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自分の救いを達成せよ (フィリピ2:12~18)

メッセージ

2016年7月10日富里キリスト教会

「自分の救いを達成せよ」
(フィリピ2:12~18)

1.実現させて下さる神

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
(フィリピ2:12~13)

パウロはここで、「だから」と言っております。これはイエス・キリストが肉を取ってへりくだって下さったのだから、この主の十字架の救いにあずかっているあなたがたも、同じようにへりくだって互いのことも考えて、教会の一致を保つように心がけなさいということです。キリストが従順であったようにあなたがたも従順になって、神様の御言葉に従い、へりくだって救いにあずかるようにしなさいと勧めております。パウロ先生がいてもいなくても、クリスチャンにとって大切なことは唯一つ、キリストの御言葉に従順になり、自分の救いを達成するように努力しなさいということです。

これはともすると、自分で努力して、必死に何かをしたりして救いを手に入れるということではありません。他の新興宗教はみな、この自力本願で自分の救いのために一生懸命努力します。しかし、わたしたちは、すでに救いにあずかっている者としての努力なのです。バプテスマを受けて、ああ自分は救われた良かった、神の子となった、天国へ入ることができると思います。その通りです。でもその救いは既に与えられてはいますが、その救いを完成するための努力が必要です。信仰から信仰へと成長して行く必要があります。幼子のような信仰から成熟した信仰へと、絶えず信仰は成長し続けるのです。

昔のフィリピ教会の信徒もそうでした。信仰や教会から離れて行く信徒がいたのです。パウロが一緒にいた時は、何とか教会につながっていましたが、パウロが他の教会に移ると、そういう人は信仰が薄れて行く気がしなくなって来ます。わたしたちの教会もそうです。多くの他行会員の方がいます。当時の牧師が異動してしまうと、その人たちもいなくなってしまうのです。ですからパウロは、わたしがいてもいなくても、あなたがたは自分の救いを達成するように努めなさいと言っているのです。実際、この手紙を書いた時には、パウロはフィリピ教会にいないわけです。牢屋に入っていました。

わたしがいてもいなくても「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言っております。「恐れおののきつつ」ということは、神様の前に立っている者として、神を敬い、神への畏敬の念を持って真剣に聖書を読み、真剣に祈りなさいということです。救いから離れてしまう人は、結局は神様を畏れていないということです。簡単な言葉で言いますと、真剣に神の前に生きていないということです。真剣に神の言葉と取り組んでいないということです。

ですから、わたしたちはもっと努力して聖書を読み、訓練を受け、もっと真剣に神の前にひざまづいて祈ることが求められています。そして真の生ける神を探し求めなさいということです。バプテスマを受けてからの方が、むしろ探究心が強くなければなりません。なぜならば、13節にありますように、「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神だからです。」と言っています。わたしたちが祈り求めていること、そして教会活動をしていることは、それはすべて神様から出ているものであり、神様がそういう祈りを起こさせ、わたしたちの心の内側にいて共に働いているからだというのです。

2.不平や理屈を言わないで

わたしたちのうちにいて、祈りを起こさせ、わたしたちを用いているのは神様なのです。だから、あなたがたは教会では不平や不満を言ってはいけませんとパウロは戒めています。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまなまがった時代の中で、被のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」 
              (2:14~16)

実に私たちの信仰生活、教会生活は不平不満が良く出て来やすいことが良くあります。エジプトから出て、海を渡って荒野の生活に入ったとたん、民の中から、モーセに対する不平不満が出て来ました。「水がない。食べ物がない。肉が食いたい。こんなだったらエジプトにいた方がましだった。モーセは我々を荒野で殺そうとしている。」と。もう不平不満のデパートです。

教会もそうです。予算が無くなって来ますと、どうしようとすぐに動揺して信徒同士で議論が始まります。不平や不満が爆発してきます。モーセのようなリーダーや牧師の責任にしてしまいたくなります。先月も成田のSGで学んだのですが、湖を渡っている時に、船の中にパンが無くなったと言って、弟子達の間で議論が始まりました。弟子達は船の中に食べ物のパンがないのは、誰の責任がと議論し始めたのです。その時イエス様は、五千人を養った時に、パン屑がいく籠あったかと尋ねました。12籠ですと答えました。つまりたった五つのパンと二匹の魚で五千人も養って、12籠も余ったという奇跡を見ていながら、何で今パンが1個しかないと言って議論しているのかというのです。(マルコ8:14~21)

つまりイエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。わずかしかないパン、すなわち一人一人の賜物でも、それをイエス様に差し出すならば、イエス様がそれを何倍にも増やして下さるという奇跡です。わたしたちも、議論ばかりしていないで、自分の持っている小さな賜物をイエス様に差し出す時、イエス様がそれを祝福して増やして下さるというのです。ですから予算がない、パンがない、人員が少ない、場所がない、人生がないと、ないことばかりを議論するのではなく、自分の持っている小さなものをイエス様に差し出すだけでいいのです。それをイエス様が祝福して何倍にも増やして下さるのです。それが「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」ということです。

大事なことは不平不満を言わないで、黙々と自分に与えられている仕事を実行することです。伝道する人は伝道し、献金する人は献金し、教える人は教え、人をもてなす人は喜んでもてなし、人を助け励ます人は喜んでそのことに専念することです。信徒一人一人が不平不満の言葉を口から出さずに、自分の小さな賜物を主に献げて行くならば、このくらい世の中にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと心に保ち続けることができるのです。教会が明るくこの世にあって光輝く希望の灯台となるのです。

千葉県北総の畑作地帯の平坦な網目のような道を、くまなく走り続けようと思いながら走っておりましたら、このフィリピ2:16の御言葉が頭に浮かんできました。「こうして私は、自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(2:16)パウロの願いであり誇りはなんだったのか。それはフィリピの信徒一人一人が、しっかりと聖書を自分の物にするということでした。このために彼は走り続けたのです。皆さん一人一人が、聖書をしっかりと自分で読み、この世にあって聖書の御言葉を土台とした生き方を築き上げることなしには、わたしの伝道者としての誇りはありません。わたしもパウロのように、走ったことが無駄ではなかったと主の前で誇ることができるようになりたいと願っています。

3.パウロの誇りと喜び

最後にパウロの誇りと喜びについて、もう一度みて終わりたいと思います。
「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえをささげ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」
(2:17~18)パウロの伝道活動は厳しく激しいものがありました。彼が建てた教会でもいろんなことが起こりました。教会に異端を持ち込んだり、偽使徒が入り込んだりして、教会は混乱を極めていました。教会内のごたごたはいつもありました。その問題を取り上げて手紙を書いているうちに、その手紙の束が聖書になってしまったのです。

そしてそのようにしてまで苦労に苦労を重ねて伝道し、教会を建て上げたと思ったら、今度はパウロ自身が牢屋につながれて、いつ死刑になるか分からないという状況でした。困難と苦労を重ねて伝道したのに、教会は問題だらけ、何の実りもない。気が付いたら自分も捕らわれの身になって、いつ死刑になるのか分からない状況です。普通の人だったら、がっかりしてしまうのではないでしょうか。自分はこれまで走ってきたのは、何のためだったのだろうかと正直、思うことがあったのではないでしょうか。自分の異邦人伝道は失敗だったとさえ思いたくもなります。

パウロがフィリピの信徒のために、命懸けで福音を宣べ伝えた結果、彼らが救われて主に礼拝を捧げるようになりました。でもその時にはパウロは自分の命を犠牲にしてしまっているわけです。でも、彼らのために御言葉を宣べ伝えたかどで、逮捕され獄死したとしてもそれが彼にとっては最高の喜びでありかつ誇りでもあると言っています。それがこの「あなたがたが礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(2:17)という言葉です。

パウロの伝道者としての生涯は、常に主の前に歩み続けたというところにありました。これが「従順でいて、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい。」(2:12)ということではないでしょうか。どんな時でも神の前に生きる、そして神と共に、神に向かって生きる時、わたしたちの人生も無駄ではなかったと言えるのではないでしょうか。自分の救いを目指して全身全霊をもって、キリストを模範として努力することです。自分の救いは、すべて救い主であるイエス様にかかっております。このお方を目指して、この方に従って、いつもこのお方を目の前において歩むものでありたいと願っております。      

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