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罪の奴隷からの解放 (ローマ6:15~23)

メッセージ
2021/8/22
富里キリスト教会礼拝説教
「罪の奴隷からの解放」
(ローマ書6:15〜23)

①罪の奴隷―欲望の支配
ローマ6:15
「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」

恵みの下にいるのだから罪を犯してもいい。いや決してそうではない。どこかで聞いた言い回しです。そうです、先週の箇所である6:1−2とほぼほぼ同じような内容です。またもや、パウロはここで救われていながら罪に留まることの愚かさについて語ります。じつはこの6、7章においてはこのような同じくだりの話が3種類の例えを使って繰り返されています。一つは先週語ったバプテスマ、一つは来週語る結婚、そしてもう一つが今日語られている奴隷を用いた例えとなっています。ちょっとパウロしつこいんじゃない?と思われる方もいるかもしれませんが、それほど恵みによって救われるという福音を誤解する人が多かったということなのでしょう。
この問題は、2000年経った、今現在においても変わらずあるように思います。救われているから、罪はもういい。神は愛だから大丈夫。このようなタイプのクリスチャンはいるでしょう。他方、クリスチャンならこうあらねばと、どこか行い重視の律法主義的なクリスチャンもまたいます。実はクリスチャンは大きく分けてこの2タイプのどちらかによりがちです。しかし、パウロはどちらのタイプにも、どちらか一方ということではなく、偏らずバランスよくその両面をもたねばならない、信仰と行いはつながっているとこのローマ書において語ります。
過去の自分はもはや死に、今はキリストと共に新しく生まれ変わった。恵みによって罪は赦されたのです。そして、その救いは内実の伴ったものとなり、罪赦されたものはその罪から解放されていき、行いが変わっていくのです。信仰と行いの連動性というものを聖書ではいたるところで語られています。
その真理をパウロはここで奴隷というものを用いて例えていきます。当時のローマは、奴隷の数が独立市民の数倍も上回っていました。その奴隷は大部分敗戦国の捕虜であり必ずしも未開の人ではありませんでした。言い換えればその当時、大部分の人は奴隷の身分であり自由市民としての権利が認められていなかった暗黒の時代と言えるでしょう。当然キリスト者の中にも例にもれず奴隷が多かったようです。そういった自由を拘束された方々にとっては特に、この奴隷という例えを用いた説明は非常にわかりやすくリアルなものだった。それゆえにパウロはこのような例えを用いたのでしょう。
しかし、この奴隷という言葉は例えだけでなく、私たち人間の現実の姿を実際に表しているとも言えます。人はみな、実は何かの奴隷として生きているという現実があります。今、この現代社会において私たちは自由であると言いながらも何かに支配されながら生きざるをえないのです。ただ、パウロは奴隷というものを完全なネガティヴな存在であるとは捉えていません。彼は、自分自身のことを喜んでキリストのしもべであると語っています。大切なことは何を主人として生きるかということです。
罪を主人とするか、神を主人とするか。どちらを主人にするかによって明暗がはっきりと分かれます。罪を主人とすれば報酬として受け取りたくもない死を突きつけられ、神を主人とすればなんと賜物として永遠の命というプレゼントがもれなく与えられるのです。
本来、私たちは罪の奴隷でした。人は皆、あらゆる欲望、自我といった罪に束縛されているのです。しかし多くの人はそれこそが自由であると勘違いしています。ある人が、クリスチャンはあれもこれもダメだと言って好きなように生きられないから嫌だ。もっと自由に生きたいと言っていました。
しかし、これは自由の履き違えなのです。自由という言葉を辞書で調べると、自分の意のまま、好き勝手にふるまうことといったことが書かれていました。自分の思う通りに自己決定していく。これが自由だと思われているようです。しかし、自由という言葉にはもう一つ哲学的な意味合いにおいて、何ものからも束縛を受けないという意味があります。自分の思うがまま、好き勝手に生きる。これは本当は束縛を受けていないどころか、罪の支配に束縛されているのです。まさしく罪の奴隷なのです。そしてその束縛の中、欲望は膨らみ時に、アルコールやギャンブルなどの依存症までになってしまいます。自由どころか縛られ、苦しめられ、その先にあるものは破滅、死であります。

②神の奴隷―本当の自由、解放
しかし、今や私たちはキリストと共に罪に死に、キリストと共に生きる新しい者として生まれ変わりました。罪という主人から解放されて、神の奴隷として生きることとなったのです。「いやいや、結局奴隷なんかい!!」と、突っ込みたくなるかもしれません。しかし、弱く惨めな存在である人間は、だれかを主人としなければ生きていけないのです。その事実に抗おうとして、自分を主人として生きる者、これこそが罪の奴隷なのです。
しかし、神様を主人とした場合、私たちは神の奴隷でありながらも罪の縄目から解放された本当の意味での自由である永遠の命が与えられるのです。奴隷でありながらも、真の意味での自由人となるのです。

ローマ6:22
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

私たちを縛り、苦しめ、欲望を自由と履き違えさせる罪という主人とは打って変わって、神様という主人は、私たちをこよなく愛され、神の御支配という中でありながらも、それはがんじがらめに縛られるというのではなく、両の手で抱き締め、守られているという平安に包まれたものであります。
その愛の中で、私たちの欲望、自我は解かれていき、今まで捕らわれ、必要としていたものがだんだんといらなくなっていくのです。名誉、権力、自己実現、何者かでありたいという欲求。私たちのために全てをささげられたイエス・キリストの十字架の愛を知った、神の僕たる私たちにそんなものは必要ありません。現実逃避のための酒やギャンブル、ドラッグ。そういった享楽的なものもいりません。神の愛が心を満たしていればそれで十分、満足なのです。
本当の意味での自由がここにあります。誰に強いられるのでもなく、自分の欲の衝動に突き動かされるのでもなく、私たちは、ただ救われたこの喜びの中で自覚的、主体的に罪から離れ、神と隣人をこよなく愛するようになっていくのです。
お恥ずかしながら、かつての若き頃、私はお酒やギャンブルにけっこうハマっていました。それが自由だと思っていたのです。しかし本当は、それは自分の中にある空しさを否定して、何かで埋めようとしていただけだったのです。私は自由どころか欲望というものに束縛されていたのです。
今は全く興味がなくなりました。クリスチャンだからこうすべきといったものではありません。必要としなくなったのです。聖霊によって欲望から解放され、聖霊によって私の心を神の愛で満たしてくださったからです。ですから今、私は、酒もギャンブルもなくても、とても満足しています。
神の愛を受け、神の僕であり、神の子供とされることだけでよい、十分だ。いや、それこそが私の全てを満たすのだ。ここにこそ本当の自由があります。聖霊によって私の心は自分の欲望よりも神の栄光を何よりも望みたい。そのように願う者へと少しずつ少しずつ変えられていったのです。私たちに用意されている神の救いは、これほど素晴らしいものなのだと聖書は語り、約束してくださっています。

③神の従順は信頼から
しかし、中々そうは言っても、新しく生まれ変わったといっても、どうしても元の罪の状態に居座りたい。そして今もその途上にあると言う人も多いと思います。自分もまたその1人です。さっきは偉そうに言いながらも、私もまだまだ道半ばなのです。完全に罪から脱却する事は、本当に難しいことであります。私は先ほど例えとして、酒やギャンブルを出しましたが、それ以外にも自分を縛ってしまう自我、欲望はそれぞれにおいてたくさんあるでしょう。
自分の人生の操縦桿は自分で握っていたい。私の人生は私のものだ。こういったように、罪の支配下にある奴隷でありながら、自分が人生を支配している自由人であるとどこかで思いたいのです。自分の人生の操縦桿を明け渡し、神に従順に仕える、神の奴隷として生きていくことへの躊躇、恐れ、不安、不満がときに自分の中からムクムクと出てくるのです。
一体どうしたら良いのでしょうか。答えはシンプルです。そういったときにこそ私たちはキリストの十字架を仰ぐのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストを見つめ続けるのです(ヘブライ12:2)。詩篇103では、
主の御計らい、主がわたしたちにしてくださった良きことを何ひとつ忘れるなと語られています。主の良き御計らいとは何でしょうか。それはまさしく十字架です。私たちの主人である神様は、私やあなたのために全てをささげ切ってくださった方なのです。これほどの愛を見せてくださったお方なのです。私たちを解放するものはこの神の救いのわざへの信頼、信仰なのです。
自分の小賢しい知恵などよりも、この方に人生をあずけた方がよっぽど信頼できる。必ずやこの方は私を最も良い道へと導いてくださる。誰よりも神様は私のことを愛してくださっているからだ。その愛をもうすでに、イエス様は十字架をもって完全に見せてくださった。この方を信じてみよう。そのような思いの中で、行動として現れるものが神への従順なのです。神への信頼の中で、神への従順が引き起こされていくのです。逆に言えば、神への従順とはそこに神への信頼があることを示すものだと言えるのです。当たり前ですが、信頼しないと人は従えません。しかし、神様ほど信頼に足るお方はいないのです。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって誰にでも服する。」

これは宗教改革者であるマルティン・ルターの有名な言葉ですが、クリスチャンとは自由でありながらも僕なのです。神の恵みによって救われた私たちは、いやいやにではなく、自らが喜んでその自由を神に明け渡し、自発的に神に人に愛を持って仕えて生きるようになるのです。そこにこそ罪からの解放である本当の自由があるのです。
いくら主人が神様だからといっても、奴隷になるのは嫌だ。そう言われる方もいるかもしれません。しかし、よくよく考えてみてください。まず、イエス様そのものが私たちの僕となってくださったということを、です。主イエスは苦難のしもべとして、私たちの病、痛み、全ての罪を背負われ、十字架にかかられたのです。弟子たちの足を洗い、仕えられるものではなく、仕えるものとしてきたのだと語りかけてくださりました。全知全能の聖なる神そのものがまず、私たちのしもべ、奴隷となってくださったのです。
私たちは、神様がこのような慈しみと憐れみと忍耐に満ちた方であると知っています。この誰よりも信頼できるお方を信頼し、主人として生きていくのです。そして、そこにはただプレゼントして一方的に与えられている永遠のいのちがあります。この永遠の命の中、罪に拘束された者ではなく、神様に愛され、自由とされた者として喜んで神さまを愛し、隣人を愛する神のしもべとして生きてまいりましょう。

ガラテヤ5:13−14
「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」

武井誠司

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