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聖霊を欺いてはいけない (使徒言行録5:1~11)

メッセージ

2011年2月6日富里教会
「聖霊を欺いてはいけません」
(使徒言行録5:1~11)
1.持ち物を共有していた教会

当時の教会は、貧しい者も富める者も皆一つとなって一つの共同体を造っていました。そして、富んでいる者は、自分の持ち物を売ってその代金を献金をして、お互いに生活を支えておりました。その中に、良き主の働き人であったバルナバという一人の兄弟がおりました。彼は、自分の所有していた畑を売却して、その代金を全額ペテロのところに持ってきて献金をしました。まさにバルナバ(=慰めの子)という名前のとおりに、彼の献げ物によって多くに兄弟姉妹の生活が支えられ、励まされました。(使徒言行録4:36~37)このようにして当時の教会は、心も思いも一つにして財産を共有して愛の共同体を形成し、周囲の人々から好感を持たれ良い証を立てておりました。

3.アナニヤとサフィラ夫妻の隠れた罪

ところがその頃、教会にアナニヤとサフィラという夫婦がおりました。この夫婦は、バルナバが自分の畑を売ったその代金の全部を教会に献金をしたことを知り、二人で相談して、自分たちも大きな献げものをしました。しかし、彼らは自分たちの土地を売った、その代金をごまかして教会に捧げたのです。

少し読んでみましょう。「ところが、アナニヤという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足元に置いた。すると、ペテロは言った。『アナニヤ、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」(使徒言行録5:1~4)

A.聖霊様は全てを知っている

アナニヤ夫婦は、自分たちの土地は売りましたが、その代金をごまかしました。聖書にはどのようにごまかしたのかは書いておりませんが、「代金をごまかした」とあります。おそらく、前にバルナバが自分の土地の代金を全額、献金したのを知っていましたから、例えば500万円で売った土地を、その一部200万円を残して、残りの300万円を土地の代金全部だと言って献金したのではないかと思います。

なぜそこまでする必要があったのでしょうか。それは自分たちも、バルナバのように他の信徒から賞賛を受けたいと思ったのかもしれません。あるいは、バルナバもアナニヤも教会の有力な信徒で、アナニヤがバルナバと競争して無理に、土地を手放したかも知れません。所詮、喜んで献げた物ではありませんから、相手を意識していますから、献げる段になってお金が惜しくなったのでしょう。売った土地代金の一部を自分の手許に残しておき、残りを全部だといって献金したように見せたのでした。

教会が、これから一丸となって伝道して行こうという時に、サタンは人間の競争心や見せかけや体裁、名誉といった肉的な部分を通して神の教会を破壊しようとします。そしてこれは、初代教会だけではなく、今日の私たちの間でも陥りやすい過ちです。

でも、神様の前には、どんなことも隠すことはできません。聖霊なる神様はすべてお見通しで、どんな隠れた心の秘密もご存じです。教会は聖霊様を通しての交わりであり、聖霊様の一致のあるところです。目に見えませんが、私たちの心を探り、隠されていることを教えてくださるお方です。この神様からの真理の霊によって私たちはこの教会に呼び集められました。友達がいるとか、楽しいイベントがあるから集まるのではありません。神の聖なる一つの霊によって、呼び集められている集まりです。

B.何故こんなことをしたのか

何故そこまでして嘘をついたのか。しかも夫婦で示し合わせて神を試みるとは何事かと、悲しみをもって尋ねました。何故、アナニヤ夫婦は二人でそこまでしたのでしょうか。その理由として、聖書には書いてありませんが、一つは、バルナバと競争して、自分もバルナバに負けたくない、同じような賞賛を得たかったからではないでしょうか。あるいは、役員として自分の立場を守るために、土地代金の全額だと偽って言ったかも知れません。

ペテロはこう言っています。4節に「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」と。そうですよね、献金は強制ではありませんし、会費や分担金のようなものではありません。自分の心からの真実の献げ物です。ですから、無理に土地を売らなくても、先祖伝来の土地をそのまま自分で保有していてもいいのです。あるいは、たとえ売ったとしても、その代金を無理に教会に献げる必要もありませんでした。そのまま、全額、銀行に貯金しておいても良かったのです。それは本人の自由なのです。売ってもいいし、売らなくてもいいし、また代金を自分の物にしてもいいし、献金して捧げてもいいのです。それは本人の自由です。

ただ、ここでペテロが問題とし、大きな罪として指摘しているのは、「土地の代金をごまかした」という事実なのです。リビングバイブルでは、こう記しています。「これで全額ですと言った時に、お前は他の誰でもない、聖霊様ご自身に嘘をついたのだ!」と。つまり、金額をごまかし、使徒に対して「全部です」と嘘をついた瞬間に、彼は聖霊様を欺いてしまったのです。ある牧師先生が言いました。「ペテロがこんなに厳しくアナニヤを追及する必要があるだろうか、たとえ、代金をごまかしたとしても、自分の土地を売って相当の金額を献金したんだから、少しばかり自分の懐に入れても教会にとってはすばらしいことではないだろうか」と。私もこの方の考えに共感を覚えました。皆さんはどう思いますでしょうか。

C.人を欺いたのではなく、神を欺いた

ペテロがここで、問題にしたのは、教会の教勢や財政のことを第一にするよりは、教会はキリストの体として、聖書の真理に立つことを第一に考えたからではないでしょうか。たとえ、二人を失っても教会が教会として成り立ってゆくには、聖霊様の真理に立つことを選んだと思います。そういう意味で、聖霊に逆らい、聖霊に嘘をつき、聖霊を欺くことがどんなに大きな罪であるのかということをペテロは教会のリーダーとして厳格に捉えました。聖霊様は私たちの心の奥の奥まで、全てのことをご存じです。そしてペテロは、こう言いました。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と。

そして、この言葉が宣告されると、アナニヤはその場で、たちまち息が絶えて死んでしまいました。本当に悲しい突然の出来事でした。そして、その後、3時間くらいしてから、妻のサフィラが何も知らずにやって来ました。ペテロが、彼女に対しても、これこれの値段であの土地を売ったのかと尋ねましたら、彼女も口裏を合わせたようにして「その値段です」と答えました。すると、彼女もたちまちペテロの足元に倒れて息絶えてしまいました。たった3時間の間にクリスチャンの夫婦が、一瞬にして息を引き取ってしまったのです。

イエス様はこうおっしゃっておられます。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12:31~32)と。聖霊様に言い逆らう者は赦されないとあります。

ですから、アナニヤ夫婦は自分たちが嘘をついて、土地代金をごまかして教会に申し出たわけです。それについて、良心の呵責も後ろめたさも、恥も何も感じないで、堂々と「全額です。」と言い放ったところに聖霊に逆らっている彼らの大きな罪がありました。神様は全てをご存じです。神の目に知られていないことは何一つありません。なぜなら私たちは、神を信じた時に聖霊を受けました。だから神を信じるとことができたのです。そして聖霊様は、今も信じる者の心のうちに真理の御霊として働いておられます。そして、この教会の中にも御臨在しておられます。

聖霊に導かれているクリスチャンは罪を犯すことはできません。聖霊様が守っていて下さいますから。また、たとえ間違って犯しても、あるいは知らずに犯しても、ペテロのように涙を流して心から悔い改めます。「これが土地の全部の代金か」と尋ねられたら、自分たちが嘘をついていることを聖霊様に示され、良心が責められて「申し訳ありませんでした。それは一部の代金です」と告白するはずです。なぜなら、クリスチャンには、皆聖霊様が宿り、私たちの心を守っていてくださいますから、嘘をつけば心が責められます。聖霊様が悲しみます。聖霊様が嘆きます。この方を欺くことはできません。

4.聖霊の御臨在している教会

このアナニヤとサフィラの出来事は、教会が出来上がってくる初期の段階で起こりました。教会がこれからいよいよ伝道し、大きく成長発展してゆく段階で起こった一つの悲劇的な出来事でした。それだけ、教会の中で聖霊の働きというものが力強く働いていた時でした。聖霊様は目に見えませんが、私たちの間にあって共に働いておられます。

私は、富里教会に最初来た時に、この礼拝堂に入り、聖霊様の御臨在を強く感じました。私たちが罪を犯せば、聖霊様が悲しみます。聖霊様に逆らって神を欺くことなどできません。そして共にいて助け、慰め、希望を与えて導いていて下さるお方です。パウロ先生もこう言っています。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保障されているのです。」(エフェソ4:30)

ですから、聖霊様を悲しませたり、聖霊様を欺いたり、聖霊様を試みたり、聖霊様の火を消してしまったりする事のないようにしたいものです。目に見えない霊なる神様を畏れつつ、いつも祈り、また御言葉の戒めと導きを求めつつ歩んでゆくものでありたいと願っております。そして私たちの教会が、キリストのからだとして御言葉によって聖められ、聖霊様から来る神様の愛によって、一つにされてゆくことを願っています。           (岡田 久)

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