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苦しみの実り (イザヤ53:10~12)

メッセージ

2016年3月20日富里キリスト教会

「苦しみの実り」
(イザヤ53:10~12)

1.父なる神の望みは、
子なるキリストによって成し遂げられる

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの供え物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、主の手によって成し遂げられる。」(53:10)病気で苦しんでいるわが子を、神は更に徹底的に打ち砕こうとされたと聖書にあります。いかがですか、皆さん。病気で苦しんでいる自分の子供を、もっと苦しめようとする親がいるでしょうか。しかも死んでしまうまで、打ち砕こうとしているのです。

もしキリストが、この苦しみに耐えかねて、この痛みと苦しみから逃れようとしたらどうなったでしょうか。主イエスは逮捕される夜、弟子達と一緒にゲッセマネの園に行って祈りました。そしてそこで主イエスは「父よ、できることならこの苦しみの杯を過ぎ去らせて下さい。」(マタイ26:39)と祈りました。でもその後に、「でも私の願いではなく、お父様の願いの通りになりますように。」と祈られたのです。

この父なる神の願っていることに従うかどうかは、御子の決断にかかっていたのです。苦しみの杯を避けることもできましたし、避けたいとも祈りました。しかし、長く苦しい血と汗が出るような祈りの末に、キリストがなした決断は、苦しみとそれに続く死をも受け入れることでした。「わたしの願いではなく、お父様の願いどおりになりますように」と。これが53:10の後半の「主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」という言葉に意味です。

わたしたちの罪が贖われるためには、どうしても罪のない人の痛みと苦しみによらなければなりませんでした。律法によれば、「いけにえの血を流すことなしには罪の赦しはあり得なかった」(ヘブライ9:22)からです。罪のない聖い完全ないけにえの献げ物は、神御自身以外には考えられませんでした。それが神の独り子であり、神御自身であるイエス・キリストなのです。キリストの決断いかんによって、わたしたち人間の罪が贖われるかどうかがかかっていたのです。

ここに神様の真実と義が明らかに示されました。神は御子イエス・キリストの罪の贖いの死によって、神の愛と義を示されたのでした。誰が何といおうと、神はこの世を救おうとされ、ご自身の一人息子の死を通して、自分の本音を表したのです。その思いというのは、どこまでもこの世を愛しているという思いでした。誰にも邪魔されない、神の側からの証しでもあったのです。三位一体の神御自身の中で、すでにその救いの御計画は練られ、御子の十字架によって、最終的に完成され、成し遂げられるのです。「主の望まれることは、御子の手によって成し遂げられる。」ということの意味なのです。

ですから「彼(キリスト)は自らを償いの献げ物とした。そして彼(キリスト)は、子孫が末永く続くのを見る。」(53:10)と確信したのでした。この父なる神の愛と子なる神キリストの従順によって、神の義と愛が、あの十字架上で成し遂げられると言うことを、イザヤは人々の前に預言したのです。そしてその預言が今から二千年前に、あのカルバリの丘で成就しました。イエス・キリストが最後に十字架の上で叫んだ言葉が、そのことを示しています。主イエスは、最後に「救いは成し遂げられた=ギテテレスタイ」と言って息を引き取られました。

2.苦しみの実りを見る

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らを投げ打ち、死んで、罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成したのは、この人であった。」(53:11~12)

キリストは十字架の上で、自分の苦しみと死がどんなことを意味するのかを見ていました。そしてその結果を知っていたのです。そしてその結果のゆえに、キリストは満足していました。御自分の苦しみと死によってどういう結果が起こるかということを十分に知り抜いていたのです。どういう結果が待ち受けていたかといいますと、一つは、「自分が人々の罪を身代わりに負うことによって、多くの人々の罪が赦され義しい者とされる」ということです。二番目には、「その救われた人々の魂はすべて自分(キリスト)のものとなる」ということです。そしてその「信仰の子孫は永遠に続くこと」を見ていたのです。

今までの血筋による肉の子孫ではなく、信仰による霊的な子孫として多くの子供を産む者となるということです。新しい霊のイスラエルの誕生、教会の誕生の預言です。その約束の言葉がつぎの4:1に預言されています。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも多くなると主は言われる。」(54:1)

これは、イエス・キリストの復活によって、新しい霊の子供が次々と誕生することを預言した言葉です。もはや夫婦関係ではなく、神の霊によって生まれ変わる新生者の国が来ることを預言しています。聖霊による神の子たちの誕生と教会の発展成長を預言した言葉です。このやがて来たるべき復活の命にあずかる霊的子孫の誕生を苦難の僕は、その苦しみの中にあってはるかに遠く仰ぎ望んでいたのです。ですから、主は、人々の罪を負い、人々の過ちを担い、屠り場に引かれてゆく子羊のように、黙々と十字架の道を歩んだのです。罪人のために執り成しの祈りを献げ、罪人のために自分の命を投げ打ち、自分自身を罪人の中の一人に置かれたのでした。

3.復活の光に向かって

前にも同じ旧約聖書のヨブ記を学びました。「なぜ自分だけがこんな未曾有の災難を受け、苦しまなければならないのか」とヨブは神に問い詰めました。その時に友人エリフが言った言葉の中にこう言う言葉がありました。それは「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」(ヨブ36:19)だから「今、光は見えないが、それは雲の彼方で輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。」(ヨブ37:21)という励ましの言葉です。人間はこの神の光の前にただ沈黙して、その救いの時を畏れかしこみつつ待つ以外にないというのです。なぜ、どうしてこんなことが起こったのかと神に反発しないで、神の前に沈黙して時を待つことが大切だと説いています。

これからも3・11のような災害は起こります。もっと大きな災害が起こるかもしれません。聖書には今の時代は、大患難の時代だと言っています。たとえそういう苦難や試練が襲ってきたとしましても、わたしたちは救いを成し遂げて下さったこの神の苦難の僕イエス・キリストを見つめて歩んで行くものとなりたいと願っています。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る時まで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していて下さい。」(Ⅱペテロ1:19)とあります。

今、光が見えなくても、その光は雲の彼方で輝いています。たとえどんなに雲がかかっていても、先が見えない時代でありまして、人間の心の闇が支配する時代でありましても、わたしたちは、その雲の彼方の光をすでに見ているのです。そしてその光に向かって走っているのです。苦しみの彼方に、その実り、永遠の命、天国という成果を見ているのです。その実りは、既に御子の十字架によって成し遂げられました。どんなに現実が厳しくても、わたしたちは心配しません。主が共にいて私たちの苦しみを担っていて下さるからです。この方が生きているから私たちも生きるのです。

「たとえいちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。」(ハバクク書3:17~19)という有名な御言葉があります。このイエス・キリストの十字架を誇り、このお方を喜び、やがてこの地上に来てすべてのことを明らかにして下さるお方を待ち望みましょう。

この救いの御言葉を、暗闇を照らす真実の光として見つめて歩んで行きたいと願っています。今日から受難週に入ります。この主の十字架の恵みの光を見つめつつ、十字架のもとに罪の悔い改めと主への感謝の供え物をもって、一歩一歩歩んで行きましょう。そして来週は喜びと感謝をもって、復活の朝をお祝いしたいと願っています。

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