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自分で聞いて信じる (ヨハネ4:39~42)

メッセージ

2015年9月13日富里キリスト教会

「自分で聞いて信じる」
(ヨハネ4:39~42)

1.信仰は聞くことから始まる

パウロは言っています。「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17)と。本当に信仰というのは、まず御言葉を聞くことから始まります。ですから御言葉を聞く人は、自然と時が来ればイエス様を信じて受け入れるようになります。御言葉を聞かないで、あるいは聞かせないで、さあ早く信じなさいというのは、本末転倒しているのではないかと思います。信仰というのは信じることですが、それはまず聞くという姿勢、態度、心があって初めて成立することです。パウロは「信仰とはキリストを信じることだ」とは言いませんでした。「キリストの言葉を聞くことだ」と言ったのです。

聞くことが信仰と言ってもいいかも知れません。そういう人は最後まで残ります。そうでない人は、いつの間にか教会から姿を消して行ってしまいます。これははっきりしています。友達がいるから、楽しい集まりがあるからでは信仰は続かないし、育って行きません。実に信仰というのは、聞くことに始まって、聞くことによって成熟し、聞くことによって完成すると言っても過言ではありません。今日の聖書箇所を読んでみましょう

「さて、その町の多くのサマリヤ人は、『この方がわたしの行ったすべてのことを言い当てました。』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリヤ人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
(ヨハネ4:39~42)

さてここで、4章39節からをよく見てみますと、二つの信仰が述べられております。二つの信仰という言葉は語弊がありますので、信仰の二つの形態と言ってもいいのではないでしょうか。一つは、サマリヤの人々は、この女性の証しの言葉によって信じました。これが最初の信仰です。いわば他人の言葉を聞いて信じるという間接的な信仰です。次に彼らは、42節を見て下さい、こう言っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言っています。

つまり二番目の信仰は、間接的な信仰ではなく、自分の目で確かめ、自分の耳で聞いてじかにイエス様と話して信じたという信仰です。これが二番目の信仰であり、成熟した信仰と言ってもいいのではないでしょうか。つまり、イエス様の御言葉を、自分で、じかに、直接聞くということです。

2.自分でキリストの言葉を聞く信仰

このサマリヤの人々は、彼女の話を聞くだけだは納得しませんでした。40節を見てみましょう。「そこで、このサマリヤ人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」とあります。彼らは、彼女の言葉を聞いただけでは満足しませんでした。町からやって来て、自分たちのところに滞在してくれるようお願いしました。つまり、彼らは他人の話を聞いただけでは満足しなかったのです。納得しませんでした。そこに、二つの行動が記されています。「イエスのもとにやってきた」と「自分たちのところにとどまるように頼んだ」ということです。なぜか、それはじかに主に会って自分の耳で聞いて、目で見て、手で触れて確かめたかったからです。

ですから最初の信仰の次に大事なことは、その信仰の事実を確かめる、自分で確認するという作業です。そのためには、主のもとに行かなければなりません。礼拝に出席する、祈祷会に、教会学校に、スモールグループに参加することです。聖書の学びに参加するという積極的な行動です。「求めよ。さらば与えられん」です。自分で出かけて行って、確かめることです。「町を出て」というのはそういうことです。普段の日常生活から離れるということです。イエス様のいる所、キリストのところに行くということです。

イエス様は、今は旅の途中です。伝道活動の最中です。大事なことはそれでも、「待って下さい。是非私のところに来て下さい。」と言って引き止めることです。あのエマオの途上でも、二人の弟子が復活されたイエス様が先に行かれるのを引き止めてこう言いました。「後生ですから、今晩一晩、ここに宿を取ってわたしたちとところに留まってください」と言って懇願しました。これが留まるということです。

何のためか?それは御言葉を聞くためです。女性からの言葉だけではなく、イエス様ご自身から直接に御言葉を聞かない限り、わたしは納得しませんという態度です。確かに信じてはいます。でも、その最初の信仰に、更にイエス様を追い求める信仰を加えるのです。イエス様についてもっともっと深く知り、分かるまで離さないという信仰です。イエス様についてもっと深く知る信仰です。熱心に、貪欲に、イエス様について知ろうとする信仰です。「自分で聞く」という信仰です。

わたしはここを読んで、本当にハッとしたのです。「わたしたちが自分で聞いて、分かったからです。」と言っています。これが本当の信仰です。他人から聞いて信じるのではなく、自分でじかに聖書を読んで、考え、調べて自分で納得して確信することです。確かにそうです。わたしたちは確かに最後には一人で最期を迎えます。一人一人がイエス様の御言葉の前に立たされるのです。「岡田先生が、天国があると言ったからあるのだろうなあ」、「榎本先生の一日一生に書いてあったなあ」と言って最後を迎えるのではありません。イエス様が迎えに来るわけですから、イエス様の御言葉、イエス様そのものを自分が分かったうえで息を引き取るのです。その時には、イエス様とじかにお会いするのですから。キリストの言葉をしっかりと、確信して心に留めて持っていなければなりません。

わたしは、今朝はそのことを言いたいのです。いかに多くのクリスチャンが信仰を止めてしまっているかということです。ある人なんかは、聖書を返しますというのです。ガッカリしますね。ああ、もったいない最初からあげるんじゃなかったと思います。最初の御言葉の種に水やりをしていません。聖書を読もうともしません。祈りません。これでは最初の信仰の種もなえてしまいますし、無くなってしまいます。他の人の言葉によって信じる信仰から、自分自身で確かめてみて自分で信じる信仰へとなるまでには、人それぞれによって時間がかかるかもしれません。この聖書では二日間となっていますが、ある人は二年間、またある人は20年間かかって、ようやくキリストの言葉を聞くことができるようになる人もいるかもしれません。

私も何度も信仰の確信がなくて、恰好だけの信仰生活を送ったり、よく見せようと焦ったりしました。教会を離れたことも二度ありました。でも、教会の方々の背後での祈り、知らない人たちのとりなしの祈りによって、また教会に引き戻されて来ました。そういう確信が与えられないでいた苦しい時に、開き直って聖書をとことん読もうと思いました。「これは何だろう、どういう意味だろうか」と赤線を引いて、一字一句を紙が破れるまでめくりました。そして本当に自分で読んで調べて分かったのです。このキリストの御言葉は真実だということが。その時に、生涯この真理の御言葉を宣べ伝えようと思いました。なぜか、それは本当のことだからです。そして献身しました。

T姉のお姉さんが、80歳過ぎてから、FEBCのラジオを聞いて、自分で聖書入門講座を受けて、聖書の御言葉を勉強して、納得したうえでキリスト教団の教会を尋ねて洗礼を受けられました。まさに自分で聞いて信じてから教会に行ったのです。直接自分の耳で聞いて、自分の目で確かめて信仰に入りました。おそらく今は、天国で御言葉に書いてあるとおりだった、生きていた時聖書を学んでいて良かった、書いてあるとおりだとイエス様とお会いして喜んでおられるのではないでしょうか。このサマリヤの女の信仰も素晴らしいですが、このサマリヤの町の人々の「自分で聞いて信じる信仰」も見習いたいと思います。

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