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聖書を説明されるイエス (ルカ24:25~35)

メッセージ

2011年12月11日富里キリスト教会
「聖書を説明されるイエス」
(ルカ24:25~35)
1.近づいて来て下さるイエス様

ルカ24:13から読んでみましょう。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタデイオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ24:13~16)

時間は夕方です。エルサレムからから下って田舎に帰ろうとしている二人の後姿を夕日が照らしています。彼らの人生もいわば黄昏を迎えたように、意気消沈して、これで俺たちの人生も終わったと言わんばかりの寂しい旅でした。そして、二、三日前までエルサレムで起こった出来事について二人で話し合い、論じ合いながら歩いていました。

すると、そういう彼らを追うようにして、一人の旅人が近づいて来て一緒に歩き始めました。しかし、意気消沈し、肩を落として下り坂の人生を転がるようにして歩いている二人には、この見知らぬ旅人がイエスだとは全く気が付きませんでした。二人には、イエス様が生前、キリストは苦しみを受けて死に、そして三日目に復活すると何度も言ってきたのに、その復活が信じられないでいたのです。いかに二人の目が遮られていたかです。霊的な眼、信仰の目、内なる目が開かれていませんでした。目に重いふたがされたように、二人の目にはイエス様と気が付きませんでした。

しかし、そういう不信仰な弟子たちに対して、イエス様の方から近づいてこられたのです。英語ではJesus himself came up and walked along with them.となっています。イエス様から近づいて来て下さり、一緒に並んで歩いて下さるのです。主は決して、彼らの行く手に立ちふさがったり、引っ張り戻したりせずに、彼らの心情に合わせて一緒に歩調を合わせて歩いて下さるお方です。また、いきなり目の前に顔を出さずに、彼らの信仰がもう一度少しづつ燃え上がり、しっかりとした確信をもてるような形で出会って下さいました。それが、次の段階で、聖書を全体にわたって説明をしてくださる場面です。

2.聖書全体について説明されるイエス

24:22から読んでみます。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓に行って見たのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったこと全てを信じられない者たち、メシヤはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」(24:22~27)

弟子たちは、二三日前、エルサレムで起こったイエスの死と空の墓の出来事について話して聞かせました。これを聞いたその旅人は、もちろんイエス様ですがこう言いました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たちよ!」と。二人は、リーダーのイエス様が死んでしまったことでつまづいているわけです。ましてや復活なんかとてもじゃないけど信じられません。英語ではHow foolish you are !と書いています。「ばかだなあ・・。まだ解らないのか!」イエス様の失望と落胆と嘆きの感情が出ているような言葉です。

しかし、イエス様はまだ目がふさがれていて、不信仰なこの二人の弟子に対して、諦めることなく、何とか復活を分からせようとして、旧約聖書の出エジプト記や申命記のモーセのことから始めて、すべての預言者イザヤ、エレミヤなどについて、事細かく、しかも聖書全体(この場合は旧約聖書)について説明してくださいました。歩きながらですから、そんなに詳しくまた長く話すことはできません。それでも、ほぼ全体にわたって根気よく説明して下さったのです。ただ、この時、二人は何か心にポッと火がともり、熱くなるような感動を覚えました。それでも、まだ二人の目が開かれません。よっぽど分からなかったのでしょう。どこか分かっているけれども、何かはっきりとした確信が持てない段階です。それでもイエス様は、熱心に聖書全体について説明してくださいました。聖書の説明が大事です。

3.霊の目を啓いて下さるイエス

そのような時、二人がどうしたかと言いますと、この旅の人にもう少し、自分たちのところに留まってくれるようお願いしました。そこを読んでみましょう。
「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。』」(24:28~32)

このエマオの村の二人の弟子にも、心の目が開かれる時がいよいよやってまいりました。それは、食事の時に、今まで客人だった方が、急にご自分でパンを取り賛美の祈りを唱えてから二人に渡された時に起こりました。この時、二人の霊の眼が開け、目の前の見知らぬ旅人の姿が突然消えてしまったのです。

普通目が開かれると、イエス様の姿が見えてくるはずですが、霊の目が開かけると人の姿が見えなくなるのです。つまり、復活の主と出会うということは、実物を見ることではなく、聖書の御言葉を読むことから始まり、客人のイエス様からパンをいただくことによって、自分たちが逆に客人であり、主人はパンを裂いて下さった方だという、聖書の見方の逆転が起こった時です。つまり、今までは自分が主人であったが、今度はイエス様が主人になることです。自分で見よう見よう、解ろう解ろうとしているかぎりは目が開かれません。自分が反対の立場になり、主人がイエス様になる時に御言葉が啓かれてきます。

そしてこの方が、パンを裂いて渡すということは、主の晩餐式で示されているように、イエス・キリストの十字架上で裂かれた肉を食べるということです。つまり私の罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったということが解った時が、私たちの目が啓かれるのです。聖書の全体は、あのイエス・キリストの十字架を指し示しているということが解った時、私たちは初めて復活の主と御言葉を通して出会うことができます。

4.伝道の場で共に働かれる復活の主イエス

私たちが復活の主に出会い、そのことを誰かに語るならば、そこに再びイエス様が現れてくださいます。これが伝道です。証の生活です。ですから復活の主と御言葉を通して真に出会わない限り証の言葉は出てきません。復活の主に出会い、この方がすでに人々の心に働いているからこそ、私たちは恐れず伝道するのです。そしてそこにまた主が現れてくださり、こうして伝道の輪が広がって行きます。

話の続きがあります。35節から読んでみましょう。「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(24:35~36)

エマオの出来事を仲間に話していると、そこにまた復活の主が現れたのです。みんなびっくりしました。驚いている弟子たちに主は、自分の手と足の傷を見せ、さらに焼き魚をみんなの前で食べられました。つまり、実際に生きておられ、幽霊ではなく現実に私たちと生活の中におられ、働いているということを主御自身が証明して下さったのです。実際私たちは、生活の場で、特に伝道の場面で復活のイエス様と出会い、語り合い、食事を共にしています。

目に見えませんが、私たちと交わり、共に働いてくださっています。昨日も子供たちにイエス様の伝道をしました。クリスマスのイエス様誕生の御言葉を語りました。12名(完全数)の子供たちが集まって来て下さり、本当に一人一人の顔が解るような楽しい子供クリスマス会を過ごしました。そういう伝道の場に、復活のイエス様が現れてくださるのです。今週も、スモール・グループがあります。復活の主が、すでに働いて共にいてくださいますから、私たちも大胆に復活の主を証しましょう。(岡田 久)

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