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罪の罠に気をつけよ (士師記8:22~35)

メッセージ
2017年9月24日富里キリスト教会

「罪の罠に気をつけよ」
(士師記8:22~35)

1.人間のたてる王か、神のたてる王か

「イスラエルの人はギデオンに言った。『ミデヤン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまたご子息が、我々を治めて下さい。』ギデオンは彼らに答えた。『わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。』」(士師記8:22~23)

イスラエルの民は、自分たちをミデヤン人から守って勝利を与えて下さったギデオンを、自分たちの王にしようとしました。一見ごく当たり前のような気がしますが、ここにすでに一つの落とし穴があります。それは、王を選び立てるのは神様だと言うことを人々は忘れていました。戦争に強い者が王ではなく、真に神から油注がれて、王に任命したものでなければ、王の資格がないのです。民の人気者が最高の王ではないのです。

ギデオンはそのことを知っていました。神選ばれなければ王となることはできない。祭司から油を注がれた者だけが、イスラエルの真の王となることができます。人々が勝手に、あの人がいいとか、力があると言うことで王にはなれないのです。それは民のエゴイズムなのです。偶像になってしまいます。ですから、ギデオンは、自分が神の油注ぎを得ていないことを知っていましたし、これは民のわがままだと言うことを知っていましたので、「主御自身があなたたちを治められる。」と答えて断りました。この点で、彼は正しかったのではないでしょうか。

同じような民のわがままな要求が、サムエルの時にも出て来ます。「『あなたはすでに年をとられ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、他のすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てて下さい。』裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこで、サムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。』」(サムエル上8:5~7)

勝利の後、すでに民の心の中には、自分たちが勝った、自分たちのリーダーが勝った、という神なしの不信仰が芽生えていたのです。神よりも人間のリーダーが欲しいと願いました。ギデオンはそのような民の心変わりを知っていたか、知らないか解りませんが、王になることを拒みました。そういう謙虚なギデオンでしたが、実は彼には宗教的な野心がありました。王になるよりも、その王を任命する祭司の地位を求めたのです。政治的なリーダーよりも宗教的なリーダーになることを望んでいました。だから断わったのではないかと思います。そして、これが勇士ギデオンの罠となりました。それが次の金のエフォド事件です。

2.金のエフォド

「ギデオンは更に、彼らに言った。『あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい。』敵はイシュマエル人であったから金の耳輪をつけていた。人々は、『喜んで差し上げます。』と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れた。彼の求めに応じて集まった金の耳輪の目方は、金千7百シェケルで、その他に三日月形の飾り、垂れ飾り、ミデアンの王たちがまとっていた紫布の衣服、ラクダの首に巻き付けてあった飾り物があった。ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた。すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった。」(士師記8:24~27)

ギデオンは政治的な地位と権力には魅力を感じませんでした。しかし、民は自分を祭司よりも王にすることを望んでいました。人々の偶像の欲望と、ギデオンの偶像の欲望がここでぶつかり、出来上がったのが金のエフォドです。ギデオンが造り出した偶像が「金のエフォド」なのです。自分の功績と自分の願望を合体させた神の像です。ギデオンは神の力を知っていました。神が勝利して下さったことも十分知っていました。ですから、王様の地位よりも彼にとっては、祭司の地位の方が魅力的だったのです。祭司の方が王様よりも神に近いし、神の言葉を王に告げる働きをします。王を任命するのも祭司の働きです。祭司の方が上なのです。

さらにその祭司職に箔をつけるために、彼は金で造ったエフォドを自分の手で造ったのです。集めた金の量は千7百シェケルです。約20キロの金塊で、光輝くエフォドを作ったのです。エフォドと言いますのは、祭司が儀式を執り行ったり、神様に伺いを立てたりする時に身に着ける宗教的な衣服です。お坊さんの袈裟のようなものですが、12部族の名前が掘り込まれた石を身に着けて、十時部族の祈りの代表者なのです。祭司はこれを着て神の前に立ちました。祭司系の部族であり、祭司の家系でなければ着てはいけない者だったのです。この祭司職と祭司制度の乱れが、この時代のイスラエルの宗教的堕落の最大の要因でした。誰でも勝手に、祭司を雇ったり自分が祭司になったりしていた時代です。(19章のベニヤミン族の反抗を読んでみてください。)

ギデオンはそのエフォドを戦利品の金で造って、自分の町に安置しておいたのです。これは自分の功績を残し、その功績に宗教的な権威を着せて、礼拝の対象としたのです。つまり、ギデオンは人々がいつまでも、勝利をもたらした自分を神の如くに崇めて賞賛するようにと言うことを要求したのではないでしょうか。いわば、自分自身を神の如くに敬わせて、自分を神の位置においたのです。エフォドは、これを神殿に安置して、礼拝の対象として人々に拝ませるようなことをしたのではないかと思います。自分を最高の祭司として拝ませるという、宗教的霊的な偶像礼拝を人々に求めたのではないかと思います。そして、
己を神の如くにするという、恐ろしい偶像礼拝と霊的な姦淫をギデオンは行いました。「すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった。」(8:27b)とあります。

このギデオンの心の緩み、そしていつしか自分を偶像化してしまった罪の罠。そしていつの間にか、自分自身を神の如くに礼拝させようとしたギデオンの霊的姦淫の罪は、大きな影響を民全体に及ぼしました。ギデオンのみならず、他の人々もギデオンと同じように、自分の力と自分の勝利を神格化して誇るようになり、これを神として礼拝するようになったのです。これらは皆宗教的な姦淫、偶像礼拝以外の何物でもありません。日本でもそうですね。戦争の功労者を神社に祭って拝むというようなことです。そして教会でもそういうことは起こります。いやむしろ宗教的な団体であればあるほど、そのような誘惑が大きいのではないでしょうか。

さらにギデオンが犯した罪は、多くの妻を持っていたと言うことです。そばめ側室の妻もいました。息子が70人いたとあります。しかし、彼の死後、ギデオンのそばめの子供アビメレクという息子が、70人のギデオンの息子がイスラエルを治めるよりも、自分一人で治める方が効率がいいと言って、兄弟70人を皆殺しにしてしまったのです。このギデオンの霊的な姦淫の罪が、その一族にも罪の呪いとなってこのあと9章へと続きます。

3.ギデオンの教訓

さて今月は、あのすばらしいギデオンの働きと最後に、このおぞましい罪の出来事を見て来ました。今日のこのギデオンとその一族の犯した罪から、わたしたちは一体何を学ぶべきでしょうか。

A).祈りを止めてはいけない

大きな仕事を成し遂げた人であればあるほど、その晩年に気をつけなければならに事が沢山あります。(ノア、ソロモン等)また大きな戦いの勝利の後に、罪の誘惑が入り込んでくることがあります。ギデオンは、イスラエルの王になれるほどの信頼を民から得ました。みんながギデオンを尊敬し、一目おいて高く評価しました。その人生の絶頂時に、サタンはその人の足もとをひっくり返そうと心の隙を狙っています。罪が頭をもたげて来るときです。

わたし達も昨日、13年に一度の一大行事を成し遂げました。皆さん方の献身的なご奉仕によって、無事恵まれた集会を終えることができました。富里教会からも17名の方が参加して下さいました。いつもは富里から坂井兄と私だけとか、去年は4,5名でした。いつも出席名簿を見て、富里の参加者が少ないので、ちょっと肩身が狭い思いがしていましたが、昨日は最高出席でした。また、全てに恵まれた集会を持たせていただきました。「やった!終わった!」という感じです。

でも問題はその後です。幹事さん方にも、一応今週の金曜日まで祈ってもらうことにしております。この祈りが終わった後、やはり気が緩むといいますか、祈りのシールド(盾)にほころびが出ますと、そこをサタンがついて来るような気がします。ぜひ気を緩めないで、続けて祈っていただければと思います。そして10月はバザーがありますが、それに向けてまた祈りを積み重ねて行きましょう。

教会は課題があることはいいことです。この祈りの課題を掲げながら、真剣に祈って行く中で、神様が道を供えて下さるのではないかと思います。まず祈りです。行動ではなく、祈りを常に先行させることです。ある牧師が言いました。「行動する前に十分に祈れ!」と。祈りなしの行動は、行き詰まったり、落とし穴に入ってしまったりします。勝利の後こそ、真剣に祈りましょう。そして特に「取り成しの祈り」をしましょう。礼拝を休んでいる兄弟姉妹のために、またこの街の人々の救いのために、来たくても来れない方々のために祈って行きたいと願っています。

B)教会に働く聖霊に任せる

二番目にはやはり、自分の意志で事を運んではいけないと言うことです。そうしますと、つい自分の欲や傲慢さや肉の思いが出て来ます。自分の考えや、希望や、願いではなく、神様が願っていること、神様がどんな時でも先導して行って下さるとを信じて委ねる信仰をもつものでありたいと願っています。最近はあまり物事に心配しなくなりました。普段から祈っていますと、やはり聖霊様が働いていて下さいますから、あまり動じたり心配したりしなくなってきます。

何か事件や、困ったことがあっても、その場に、そしてその人に聖霊様が働いて下さることを信じて委ねることができるようになりました。聖霊様が、祈りによってその祈りの対象者に働いて下さるのです。後はその聖霊様に委ねる信仰です。ですから聖霊様が働いて下さるためにも、まず聖霊様の存在を認めその働きを信じることが第一です。自分に反対することでも、いやなことでも、聖霊様が働いてそうして下さっているのだと思うことによって、怒りも心配もなくなります。聖霊様の働きを信じて委ねていないと、自分で何とかしようと思って焦ってしまい、自分で自分を追い込んでしまうことがあります。聖霊様が働いて下さることを信じて、委ねるのです。

ギデオンの勝利の原因は何だったでしょうか。もう一度思い出してみてください。最初は、何もできない弱い小さな臆病な一介の農夫でした。その男を神が選んだのです。「勇者よ、神が共にいます。」といって。自分の原点すなわち、弱い自分、取るに足らに自分、貧しい自分に立ち帰ることです。そして次は、神に委ねることです。たった300人の兵士で、敵に向かいました。自分の力ではない、神の力を信じて進むことです。そして最後に、ギデオンの部隊は壺の中に松明を隠して行って、その壺を一斉に割って、声をあげて突入しました。
この壺の中に隠された松明の明かりが、聖霊の明かりです。聖霊の働きに委ね、聖霊様の光を掲げて突き進んだのです。そして勝利しました。

聖霊様が、わたし達の間に働いておられます。恐れる必要はありません。心配する必要もありません。主に委ねるのです。聖霊様に祈って下さい。「イエス様!」と祈るように、聖霊様に向かって祈るのです。「聖霊様!吹いて来て下さい、教会に吹いて来て下さい。わたし達の群れに吹きつけて下さい。そして一人一人に働いて下さい。」と。そして委ねて後は、主に任せるのです。聖霊様が万事が益となるように働いて下さいます。

そして油断しないで、目を覚まして祈り続けましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)こそクリスチャンの戦いの武器なのです。喜びと感謝の祈りです。家族を喜び、配偶者を喜び、子供を喜ぶ、親を喜ぶのです。教会を喜ぶのです。クリスチャンに他に何が必要ですか?喜びと感謝をもって常に祈ることです。そうすれば、決してギデオンの二の舞になることはありません。

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