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羊飼いの信仰 (ルカ2・8〜20)

メッセージ

2009年12月20日富里教会
          「羊飼いの信仰」
           (ルカによる福音書2:8〜20)

1. 貧しき者のための救い主
今日では、イエス・キリストは約2000年前、ベツレヘムという町の飼い葉桶の中に生まれたということは誰でも知っています。でも当時は、ほんの数名の人にしか御子の誕生は告げられませんでした。教会の玄関とオルガンの上に石膏でできた人形が置いてありますが、その数の人しか救い主を見た人はいませんでした。イエスの両親のマリヤとヨセフ夫婦、東の国から来た3人の博士とベツレヘムにいた数名の羊飼いだけです。ですから10名以下の人たちにしかその誕生は知らされませんでした。

2章8節のところに「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。羊飼いは寒い夜、野宿をしながら羊を狼などから守るために寝ずの番をしておりました。ここを読みながらふと気がついたことは、羊飼いは野宿をしていたとあります。そして、この言葉からふと野宿者という言葉が思い浮かびました。そして、寒い夜も野宿をしなければならないホームレスの方々のことを思い出したのです。彼等も、この師走の寒い晩、公園や橋の下でダンボールと青いビニールの敷物に体をうずめるようにして寝ています。

私もホームレス伝道に少し関係したことがありますが、冬の寒い雨の降る晩などはどうしているんだろうと心配になることがあります。羊飼いも実は、当時の社会では最下層の仕事でした。服も汚れ、何日も風呂に入らない、草を求めて羊を追いながら、野原を歩き回る生活です。イスラエルに行った時、バスの窓から羊飼いを見ましたが、人間か羊か解らないくらいのかっこうをしていました。降誕劇でやる羊飼いの姿とは全くかけ離れていました。今も昔も羊飼いは貧しい人たちでした。

でも神様は、そんな羊飼いに全世界で一番最初に、救い主誕生のニュースを知らせたのです。そして何と言ったかといいますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(2:11)といいました。そこに「あなたがたのために」とあります。つまり、御子イエス・キリストは、この貧しい、世間から差別され野宿生活をしなければ生きてゆけないような人々のために御子イエス・キリストを救い主としておつかわしになったのです。キリストが肉をとってこの世に来られたのは、私達を救うために来られたのです。

神を知らずにいる人、そういう人を聖書では「失われた者」「迷える魂」「心の放蕩息子」と言っています。自分の本来帰るべき故里、ホームを捜し求めている人々です。人間は自分を造られた神様のところに帰らない限り、いつまでも宿無しでありこの世では野宿者です。ホームレス、帰るべき家のない者です。でもそういう人のために、イエス・キリスト様が肉を取ってこの世に来て下さったのです。お金さえあれば良いというものではありません。今、盛んに報道されているあのゴルフのタイガー・ウッズ選手を見れば解ると思います。使い切れないほどのお金があっても、神様の前から離れている限り、心は満たされない、自分の欲望の赴くままの放蕩生活です。彼こそ失われた者、神様の前から離れていた放蕩息子そのものです。彼は今やっと、自分の隠された罪の部分が明るみに出て、悩み苦しみ、自分の心の貧しさに気がついたのではないでしょうか。

そういう心の持ち主のところに神の子、救い主が来て下さったのです。私たちの罪を赦し、もう一度神の子として迎えてくださるために、御子イエス・キリストが来られたのです。ですから、大きな喜びなのです。救い主イエスが、人生の野宿者のような私たちのところに、放蕩息子のような失われた者のところに来て下さったのです。自分の罪、過ち、失敗、全てを受け入れ、解って下さるお方です。そしてもう一度、人生を再出発させて下さるために、神が肉を取ってこの世に来て下さったのです。これがクリスマスの本当の意味です。

2. 布に包まれた乳飲み子
心貧しきものに対して天使はこう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(12)と。世の中に、たくさんの赤ちゃんはいます。でも、救い主のしるしとしてここに三つ示されました。一つは「布に包まれていること」、もう一つは「飼い葉桶の中に寝ていること」です。そしてもう一つは、「乳飲み子」だということです。

A. 布に包まれた救い主
乳飲み子が布に包まれているということは、何の意味があるのでしょうか。普通は赤ちゃんは産着に包まれています。聖書がわざわざ「布にくるまって」と書いていることは何か意味があり、読むものに何かを気づかせようとしているのです。つまり、この布といいますのは、実は、人が死んだ時に体に巻きつけるものです。エジプトのミイラのようにこの地方では、死者を布でぐるぐる巻きにする習慣がありました。ですから、「布にくるまって」というのは、すでにこの乳飲み子は、自分の十字架の死を予告していたと言うことです。そのように説明している注解書がありました。

つまり、御子イエス・キリストはすでに生まれた時から、自分が死ぬこと、すなわち、あの十字架の上ですべての人々の罪を背負って、贖いの死を遂げる目的をもってこの世に生を受けたのです。生まれた時から、すでに死を覚悟していたと言っては、あまりに幼子にとってはかわいそうな気がしますが、そのために御子はこの世に来られたのです。私たちの罪の身代わりとなって死ぬために、生まれて下さったのです。十字架の贖いの死を背負われた幼子イエス・キリスト、これがわたしたちに与えられているクリスマスのメッセージの一つではないでしょうか。ですからわざわざ、「布にくるまって」と書いてあったのです。これがクリスマスの大きな喜びの意味なのです。

B.飼葉桶の中の救い主
もう一つのしるしは「飼葉桶の中のキリスト」です。富里は牧場がありますから、牛や馬がいますので、もしかしたら、そこで飼い葉桶を見ることができるかもしれません。つまり、この飼い葉桶は、汚れた貧しい私たちの心を意味しております。クリスマスはきれいな心、正しい心に中に御子をお迎えするということではありません。イエス様は、本当に飼葉桶のような汚くて不潔で汚れているような私たちの、この心の中に来て下さったのです。このように、自分は罪人だ汚れている、自分の心は貧しく空っぽだと思っている人の心こそ、御子の宿られる場所なのです。

おそらくタイガーも今、自分が罪に汚れている、貧しい人間だということが解ったのではないでしょうか。人生はお金ではない、輝かしい賞金や記録ではない、高貴な身分でも、セレブでもない。一番大切なのは、今生かされていることに感謝をもって、お金があろうとなかろうと神様の前に喜んで、プレーをすること。そして家族を大切にして、神様の前に歩むことではないかということを、ようやく気がついたのではないでしょうか。本当のクリスマスの意味が、今、彼にも、ようやく解ったのではないかと思います。自分を貧しい者、罪に汚れた者だと思う人、これが、飼葉桶の心を持った、御心にかなった人のことではないかと思います。

B. 乳飲み子の救い主
そして三番目に「乳飲み子」というのは何を意味しているでしょうか。これはご覧の通り、新しい命です。神様は私達に、新しい命を下さったのです。御子は、私たちの貧しい心に宿り、私たちの罪を御自身の命をもって贖い、私達に新しい生命、新しい人生、命の満ちあふれる喜びに満ちた人生を与えて下さったのです。これが「乳飲み子」と言うしるしの意味です。そして私達を、あの乳飲み子のように何の汚れもない、純粋な、素直な心、新しい心で新しい人生を歩むようにして下さったのです。

これが、クリスマス最大のプレゼントです。何にも変えられない、一方的な無償のプレゼントなのです。ですからクリスマスは大きな喜びなのです。この3つのプレゼントが、父なる神様から贈られました。あとは、このプレゼントを飼葉桶のような心で、あるがまま遠慮せずに受け入れることです。

「キリストは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)とありますように、私たちはこの神様からのプレゼントを、そのままで素直に心を開いて受け入れるならば、神の子となる資格をいただくことができるのです。飼葉桶のような心で良いのです。羊飼いのように貧しく汚れていても良いのです。そこに布にくるまった幼子なる救い主が来てくださったからです。それがクリスマスの本当の意味であり、本当の喜びであり、本当のプレゼントなのです。
                                          (岡田 久)

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