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罪を拭い去ってくださる主イエス (使徒言行録3:11~21)

メッセージ

2015年11月1日富里キリスト教会

「罪を拭い去ってくださる主イエス」
(使徒言行録3:11~21)

1.悔い改めて主に立ち帰る

使徒言行録3章にありますが、ペテロとヨハネが午後3時の祈りの時に、神殿に上って行きました。すると神殿の「美しの門」と呼ばれるところで物乞いをしていた足の不自由な男と出会います。ペテロは、この足が悪くて物乞いをしている人をじっと見つめたうえで、「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言いました。すると彼はたちどころに足が治って歩き出したのです。どうしてこの男が癒されたのか、その奇跡の理由をペテロは、11節以下で説明しています。それはイエス・キリストを信じる信仰が、この男にはあったからです。その彼の信仰をペテロは見ていたのです。

ですから、大事なことは「イエス・キリスト」を信じるかどうかです。一般的な神、宇宙万物を創造した神ではなく、はっきりと「イエス・キリスト」という固有名詞がその人の信仰を表しており、そのイエスへの信仰が彼をいやしへと導いたのです。そしてこのイエスの名を信じるということはどういうことかと言いますと、19節に「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい。」(3:19)ということです。つまりイエス・キリストを信じるということは、自分の罪を消し去っていただくために、罪を悔い改めて、本心に立ち返ることだということです。これがイエスの御名を信じるということの中味です。「罪の悔い改め」と「本心に立ち帰る」ことです。

「悔い改める」という言葉のギリシャ語は、「メタノイア」(メタ=転換、ノエア=心)=「心の向きを変える」ということですから、今まで自分の信じる道を180度方向転換するということです。そしてどこに向かうかということです。これが「立ち帰る」という言葉です。「立ち帰る」という言葉はギリシャ語では、「エピストローフェー」ですから、「○○に向かって振り返る」という意味があります。「180度心の方向転換をして、神に向かう」ということになります。

言い変えますと、「悔い改めて立ち帰る」ということは、「今までの道を方向転換して、本来向かうべき道に心を向ける」ということになります。これがイエスの名を信じる信仰ということです。方向転換して本来向くべきものに目を向けるということです。悔い改めるということは、この世の富や名誉から目を離して、本来自分がいるべきところに帰るということです。あの放蕩息子が、放蕩三昧の生活から方向転換して、父のもとに帰ることです。本来自分がいた場所、我が家へと帰ることです。

2.自分の罪を拭い去っていただく

今朝、注目しているこの3:19節を、口語訳聖書ではこう訳しています。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち帰りなさい。」新改訳も同じように「罪をぬぐい去る」と訳しています。消し去ると同じような意味ですが、ぬぐうという言葉の方がイエス・キリストの贖いという意味を汲んでいるような気がします。「消し去る」となると、跡形もなくなるというような印象を持ちますが、「ぬぐう」ということは、ぬぐい取ったものにその汚れがついてしまうというようなニュアンスがあるのではないでしょうか。英語では「blotted out」「cleanse away 」「erased」となっていますが、いろんな意味のニュアンスがあるのではないでしょうか。

今日の宣教題をあえて、口語訳聖書、新改訳聖書の訳に倣って「罪をぬぐい去ってくださる主イエス」としました。やはり私はぬぐい去るという方がいいのではないかと思いました。といいますのは、「罪を消し去る」ということはなくなるということですが、「ぬぐい去る」といった場合、汚れがどこかに移ることになります。例えば、よくガムテープを貼った後に、それをはがそうとすると紙がへばりついてしまってなかなか取れません。爪を使ってネバネバする部分をはがそうとします。いくらこすってもなかなか取れません。まさにこれがぬぐい去るという動作ではないでしょうか。

つまり、イエス様が私たちの罪をぬぐい去ってくださるということは、イエス様が御自分の肉体にわたし達の罪の汚れを移し取ってくださり、御自分の苦しみと死を通して、私たちの罪の汚れもろとも御自分の死をもって断罪し滅ぼして下さるということです。これがイエス・キリストの十字架の苦しみであり死です。イエス様が私たちの代わりに、わたし達が受けるべき罪の裁きをその身に負って下さったのです。「律法が肉により無力になっているためになしえなかったことを、(御子を)罪の肉の様で罪にために遣わし、(御子の)肉において罪を罰せられたのです。」(ローマ8:3)

このようにしてイエス・キリストにおいては、肉と罪は十字架において完全に罰せられました。ですから、主イエスを信じる者は、もはや罪と肉の力からは解放されているのです。なぜなら御子はその十字架の贖いと死によって、御自分の肉において罪を滅ぼし、キリストを信じる者には霊の力によって新しい命と力を与えて下さったのです。ですから、もはやイエス・キリストを信じる者は、罪に定められることはないし、死も病も支配することはないのです。キリストがその肉によって、その苦しみと死による贖いの業を通して、わたし達を罪と死と病から解放して下さり、聖きに至る義の実を結ぶことができるようにして下さったからです。

ハレルヤ!なぜなら、イエス・キリストは十字架に架かけられて死んで、三日目に復活したからです。私たち人間ができなかった罪と死に対する完全な勝利を成し遂げて下さったのです。これがキリストの復活です。罪と死と悪魔に勝利して復活されたのです。ですからキリストにある者は、イエス・キリストと共に古い自分、肉の自分に死んで、新しく生まれ変わったものです。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)わたし達は新しく造られた者であり、神の聖徒であり、神の家族であり、聖なる祭司であり、確実に天に国籍をもつものです。

3.祝福の約束

イエス・キリストの十字架には人をいやし立ち上がらせて下さる力があります。イエスの御名には力があります。人を救い、癒し、立ち上がらせて下さいます。
あの人前で物乞いをする、そうしなければ一日たりとて生きて行けない自分、とても天国なんて全く縁のない人生だと思っていたそのところで、彼は天国への門をくぐったのです。その恥と侮辱と貧しさの只中で、彼は天国への道を見出すことができました。人間はそうでなければ、なかなか永遠への門を見出すことはできません。

イエス・キリストはまさにそういう人のところへと来て下さったのです。今こそ主を見上げて信じることです。罪を悔い改めて本当の自分に立ち帰る時です。そのような苦しみと絶望とどん底の中で、目を上に向ければいいのです。十字架の主を見上げましょう。その時あなたの罪は赦されます。イエス・キリストがあなたの罪を拭い取ってくださるのです。母親が子供の汚れを何度も何度も拭い落とすように、イエス様もわたし達のしつこい罪の汚れを何度も何度も丁寧に拭い取ってくださいます。わたし達のかつての罪の汚れも、現在の罪の汚れも、そしてもしかしたらこれから汚してしまうかもしれない罪をも、イエス様は何度の何度も永遠に贖い取ってくださるお方です。

イエス様にこの私たちの足の裏の汚れを、拭い落としていただくのです。イエス様はこう言いました。「わたしがあなたの足の汚れを拭わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもない赤の他人にすぎない。」(ヨハネ13:8)と。この罪を拭い取ってくださるというこの一点において、わたしとイエス様との接点があるのです。もし足の汚れを拭い取らなくてもいいですという人があれば、その人はキリストと教会と何の関係もない人です。主イエスは常に、そしてこれからもわたし達の罪を拭い取ってくださるお方です。この方なしには、わたし達は永遠の滅びに定められてしまいます。この贖い主なる主イエス・キリストを見上げましょう。これが信仰です。たちの罪を贖って下さり、死んで三日目に復活されたお方を。そして今は天に帰られて、やがて再びこの地上に来られようとしているイエス・キリストを見上げるのです。そしてその方の御言葉に耳を傾けましょう。このキリストの御言葉を聞くことが信仰です。

わたし達の命は既にイエス・キリストの中にあります。最後に御言葉を一つ読んで終わりたいと思います。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがた死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現われるとき、あなたがたも、キリスト共に栄光に包まれて現われるでしょう。」
(コロサイ3:1~4)
この御言葉を心に留めて、主の御名を信じて歩んで参りましょう。

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