶ人をだけ、わたしはその人を新しく造りかえることができる。」というのです。目の前にその人の汚れを洗い落とす石鹸とお湯とタオルが置いてあるだけです。後は本人が自分を清くしたいと思えば、その石鹸を選んで使えばいいだけなのです。自分の裸の体を洗い清めなさいと勧めはしますが、無理に石鹸を使わせようとはしないというのです。

そしてもう一つ、不正を行っている人と正しいことを行う人の二つに一つ、人間はどちらかしかないということです。最後の時にその差がはっきりと出て来ます。悪を行う者はどんどんと悪に染まって行き、戻ることができないところまで自分を汚して行くのです。そして、聖くなる人はますます聖さを求めて聖くなって行くというのです。この中間層、どちらにも属さないという人はいません。浮動票はありません。必ず最後の時には、どちらかになるのです。

2.自分の衣を洗い清めて悔い改めよ

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、淫らなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(22:12~15)

もうすぐ来られるお方は、初めであり終わりであられるお方です。この「アルファでありオメガだ」というのはギリシャ語ですが、英語ではAからZまでという意味でしょうか。完全なお方だということです。そしてまた永遠におられるお方だということです。歴史の始めから終わりまでです。そしてこの宇宙の誕生から最後までを御支配する権威を持ったお方だということです。完全、永遠、権威を持った方を、アルファでありオメガだと言っています。初めであり、終わりであり、最初の者にして最後の者なのです。

ですからわたしたちの汚れを完全に洗い落とし、不完全なわたしたちを神の前に傷も汚れもない完全な者として下さる力を持っているということです。わたしたちは自分で自分の汚れた衣を清くすることはできません。完全なお方、権威を持ったお方だけがわたしたちを清くすることができるのです。キリストは白馬にまたがった騎士として、御自分の完全な罪を洗い清め赦すことのできる十字架の贖いの血潮を持って、ご自身の血染めの衣をもって、わたしたちの汚れた衣を清くして下さることがおできになるのです。(19:13)ですから、イエス・キリストを信じるものだけが、自分の衣を洗い清めて、命の木にあずかる権利が与えられ、都の門をくぐることができるのです。

このアルファであり、オメガであるお方は、今は、暗闇に輝く明けの明星として輝いていますが、それはやがて来足るべき新しい世界の先駆けとしてこの世にあって輝いているのです。「私、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしはダビデのひこばえ、その血族、輝く明けの明星である。」(22:16)と言われました。ペテロもこう言っています。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものになっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る時まで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していて下さい。」(Ⅱペテロ1:19)

ですから今はまだ夜明け前の暗い時代ですが、やがてまもなく夜が明けて全く新しい新天新地が成就し、わたしたちはキリスト共に顔と顔を合わせてハッキリと見る時が来ることを告げています。ですからこのダビデのひこばえ(若枝)であり、明けの明星であるイエスの預言の言葉に目を留めて、ひたすらその御言葉の約束を待ち望みたいものです。たとえ人生の途中で、先に息を引き取るようなことがありましても、彼らは今もキリスト共に生きているのです。ですから、わたしたちも決して気落ちすることなく、あきらめたり失望落胆することなく、この聖霊様が教会に語っているあかしの御言葉をしっかりと見つめて前進してまいりましょう。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(22:12)「だからこの預言の言葉を一心に見つめ、ひたすら待っていなさい。」(Ⅱペテロ1:19)これが、この書物の書かれた目的なのです。

6.命の水を飲みなさい

最後に、すべての人がこの宣教の言葉と教会の証しの言葉に耳を傾けて、神の国の救いに飛び込んで来る時だということを述べています。「“霊”と花嫁とが言う。『来て下さい。』これを聞く者も言うがよい。『来て下さい。』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい人は、価なしに飲むがよい。」(22:17)霊というのは、この説教の言葉を語らせている聖霊様の声です。そして、花嫁というのは、教会の声です。教会が世に向かって福音伝道をする言葉です。つまり聖霊様と教会は、共に主に向かって「主よ、早く来て下さい。」と祈っています。そしてこの教会の語る聖霊様の声を聞いて、心の渇いている人も一緒に「主よ、来て下さい。」と祈ろうというのです。

今は教会を通して聖霊様が世の中に向かって語っております。声は聞こえなくても、福音が地響きを立てて全世界を駆け巡っているのです。そしてその教会の宣教の言葉を聞いて、信じるものはだれでも遠慮せずに、命の水を飲みなさいと告げています。この命の水は誰にでも、心が乾いている者には価なしに無償で飲むことができるのです。

生前、主はこう言われました。「渇いている者は誰でも、わたしの所に来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)と。心が乾いている人は誰でも、わたしの所に来なさいとおっしゃいました。誰でも遠慮せず、この命の水にありつくことができるのです。誰でも飲むことができるのです。それはイエス様ご自身のことです。

「見よ、わたしはすぐに来ると」と主は、何度も語っています。来られることは事実です。東日本大地震のような地震が、もう一度来ること以上に確かなことです。主の再臨は今晩かも知れません。明日かも知れません。1年後かもしれません。その時、主はそれぞれの行いに応じた報いを携えてやって来られます。今は救いの時です。誰でも罪を悔い改めて主を見上げるならば、救われます。どうか手遅れにならないうちに、今日といううちにこの命の水であるイエス・キリストを信じませんか。信仰を持っている人も、熱心に罪を悔い改めて御霊の聖めをいただきましょう。今は恵みの時であり救いの時なのです。

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