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自分の救いを達成せよ (フィリピ2:1~18)

メッセージ
2019年6月16日富里キリスト教会
「自分の救いを達成せよ」
(フィリピ2:1~18)
1.パウロの喜び

まずパウロの喜びとは何か、それは教会の一致です。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる愛の励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」
(2:1~5)

フィリピの教会は貧しい教会でしたが、パウロが最初に伝道して建てた教会でしたので、パウロの伝道旅行の間ずっと支援をして来ました。それでもこの教会にも、信徒間の競争対立という問題があったのです。そこにありますように、利己心とか虚栄心を持った人々がいたようです。利己心というのは自分中心の信徒という意味ですね。虚栄心というのは、見栄を張る見せかけの信仰です。

ガラテヤ教会にもありましたが、表面的に人から良く思われたがっている人々のことです。形だけのパーフォーマンス型のクリスチャンです。特に後で出てきますが、二人の有力な女性信徒が激しく対立していたようです。(4:2)名前が出ています。エポディア姉とシンティケ姉です。どちらも有力な女性信徒だったようです。お互いに同じ思いをもてずに対立関係にあったようです。そしてこの対立する二人の信徒の間を取り持ってくれているもう一人の女性信徒もいました。

その人の名前は出ていませんが、真実な牧会協力者だったようです。「なお、真実な協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい。」(4:2)とありますように、教会には二人の対立する有力な女性信徒とその間を取り持ってくれる真の牧会協力者がいたようです。また例の割礼を推奨するユダヤ教的律法主義的クリスチャンも入って来ていました。彼らは、十字架に敵対して歩んでいて、その行き着く先は滅びに向かっているとパウロは厳しく批判しています。自分の腹に仕えていて、この世のことしか考えていないというのです。このようにフィリピ教会もいろいろと問題を抱えていたようです。

パウロが「いくらかでもキリストによる励まし、愛の慰め、聖霊の交わりがあるなら」と言っていますから、あまりそういうものがなかったのではないでしょうか。でももし少しでもキリストの愛と励ましが残っているならば、心を一つにして欲しいと訴えています。ですからキリストの愛によって、思いと心を一つにして欲しい、そしてわたしを喜ばせてくださいと訴えています。パウロの喜びは、教会員が一つとなることです。それはキリストの励ましと愛によって、聖霊の交わりを通して一つとなることを願っています。わたしもそのことを願っています。

そこに教会の一致が生まれるのです。そしてわたしたちが救われたのは、この一致を造り出すために召されて、キリストの一つの体である教会員となったのです。一つになるためにバプテスマを受けたのです。キリストによって救われたということは、はっきり言いまして、キリストのように生きる者とされたということです。イエス様になることはできませんが、イエス様が歩まれたように生きる者とされているということです。

相手は自分よりも優れていると考え、尊敬し敬意を払って対応することです。そういう他人のこともいつも眼中において賢く行動しなさいと言うことです。キリストの体である教会のほかのメンバー、他の兄弟姉妹を悲しませてはいけません。むしろ気持ちはいつも他の人のことを配慮してあげることです。相手が成長するように、相手が向上するように便宜を図ること、これは主にある愛の交わりです。同じ愛をもって、心を合わせて、思いを一つにすることです。それがキリストの弟子となって行くことです。

Philippians congregation had some problems. For exampl they had some conflicts between two powerful female believers, and there was a true collaborator to mediate between the two. And they also had some selfish and vanity believers. Paul asked them “if you have any encouragement and comfort fellowship with the Spirit, make my joy complete by being like minded having same love and being one in spirit and purpose.” (2:1) The true purpose that we were called and saved through our faith, we will be one body of Christ. We were baptized into one body of Christ. Our purpose is to be one in Christ. Then Paul said “Do nothing out of selfish ambition or vain conceit, but in humility consider others better than yourselves.” (2:3) So we should always consider the others and wish for improvement of the others, let us walk together for the others in Christ.

2.キリストを模範とせよ

何故私達クリスチャンはそうするのでしょうか。自分のことだけ考えちゃいけないのでしょうか。それはキリストを信じる者は、キリストのように生きる者とされているということから来ています。信じていない人はいいです。自分の好きなように自由に縛られることなく奔放に何でもしてもいいでしょうか。でも私たちはキリストの僕です。僕は主人の命令に従わなければなりません。その私たちの主人でもあり模範者でもあるお方はどういう方かと言いますと、次のように記されています。

「お互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上の者、地上の者、地下の者がすべて、イエスの御前にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である。』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(2:5~11)

私たちの主人であるお方は、高い所にお高く留まってすべてを支配しているお方ではありません。上に立とう、上を目指そうというお方ではなく、逆に、下に下にとへりくだって下さったお方です。そこに七つのヘリ下りが述べられています。①神でありながら、神と等しいことに固執しなかった。②自分を無にして下さった。③僕、奴隷の身分になられた。④人間と同じ者となって下さった。⑤人間の姿を取られた。⑥へりくだられた。⑦十字架の死に至るまで従順だった。とあります。

イエス・キリストはどこまでも、わたしたちのために、罪人のために、弱いわたしたちのために、同じ肉を取って下さり、へりくだられ、自分を無にして下さり、奴隷となって下さったのです。こんな神様がいたでしょうか。神というのは、人々から崇められ尊敬され、礼拝の対象となるお方です。でもキリストは、そうではなく、無になってくださり、肉体を取って下さり、十字架の死のどん底まで降りて来てくださったお方なのです。わたしたちのためにです。わたしたちのそばに来てくださったのです。ですから私たちはいつでも、どこでもイエス様と呼びかければすぐそばにいて答えて下さるお方です。しかも十字架の上で、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。わたしたちの罪も弱さも失敗もすべてをご自分が担って、苦しみ痛みを負って、その痛みと苦しみによってわたしたちに平安と命と希望が与えられたのです。

またある意味では、これはわたし達クリスチャンの生き方の模範でもありました。キリストは肉を取られて人間となり、わたしたちにその生き方を示されたのです。それは上へ上へと上がって行く、自己実現、立身出世の道ではなく、へりくだって相手を自分よりも優れた者と認め、他人のことにも心からの配慮と注意をすることを示されました。自分だけを楽しませてはいけません。それはキリストの道と異なる道です。キリストがへりくだったように、相手と同じ立場、目線になってあげることです。(「相手の靴に自分を入れる」という西洋のことわざ。Try put yourself in their shoes!)

キリストは十字架の死に至るまで、自分を無にしてへりくだられましたので、神様は、その彼を今度はその死から引き上げ、高く上げてあらゆる名にまさる名を彼に授けられました。何故イエス・キリストの御名が崇められ、讃美されるのかと言いますと、ご自分をどこまでも低くされたからです。ある人はキリストのこのヘリ下りを「下に上る道」と称されました。人間は皆上へ上へと昇ることを目指しますが、キリストは下へ下へと昇ることを目指されました。ですから、神様は最終的には、イエス・キリスト様のお名前を高く上げて下さったのです。そして、すべての被造物が主を礼拝するようにされたのです。

Jesus showed us one example for our lifestyle. “Jesus Christ did not consider equality with God and made himself nothing and taking very nature of a servant and being made in human likeness and became obedience to death even death on a cross.” (2:6-8) Jesus made himself be humble and nothing and a servant for us sinners. He saved us and show the example for our lifestyle at the same time. Then let us be humble and always make others glad and profit others. This is the purpose that we were saved and made one body in Christ.

3.パウロの誇り

最後にパウロは、わたし達クリスチャンが、イエス・キリストに見習って、自分を低くしへりくだって他のクリスチャンに仕えるようになることによって、自分の救いを完成しなさいと述べています。相手を気遣い、配慮をし、相手を建て上げ、相手の益となることを常の計ってあげることによって、わたしたちは自分の救いを全うすることができるのです。今私たちは救いの途上にあります。せっかく救われていながら、自分のことしか考えずに、他の人々をつまずかせたり、悲しませたりしているのであれば、その人は自分の救いを自分で壊していることになります。

私たちはまだ完成途上なのです。信仰の旅は始まったばかりです。それは長い間かけてキリストに似る者となることです。どういう風にして似るかと言いますと、何度も申しますが、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。利己心や虚栄心からするのではなく、同じ愛の心と聖霊の一致をもって歩みなさい。」これが自分の救いを達成する道ではないでしょうか。(役員と対立していた牧師婦人)

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおされ従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(2:12~16)

Paul said “My dear friends as you have always obeyed, continue to work out your salvation with fear and trembling.” (2:12) we were saved and began to walk in faith with Jesus on the way. Jesus is teaching and coaching us along with us to the achievement of salvation. Don’t underestimate the work of the Holy Spirit in the church and look down on the worship and the Lord Supper. In fearing God and trembling before God we should continue to work out our salvation. For it is God who works in us to will and to act according to his good purpose.

何度も申しましたが、どこの教会でも信徒同士の闘いや争い、分裂はあります。それはまだ、信徒一人一人が未熟で、キリストの御言葉にしっかりと立っていないで、他人を悲しませたり、つまづかせたりしているからです。まだ自分しか見えていない子供です。でもそれはまだ、成長途中ですから、未熟な教会です。パウロがいようがいまいが、従順になりなさい。そして神に立てられた指導者の言うことを聞きなさい。そしてもっと、恐れおののきつつ歩むことです。神を見くびってはいけません。神の権威と聖霊の働きを侮ってはいけません。毎週の礼拝を軽視してはいけません。毎月の主の晩餐式を侮ってはいけません。

絶えず神の前に、畏敬と恐れの念をもって、畏れおののきつつ自分の救いのために努力しなさいと言っています。主はこの教会を支配しておられます。どこにでもおられます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」神様はこの教会の中心にいて下さり、すべておいて導いていてくださっています。教会を動かしているのは神様です。ですから不平や不満を言わずに、何事でも積極的に行いましょう。不平や不満は、神に対する大きな罪です。

皆さんに勧める以前に、まずわたし自身が主の前に恐れおののきつつ仕えることが大事ではないかと自戒しています。そこに「とがめられるところのない清い者となりなさい」とあります。身を清く保つ人には神の言葉が生きて働いています。(岡田柴然の名前の由来)私自身もパウロのように、キリストの日に自分が走ってきたこと、労苦してきたことが無駄ではなかったと誇れる牧師になりたいと願っています。(岡田 久)

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