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良くなりたいか (ヨハネ5:1~9)

メッセージ

2013年10月20日富里キリスト教会(伝道礼拝)

「良くなりたいか」
(ヨハネ5:1~9)

1.良くなりたいのか

「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトサダ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」
                        (ヨハネ5:1~6)
エルサレムのベトサダの池には、たくさんの人々が助けを求めて集まって来ていました。それは、この池の水が動く時に、一番、最初に池に入った人が癒されると信じられていたからです。この水が動くというのは、この池が間歇泉になっておりまして、一定の時間が経つと、水がわき起こって来て水面が泡立ったり盛り上がったりしたようです。そして、そこにはちょうど目に見えない天使がいるに違いないということで、その瞬間を見定めて、その天使の御利益にあずかり病気をいやしてもらおうという願いがあったからではないかと言われています。

しかも、聖書には38年間寝たきりであったとあります。彼がどんな病気であったか書かれてありませんが、38年間もこの状態で苦しんでいたのであれば、年齢も相当いっていたはずです。二十歳で病気になったとすれば、20+38ですから、58歳です。人生のほとんどを、このようにして簡単な担架のような床の上で過ごしていたことになります。

38年間も病気で苦しんで、60歳近くになったら、いまさら、良くなった所でどう生きて行くのか。残された人生もあとわずかしかない、そうしたら、いっそうこのまま、病気をもったまま死んだ方がいいのではないかとさえ思ってしまわないでしょうか。もしかしたら、治りたいという気力も希望も失ってしまっていたのではないでしょうか。

そこにイエス様が来て、その人が横たわっているのを見て、また、彼が長い間病気であるのを知ったうえで、「良くなりたいのか」と尋ねました。いかがでしょうか。イエス様は、38年間も寝たきりの人に向かって、「良くなりたいか」と言う質問は、正しい質問ではないような気がします。見たらわかるはずです。その人に向かって、「良くなりたいか」はないのではないかと思いました。「見たらわかるだろう、俺は良くなりたいからここに来ているのだ。」と言う声が返って来そうな気がします。

おそらく、イエス様は、彼が本当によくなりたいのか、そういう願いがあるのかということを確かめられたのではないでしょうか。本当に自分が良くなりたいと思っているかどうかです。38年間の病気ですと、もうすっかりこの状態が板についてしまうということもあります。ここから脱出し回復するよりは、いつまでもこの状態の中に埋没していたいという思いが、どっかにないとは限りません。いわば、病気の中に安住しているような人生です。

主は、その人のことをご覧になり、すべてを知っておられるからです。そして、その人の罪も咎も失敗も全てを御存じの上で、罪を赦し、元通りに回復させて下さるお方なのです。私はあなたの病気も、あなたの罪も全て知っている。あなたは、自分の罪から解放されたいのか。昔のように、神との関係を正しくしてまっすぐに歩きたいのか。わたしがそうしてあげよう。なぜなら私はあなたの罪を赦し、あなたを本来あるべき場所に回復させることができるのだからと。それができるのは、この方以外にありません。主は私たちの真剣な求める態度を求めておられるのです。それが「良くなりたいか」の意味ではないでしょうか。

2.私を池の中に入れてくれる人がいない

このイエス様の問いかけに対しまして、彼が答えたのはこうでした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいなかったのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(5:7)

彼は素直に、「主よ、良くなりたいのです。」とは言いませんでした。「良くなりたかったけれども、誰も自分を水の中に連れて行ってくれる人がいないのです。」と答えました。確かにそうです。誰か家族や友達でも介護の人がいれば、その人の手を借りて水に入って今ごろは治っていたかもしれません。でも、この人には誰もお世話をしてくれる人はいませんでした。誰かケアをしてくれる人がいたら、誰か介護をしてくれる身内や友人がいたら今ごろは治っていたでしょうと訴えました。

彼はあくまでも、目に見える水の動きや、自分を世話してくれる人の助けが必要だと訴えました。誰も助けてくれる人がいないから自分は、今でもこのままなのですと訴えました。今日でも多くの人は、この人のような状態にあります。もっと良い病院があれば治っていたのに、もっといい治療方法があれば今ごろは元気になっていたのに、もっとお金があれば良くなっていたのに、自分はそれができないから病気のままなんだと。病気が治らないのは、自分ではなく、他人のせいだと思っていました。自分の病を人のせいにして、いつまでも治りたいと思わないのです。イエス様にはそれができるのです。

私をいやし、私の罪を贖い、私を救って下さる方が目の前にいるのです。わたしのことをすべて御存じであられ、いつも愛の眼差しを注いで下さっておられるのです。わたしが、「主よ、治りたいのです。わたしをいやして下さい。」と決心しさえすれば、直ちに癒されるのです。なぜなら、イエス様が私たちに一人一人に「良くなりたいか。」と尋ねているからです。イエス様にはできるのです。私たちをいやすこと、私たちの罪を赦すことが。自分の目の前に、そのお方がいるのです。この池の名前は「ベトサダ」と言いました。これは「憐れみの家」と言う意味です。この家には、わたしの友であり、贖い主であり、いやし主であるお方がおられるのですから、私たちは、その方に向かって目を上げその方の御言葉を信じて立ち上がるだけでいいのです。

3.起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。

いろいろと言い訳をした男に対して、主は、突然「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と命令しました。英語では、Get up pick your mat and walk.
(NIV), またキング・ジェームス版では Rise, pick up thy bed and walk.となっています。実に簡潔明瞭な言葉です。「起き上がりなさい。」です。英語では、ゲットアップ(=Get up)です。「立て!」と言っています。

今、立ち上がりなさいと言っています。もう一つの英語の言葉ですが、Rise(ライズ)と言う言葉は、復活するという意味もあります。エフェソ5:14にもこういう言葉があります。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ、そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」と。ですから、この「起き上がりなさい」という言葉は、わたしがあなたの罪を贖って、あなたの身代わりになって十字架についたその十字架を見上げて生きなさいということです。

そして、死人同然の私たちに声をかけて下さったのです。「良くなりたいのか。ならば、起き上がりなさい。」と。しかも「床を担いで、歩きなさい」と言ったのです。38年間も寝たきりになって、ドロドロに汚れている床をたたんで、それを担ぎなさいと言ったのです。普通でしたら、今までの汚れた罪の痕跡のするものをそこに置いて、全く新しい生活を始めるのが妥当ではないかと思います。

でもイエス様は、今までの辛さや罪の汚れが付いているそのベッドを、たたんで、自分の肩に担ぎなさいと言いました。つまり、今までの自分の辛かった過去の出来事も、過去の人々との軋轢も、思い出したくないこともしっかりと自分の肩に担いなさいということです。それを捨て去って、避けてはいけない。過去の出来事は出来事で、それをしっかりと受け止めて、むしろその傷も痛みも失敗も全てと向き合いなさいということです。

その時初めて、私たちは過去の痛みや傷や失敗に勝利することができるのではないでしょうか。それは、過去のことを忘れることではなく、祈るということではないかと思います。自分を傷つけた人々のためにも、とりなしの祈りをしつつ新しい人生を歩みなさいということではないかと思います。

この主イエスの御命令に、この38年間も臥せっていた男が、直ちに、即座に従いました。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」とあります。英語では、At once あるいは Immediately と言う副詞になっています。「直ちに、すぐに」という意味です。その人はすぐに良くなりました。

イエス様にはそういう力があるお方です。イエス・キリストという名をおいて他に私たちの罪を赦し、病を癒し、新しい人生に生きるようにして下さる方は他におられません。私たちに対しても主は、今日、「起き上がりなさい。自分の床を担いで歩きなさい。そうすれば、キリストの光があなたの人生を照らされる。」とおっしゃっておられます。              (岡田 久)

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