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義の太陽が昇る日 (マラキ3:13~24)

メッセージ
2019年11月24日富里キリスト教会
「義の太陽が昇る日」
(マラキ3:13~24)
1.主は耳を傾けて聞かれる

いつの時代にも、同じ信仰者と言われている人々の中に、正しい者と神に逆らう者がいるものです。3:13~18にその二つのグループの態度が述べられています。神に逆らう者の言葉が、最初に出てきます。「あなたたちは、わたしに、ひどい言葉を語っていると主は言われる。ところが、あなたたちは言う、どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることは空しい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢なものを幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。』」(3:13-15)

彼らは、自分がどんなひどい言葉を、神に対して言いましたかとしらばっくれています。盗んできた動物や傷を持った動物、病気の動物を神様に聖なる供え物としてささげておきながら、「どんなふうにして神様を汚しましたか?」(1:7)「どんなふうにしてあなたに嘘をつきましたか?」(3:8)「わたしたちのどこがあなたを疲れさせていますか?」(2:17)とうそぶいていたのです。自分で悪いことをして、神を欺いているにもかかわらず、どこまでも神の目に嘘をつきとおしているのです。

本当に知らなかったのでしょうか。病気や余り物を神に捧げていながら、そのことを何とも思っていなかったのでしょうか。いやそうではないですね。悪いことをしていながら、そのことを正当化し、自分を正当化し、最終的には神を否定しているのです。悪いと思いつつも自分の行動を正当化しているのです。それが神に逆らう者です。皆がしている、自分だけではない、誰も解らにといった罪の力がわたしたちをそういう不信仰へと駆り立てることはないでしょうか。ミカ書にこうあります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)

神への捧げものから、普段の夫婦生活、家庭生活に至るまで、神を神としないで別な神を求めていた人々に対する厳しい叱責がこのマラキ書です。しかし、そういう時代にあっても、イスラエルの民の中には、残された人々、すなわち主を畏れ敬う人々も同時に生きていたわけです。16節に「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」とあります。

そういう不信仰や堕落のはびこる時代の中にあっても、主を畏れ敬う人々が残されていました。彼らは同じ民の不信仰を嘆きつつも、イスラエルの救いのためにひたすら祈りをしつつ、お互いに励まし合いながら、共に集まっていました。そしてそういう人々の声を、主は耳を傾けてちゃんと聞いておられるのです。祈りの言葉、執り成しの言葉、励ましの言葉、慰め合う言葉、証の言葉がすべて神様の記録の書に書き記されているのです。

私たちが語る言葉のすべては、記録されているのです。命の記録簿に録音され、書き留められ保存されているのです。それは最後の審判の時に、私たちが生きている間に何といったかを、記録し確認し、その言った言葉によって最後に裁かれるためなのです。信じたから、バプテスマを受けたから大丈夫ではありません。あなたは生きている時に何といったかによって裁かれるのです。言葉が記録され神のコンピューターに保存されているのです。「もうそういう資料や名簿はありません。すべて廃棄しました。」と言っても神の記録簿にはしっかりと保存されているのです。消去できません。

2.義の太陽が昇る日

そして神様は、何もしないでいるわけではありません。やがて救い主キリストが到来します。旧約聖書の預言者は、何百年にもわたってキリストの誕生、キリストの十字架と復活、そして福音宣教による神の救いを何白年にもわたって預言してきました。そして旧約聖書最後の預言者マラキも、やがて来るキリストの救いの日をハッキリと預言しました。

「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る。」(3:19~20)

その人はキリストの日のことです。具体的に申しますと、イエスキリストの誕生という初臨の日から、キリストの再臨の日までのことを指します。これをキリストの日、神学用語で言いますと終末の時とも言います。イエス・キリストの誕生から再臨の時まで、すなわち現代も入ります。その日には、神に逆らう者には恐ろしい裁きの日が望みますが、主を信じる者には義の太陽が昇るのです。

つまり義の太陽が昇るということは、全く新しい時代が来るということです。しかも主を待ち望む者には、牛舎の子牛のように、喜び踊り跳ねる日でもあるわけです。今まで狭い牛舎の中で、苦しい思いをしてひしめき合いながら過ごしていた子牛が、広い牧場に飛び出して行って、嬉しさのあまり踊り飛び跳ねている様子を描いています。そういう喜びの日、嬉しさの極みのような日がやって来るというのです。

いよいよ来週からアドベントに入ります。12月に入ってクリスマスがやってきます。もうすぐクリスマス、どことなくワクワクして楽しくなってきます。その日が来るというのです。しかしその日は、高慢な者、悪を行う者にとっては逆に裁きの日ともなるというのです。炉のように熱い火がそれらの人々を、わらを焼くように焼き尽くすのです。悪を行う者には裁きの日となるのです。

しかし、主の御名を畏れ敬う人々には、義の太陽が昇る日でもあるのです。義の太陽とは何でしょうか。太陽の表面に漢字で「義」と書いていることでしょうか。
確かにイメージとしてはそうですが、「義」と申しますのは、「神の義」を示しています。つまり、神様が義であられるということです。その神の義が示されたのは御子イエス・キリストの十字架の上です。つまり神の義と申しますのはイエス・キリストの十字架の贖いの業のことです。ローマ3:25にこうあります。

「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき贖いの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今まで犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしてあられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエスを信じるものを義とされるのである。」(ローマ3:25~26・口語訳)

義と言いますのは、神様の義しさ、真実です。それを神は御子イエス・キリストの十字架の贖いの死を通してお示しくださったのです。ここに神の義は啓示されました。それは、どんな人でも自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば罪赦されて救われるというメッセージです。そして十字架に示された神の義が第一であり、そのキリストを信じる者がその信仰によって義とされるのが第二の義なのです。信じるだけで救われるという福音の時代です。良き知らせの時代が明けるということです。

この神の義であるキリストの福音は、あの太陽のように新しい時代の夜明けを告げ知らせるのです。朝日の太陽のように勢いよく上り、照り輝き、すべての人々を照らすのです。これが義の太陽の光です。その義の太陽の光は、鳥の翼のように、全世界どこへでも届くのです。義の太陽の光が届かないところはありません。そして人々の傷ついた心をいやし、力を与えるのです。今まで牛舎の狭いところに縛られていた人々が、その律法の束縛から解放されて、広い青草の野原に飛び出して行って、元気に草を食べる子牛のようだと預言者は言っています。

更に申しますならば、「義の太陽」とはイエス・キリストの十字架に示された父なる神様の大きな愛のことです。「神は愛なり」とのメッセージと共に、罪悔い改めて、御子を信じるものは皆救われて、永遠の生命を受けるという知らせです。この神の愛が明らかにされました。それは太陽が海の地平線から勢いよく上る様と同じです。この父なる神の大きな愛によって、親子の断絶が解決されるというメッセージでもあります。神と人間の和解によって、家庭における父と子の争いと確執と断絶が和解へともたらされる時代がやって来たのです。これが義の太陽が昇る時代です。今がその時です。まさに「今は恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのです。更にマラキは、この義の太陽が昇る日の前に、預言者を遣わすということも予言しました。

3.預言者エリヤを遣わす

「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」(マラキ3:23~24)
この預言者エリヤというのは、キリストの到来を告げたバプテスマの預言者のことです。旧約聖書の最後の預言者はマラキですが、新約に次代に入ってから、全預言者中最後の預言者として世に現れるバプテスマのヨハネの到来を預言していました。キリストの到来に先立って、必ずもう一人の預言者が表れて、このマラキのように罪の悔い改めを宣べ伝え、人々がキリストを受け入れる心の準備をさせたのです。

バプテスマのヨハネは皆さんもご存知の通り、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ2:2)と荒れ野で大声で宣べ伝えていました。メシアを受け入れ信じるためには、罪の悔い改めが必要でした。そしてイエス・キリストもバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、サタンの試みに会った後で、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ4:17)と言って伝道の公生涯を始められました。

預言者の目的は父の子を息子に向けさせ、この心を父に向けさせるためでした。ヨハネが父なる神に従ったように、御子イエスも最後の最後まで御父に従いとおしました。二人とこその生涯を通じて、天の父なる神様に忠実に従い通した人生でした。いつも父と子は一つでした。お互いに心を通わせ、向き合い通しました。父は子をどこまでも愛され、子は父にどこまでも従いました。この父なる神とわたしたちの心を通わせ、互いに心を向き合わせることによって、わたしたちの親子関係の回復も成し遂げることが出来ると預言しています。

今日社会の中でいろんな事件が起こっていますが、もとをただせば親子関係の問題が原因になっている場合が多いようです。私たちが真の父なる神様を御子イエス・キリストを通して知ることによって、真の親子関係が回復され、多くの人々がいやされるのではないでしょうか。預言者エリヤの語る言葉には、イスラエルの宗教的な回復だけでなく、現代社会の抱えている家族の問題、親子の問題、社会の問題の解決にもなるのではないかと思います。

父親が、真にわが子に心を向けて育てていたら、子供たちは傷つくことはなかったのではないでしょうか。そして子供は子供で、自分の親の心に向き合っていたら、もっと自立した健全な親子関係、家庭関係が築けたのではないでしょうか。真に主を畏れ敬う者には、今義の太陽が昇り、その太陽から発する翼に乗って、多くの人々がいやされるのです。父がいやされ、子供がいやされ、母がいやされ、兄弟がいやされ、家庭がいやされてゆくのではないでしょうか。

「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」(3:20)義の太陽であるイエス・キリストの福音には、多くの人々の傷ついた心をいやす力があります。父とか家とか血筋といった束縛から解放して、自由にして下さるのです。今はこの義の太陽が、大空に照りわたっている時代です。人々の心をいたす父の愛が、福音として照り渡り、全世界に宣べ伝えられています。父は愛なり、御子を十字架につけるほど私たちを愛しておられる。これが父からのメッセージです。(岡田 久)

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