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聖霊と火によるバプテスマ (ルカ3:1~6、15~26)

メッセージ
2019年1月6日(日)富里キリスト教会
「聖霊と火によるバプテスマ」
(ルカ3:1~6、15~22)
1.水のバプテスマ

さて今朝は、バプテスマについてのお話です。お正月を迎え、神社やお寺は多くの参拝者の姿でにぎわっています。例えば、皆さん方は(こういうことはないと思いますが…。)お正月に神社に行って、お参りをしたとします。ちょうどこの時期は、成田さんは関東一円から参拝に来られる、いわゆる善男男女でごった返しています。おそらく当時のユダヤ人の神殿の礼拝も同じような気持ちで礼拝していたのではないでしょうか。おそらく、「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」「大願成就」「交通安全」「縁結び」「厄除け、」「方位除け」といった気持ちで参拝していたのではないでしょうか。その中で、いったい誰が自分の罪を認めて神様の前に悔い改める人がいるでしょうか。成田山や佐野厄除け大師にお参りする人の中で、そういう人はいるでしょうか。おそらく当時のイスラエルの神殿礼拝も、そのような願い事、御利益中心の礼拝者でいっぱいではなかったかと思います。

ここでヨハネは、自分のバプテスマは水のバプテスマであり、罪の赦しを与えるバプテスマであり、自分の罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ばなければならないと訴えています。ところが当時のユダヤ人たちは、悔い改めるということが良く分かりませんでした。彼らはむしろ、悔い改めるというよりは、神様の裁きを逃れるためにバプテスマを受けに来ていたのでした。今で言う、「厄除け」や「魔除け」のような気持ちで受けていたようです。

そういう人々に対してヨハネは、蝮の子らよと言って厳しく説教しています。
「そこでヨハネは、バプテスマを授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。
『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子らを造り出すことがおできにある。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」(3:7~9)

イスラエルの人々には「罪の悔い改め」という信仰が欠けていました。バプテスマのヨハネは、メシアが来る時には、わたし達の罪を贖い赦すために来られるのであるから、人はそれぞれ自分の罪を認め、主の前にへりくだって、罪の悔い改めをするようにと訴えていました。人間の罪の問題とそれの悔い改めということを説いたという点で、ヨハネの水のバプテスマは、画期的で意味のあるバプテスマでした。人々に自分の罪の自覚を迫りました。その悔い改めを迫り、そしてその赦しを宣言したのです。

そして、悔い改めずにいるならば、斧が既に木の根元に置かれているので、良い実を結ばない木は、皆切り倒されて火に投げ込まれてしまうと警告しました。おそらくヨハネのバプテスマは、罪の自覚が生じるたびに、水の中に入らなければならないバプテスマではなかったのではないでしょうか。いわゆるみそぎのようなバプテスマです。罪に汚れたときには、水に入ってその罪の汚れを洗い落とすようなものでした。

If we go to the shrine to worship gods. I do not think there is such a thing. What kind of prayer do you have? I guess that you want gods to keep your family and success your job or avoid disasters or traffic safety or good marriage so on. Were not these wishes the same in the temple of Israel. Then John the Baptist arose and preached to repent their sins and produce fruit in keeping with repentance. The purpose of John is to prepare the people of Israel to repent their sins and produce good fruits. He is the voice in the desert preparing the way for the Lord. But his baptism was a water baptism washing their outer dirt.
But he prophesied the greater one who will baptize the people with the holy Spirit and the fire.

2.聖霊によるバプテスマ

ところがイエス様のバプテスマは違いました。ヨハネ自身がそのことを証しています。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』」(ルカ3:16~17)

イエス様は天から下って来られ肉体を取った神様ご自身ですから、本来ならばバプテスマを受ける必要がないお方です。でもあえてバプテスマを受けることによって、バプテスマに新しい意味と権威を授けられました。それは、イエスの名によるバプテスマです。それはヨハネのバプテスマは水によって授けるものでしたが、イエスのバプテスマは聖霊と火によって、これからの生涯、わたしはイエス・キリスト共に生きるという意味を持っております。

そしてわたし達が神の子であることの保証となっていてくださいます。ですから聖霊様に生かされている人は心配ありません。神の子としての保証を聖霊様がしてくださっていますから。逆に、聖霊を信じてもいないし賛同もしない、拒む人はクリスチャンでも何でもありません。ただの普通の人間です。この世の人です。聖霊を持っていないかどうかで最後に振り分けられるのです。そしてそのことをヨハネ自身が証言しています。「手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3:17)と言っています。

箕(み)と言いますのは、大きなざるのようなもので、これに脱穀した穀物を入れて、空中に放り上げます。そうすると、実は下の籠に落ちてきますが、殻の方は、風に吹き飛ばされて飛んでゆきます。そして後でこの飛んでいった殻の方を集めて火に燃やしてしまうというのです。「麦は集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き払われる」というのは、最後の審判で殻は地獄の火で焼かれるということです。これが聖霊によるバプテスマを受けていない人の最後です。

更に、この聖霊と火によるバプテスマと言っていますので、聖霊は火として働かれます。つまり、わたし達の心の中から不純物を焼き飛ばしてしまう火の働きをします。聖霊を受けている人は、その人の心の中の不純物や不信仰、汚れや罪と言ったものを焼き尽くしてくださいます。聖霊が働いている人には、その人の心の中にある罪や汚れをあぶりだしてくださり、それをイエス・キリストの十字架の血によって赦していただくことができるのです。

バプテスマのヨハネのは、人間の行いや行動を正すという働きがありました。しかし、聖霊様の働きは、人間の行動だけではなくその人の心の中まで見られます。
心の秘密の扉をあけ放って下さいます。知らないで犯した罪も目の前にはっきりと見せてくださいます。聖霊のバプテスマは、わたしたちの内面を清める働きがあります。そしてその罪や汚れを、明らかにして焼き滅ぼしてくださるお方です。これが聖霊と火によるバプテスマです。

聖霊によって罪の自覚が生じたならば、体を水に沈めて清めていただかなくても、イエス様のところに持って行けばいいのです。自分の罪を言葉に出して、祈ることによって、清めていただくのです。わたしたちは心の中に聖霊様を持っています。この体は聖霊様の宿る神殿です。一度イエスの名による聖霊のバプテスマを受けたならば、その人は神の子であり、永遠の命が約束されています。聖霊様がそのことを保証してくださるのです。

皆さんはどちらのバプテスマを受けられましたか?イエスの名による聖霊のバプテスマですね。「父と子と聖霊の名によって、汝にバプテスマを施す!」と宣言して水をくぐりました。これからの人生、聖霊と共に聖霊に従って歩みますという意思表明です。そして神の御言葉に従って、イエス様の十字架と復活の出来事を意識して歩みますということの決断と選択をしました。

John the Baptist said “I baptize you with water. But one more powerful than I will come, the thongs whose sandals I am not worthy to untie. His winnowing fork is in hand to clear floor and to gather the wheat into his barn, but he will burn up the chaff with unquenchable fire.” (Luke 3:16-17) The One who came after John the Baptist will baptize with the holy Spirit and the fire. It is very different from the baptism with water. The holy Spirit is the deposit guaranteeing that we are the son of God. The holy Spirit teaches our sins inside our mind, and illuminate our hidden sins, and make us admit it and confess our hidden sins through the word of prayer. The holy Spirit cleanse our sins by burning with the fire. It is like working to remove the impurities from the metal by the fire.
You were baptized by the Name of Father and the Son and the holy Spirit definitely. And you were surely baptized with the holy Spirit and the fire. You have the holy Spirit in your mind, you do not commit a sin.
The holy Spirit is living in your heart and keep you from sinning. Even if we may commit a sin, we confess our sins and brought it to Jesus and ask to wash away our sins, God can cleans us and forgive us our sins. This is a baptism with a holy Spirit and the fire. The holy Spirit in our mind is the certain guarantor.

ですから今皆さんは、聖霊様と共に歩んでいます。皆さんの心の中には聖霊様を通してイエス様が宿っておられます。どこへ行くにも何をするにしても聖霊様が共にいてくださいます。離れません。聖霊様が皆さん方の心の中におられます。同じ信仰の仲間と会ったり、祈ったりすると聖霊様が喜びます。逆に悪いことをすると聖霊様が悲しみます。わたし達の心の中の罪を知らせて警告してくれます。これがヨハネの水のバプテスマと違う所です。

今年度の教会標語は「聖霊に従って生きる」です。すでに聖霊様を受けている私たちです。祈りましょう。聖霊様、どうぞ私のところに来てください。わたしを満たしてください。わたしの心の中を探ってください。もし罪や隠し事があるならば、それを教えてください。そしてあなたの十字架の血潮をもって洗い清めてください。水ではなくイエス様の十字架の血による赦し清めを与えて下さいと祈りましょう。この後の主の晩餐式こそ、聖霊様の働かれる時です。静まって、聖霊様の導きを信じて、心の中を完全に清くしてくださるよう祈ってゆきましょう。(岡田 久)

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