ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

見えるようにしてください (マルコ10・46~52)

メッセージ

2010年8月22日富里教会
「見えるようにしてください」
(マルコ10:46~52)

1. はじめに

さて、今朝は、本来ですと詩編を取り上げるのですが、特に最近、神様から教えられている事として、マルコによる福音書の中から、盲人バルティマイのお話を取り上げさせていただきました。もう一度、読んでみましょう。

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:46~52)

2.叫び続ける信仰

場所は、エリコの町です。エリコの町は今でも砂漠の中にナツメヤシの木がたくさん立っているオアシスのような町です。ここで思い出すのは、あの取税人ザアカイのお話ですね。そして、今日の盲人バルティマイのお話もこのエリコの町での出来事です。バルティマイという名前、そしてティマイの子と生まれも育ちもはっきりしています。みんなが知っていました。聖書にわざわざ名前がはっきりと記されていると言うのは珍しいし、重要な人物だと言う事です。

彼は、人々の気配や話し声を聞いて、イエス様の一行がやって来たことを察知しました。長い間、目が見えず、家族もいない、孤独なホームレスのような生活をしていました。そして、道端に座って、通る人に物乞いをしながら、その日その日を送っていました。何の因果でこうなったかは知りませんが、光が見えない、真暗な、孤独な人生を歩んでいました。その彼の前を、唯一世の光であるイエス様が通られたのです。彼にできること、この千載一遇のチャンスを捕らえる事でした。そして彼ができる唯一のことといえば、イエス様の名前を必死に叫んで、引きとめ、何とかその哀れみにすがる事でした。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と、彼は2回も叫びました。信仰のチャンスと言うのは、いつもこうです。人生のただ一点、一瞬のチャンスを捉えないと、そのチャンスは過ぎ去ってしまいます。そしてなりふりかまわず、必死に助けを求めることです。

しかし、現実は、世の中がそれを許しません。48節に「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした。」とあります。おそらく、「うるさい!黙れ。乞食の出る幕じゃない。あっちへ行け!」と叱りつけたのでしょう。周りが、この盲人の乞食が救われるのを許しませんでした。あの収税人ザアカイの時もそうでした。町の人は、背の低いザアカイがイエス様に会うことを妨げました。それでしかたなくザアカイは、いちじくの木に登りました。バルティマイは、木に登ることができませんでしたから、必死にあらん限りの声を出して叫ぶしかありませんでした。

正直言って、信仰に入ろうとするといろんな障害物が出てきます。周りが許さないのです。仕事がどうなるだろう。家族は賛成するだろうか。みんな「信仰に入ったら大変よ。抜けれなくなるから、ほどほどにしたら。」とか、「お墓や御先祖様はどうするの?」という声が聞こえてきます。でも、バルティマイは誰が反対しようが、自分にとっては人生でこれが最初で最後、この機会を逃がしたら、また、あの惨めな物乞いの生活が待っている、そう思うと、何が何でもイエスに救いを求めたのです。この生活から抜け出したい、この真っ暗な人生と決別して、明るい新しい人生を歩みたいと思いました。

「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」英語では、「Jesus!Have mercy
on me!」です。(一緒に叫んでみましょう。)ただ、ひたすら誰がなんと言おうとイエス様にすがりたい、そういう思いがバルティマイにあらん限りの声を出させました。周りがなんと言おうと、たとえ拒否されても、叱られても叫び続けたのです。この叫び続ける信仰、必死に主を呼び求めてやまない信仰こそ、主の耳に届き、主の足をとどめることができるのです。

3.何をしてほしいのか

49節を読んで見ましょう。
「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。」(マルコ10:49~51a)

この叫び声が、イエス様の耳に届いて、イエス様が足を止め、彼を呼ばれました。「あの男を呼んできなさい」と主は言われました。そして、イエス様はバルティマイにこう言いました。「わたしに何をして欲しいのか」と。英語では「What do you want me to do for you」となっています。ある人はこのバルティマイのように、必死に、そして熱心に主を呼び求めるかも知れません。そういう熱心さは必要です。でもイエス様は、バルテマイにこう言いました。「何をして欲しいのか?」と。これは、私たちに対するイエス様の問いでもあるような気がします。このイエス様の御言葉に少し注目してみましょう。

私達は、目が見えていますから、バルティマイのように「私の目が見えるようになりたいです」とは言わないでしょう。牧師でしたら、「多くの人がバプテスマが与えられるように。」「教会がもっと大きくなるように。そして、この地方にもっと多くのバプテスト教会が立てられますように」と答えるかもしれません。でも最近、それが果たして正しい答えだろうかと考えるようになりました。自分はいったい、イエス様に何を求めているのだろうか、ともう一度考え直してみました。いったいわたしの信仰はどこにあるのだろうか、という問いとも同じですね。

3.見えるようにしてください

イエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねる事によって、いわば私たちの信仰を試されているのではないかと思います。51節の後半から読んで見ましょう。
「盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこでイエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(51b~52)とあります。バルテマイはその通りに、「目が見えるようになりたいのです」と願いました。すると主は、「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、これば正しい答え、主が願っていた答えであり、これが信仰そのものだということです。英語では、「Lord have mercy on me. I want to see」(主よ、わたしを憐れんでください。見えるようにしてください。)と言う、非常に単純な短い言葉です。だけど、この言葉の中に、私たちの信仰の真髄があるような気がします。これこそ、私たちが生涯かけて、熱心に祈り求めて行くものではないでしょうか。「主よ、私を憐れんでください。目が見えるようになりたいのです。」

そして、イエス様は、「あなたのその信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。さて、では信仰とは何でしょうか?私は今回このお話を通しまして、信仰とはイエス様が良く見えるように願う事だと思いました。このような信仰を主は待っておられるのではないでしょうか。家族の救い、教会が成長する事、多くの魂が救われること、スモ-ル・グループがたくさんできることも心から願っている事です。でも、最も大切な、なくてならないもの、そして全ての事に優先する第一のことは、まず、イエス様の姿が、私たちの心の目に、はっきりと見えるようになることではないでしょうか。そしてそのことを、第一に、熱心に叫び続け、願い求めてゆく事、これがイエス様が願っていた信仰ではないかと思います。「イエス様、あなたがどんなお方か分かるようにしてください。あなたの御性質、あなたの御業、あなたの愛が、あなたの力が、もっとはっきりと見えるようにしてください。これが私たちの信仰ではないでしょうか。

パウロ先生もこう祈っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように。」(エフェソ1:17~18a)つまり、わたしたちの心の目が開かれる事です。そして、神様の愛と祝福、イエス様の十字架の恵みが、知恵と啓示の霊によってもっとはっきりと知ることができるようにしてください。これこそが、一番大切な信仰の祈りではないでしょうか。イエス様はそのような信仰を求めています。それがあの盲人バルティマイの「見えるようにして下さい」というたった一つの願いだったのではないでしょうか。

バルティマイも、すぐに見えるようになって、イエス様の後に従いました。私たちもこのバルティマイの信仰に習いたいものです。「主よ、あなたがもっとはっきりと見えるように、私の心の目を開いてください」そして、「イエス様が祈ったように祈ることを教えてください」「イエス様が教えたように、教えることを教えてください」「イエス様が伝道したように、伝道することを教えてください」。まず、イエス様の姿が、イエス様の業が、イエス様の御性質が見えるようにしてください。そういう祈りを、あのバルティマイのように、熱心に叫び求めて行きたいと思います。
                                           (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional