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罪と恵みの比例現象 (ローマ5:12~21)

メッセージ
20021/8/1
富里キリスト教会礼拝説教
「罪と恵みの比例現象」
(ローマ5:12〜21)

①罪の出発点―アダム
私たちは、今年度は順を追ってこのローマ書から共に恵みをいただいておりますが、前回は神との和解ということについて共に学びました。私たち人間は皆、どのような者であっても平等に罪人であり、誰もがその罪と死の力に囚われ、抗うことができない、惨めで憐れな存在でした。しかし、そこに神の愛が現れました。その愛とはイエス・キリストが私たちのために人類のすべての罪を背負って身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったと言うことです。私たち自身の力では克服できなかった罪の課題をイエス様が十字架のあがないをもって根本的に解決してくださったのでした。その主イエスの義なるわざゆえに私たちはもはやさばかれることなく、神様との和解を果たすことができたのでした。素晴らしい恵みであります。
私たちと神様との間を阻んでいた罪はもはやないものとされたのです。しかし、その私たちと神様の関係を断絶していた罪とはいったい、いつから現れたのでしょうか。罪の発端とはどこから現れたのでしょうか。それはアダムの時からであるとパウロは言います。

ローマ5:12
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです。」

この地上にある全てのものは神によって創造されたということが聖書では一番最初に書かれております。神がこの地を造られた時、それはきわめてよかったと非常に満足されました。そして、そのとき人間という存在も神様が造られたと聖書には書かれていますが、その最初の人類がアダムであります。神様は、アダムを神様ご自身のかたちに似せて造られ、とても気に入られました。神のかたちとして造られたものですからその造られた当時のアダムには全く罪はありませんでした。ところが、このアダムが決して食べてはならないと神様に言われていた善悪の知識の木の実を、約束を破って食べてしまいました。それは単純に隠れて食べたと言うことだけを意味しません。
これは、神への不従順という大きな罪だったのです。彼は善悪の知識を得て自分の判断で善悪を判断し、神の支配下から逃れ、人生の操縦桿を神から取って代わって自分で握って生きようとしたのです。この人類の父祖アダムの神への不従順から罪が入り、その時死も入り込んだのだと聖書は語っています。それは肉体的には現実に死から逃れられなくなったと言うことでもあり、霊的な意味においても神との交わりが断絶された死の状態になってしまったことを意味します。このアダムが犯した罪が全人類に及び、私たちも罪と死の力にとらわれてしまったのです。
こう見ていくとアダムとはなにか全人類の代表みたいな扱いになっていますね。そうなると、どこか釈然としない思いも湧いてくるかもしれません。なんでアダムが罪を犯したせいで関係ない私まで罪人にならねばならないのだ。こんなのちょっと理不尽じゃない?そう思われる方はいませんか?
しかし、パウロはここで「すべてのひとが罪を犯したからです。」とも言っています。アダムが罪を犯しながらも全ての人が罪を犯しているとも言うのです。うん?一体パウロは何を言っているのだ?私は善悪の知識の木の実など食べていない。そう思われるかもしれません。
しかし、よくよく考えてみてください。アダムのことに納得いかないにしても、私たちが罪に囚われているという現実が確かにあるということは否定できません。自分自身をみた時、人を憎んでしまう自分、人をゆるせない自分、自分の考えが正しいと自己正当化してしまう自分、そういった罪に囚われている自分自身の姿がそこにはあります。また社会を見てみても、戦争、経済格差、政治汚職、差別、いじめ、などなど。ニュースを見ると罪に苦しむ人間の姿がそこに見えます。このような罪の現実をみた時、あのときのアダムとはまさしく私そのものなのだと認めざるをえないのではないでしょうか。

②比較にならない恵みの賜物
罪の発端、象徴のようなアダムについてパウロは語っていきますが、他方で今度は、パウロはキリストの恵みについても語っていきます。ここでパウロは読者にわかりやすく理解できるようにと、アダムとキリストというものを対比しようとしていきます。罪のアダムー恵みのキリスト。アダムの不従順―キリストの従順。一人の罪によって全ての者が有罪―ひとりの正しい行為によって全て者が義とされる。こういった対比です。
しかし、パウロはそうしながらも、15節で「恵みの賜物は罪とは比較になりません」と言ってしまいます。ここにパウロという人物の面白さがありますね。恵みへの喜びの強さが思わず溢れ出てしまったのでしょう。しかし、このパウロの言葉は確かな真実であるといえます。罪の力とは全人類、全世界に及ぼす強いものです。しかし、その罪の泥沼から私たちを救い出そうとする神の力、恵みの賜物はその罪の力とは比較にならないほどに圧倒的に強く、驚くばかりに素晴らしいものなのです。まさしくアメージンググレイスなのです。
一人の人間が罪を犯した場合、その人に関わる者たち、共同体も同じく責任を負う。連帯責任ということですが、こういったことは人間の世界の道理としてはままあることです。ことの良し悪しは少し置いておいて、罪を犯した本人以外に、家族や会社が責任をとって謝ったりするということが時にあったりします。
また、社会的、歴史的な罪というものもあるでしょう。戦前の日本という国がアジア諸国に対して犯した罪に対して、現代に生きる私たちは全く無関係であるとは言い切れないでしょう。この日本という歴史と文脈の中で生まれてきた私たちは、たとえ自分自身が犯した罪ではなくとも向き合い、私たちの十字架として背負っていかなくてならないように私は思います。
しかし、普通に考えてその逆はありえません。悪人だらけの中にたった一人正しい人がいたとしても、その罪が全て帳消しになるということにはなりません。しかし、神様は帳消しにしてくださったのです。たった一人の従順、たった一つの正しい行為である主イエスキリストの十字架によって。一人でも多くの者を、愛する我が子を救い出したいのだ。そのような一方的な愛によって与えられた恵みなのです。死んでほしくない、生きてほしいのだ。立ち返って生きよと神様は叫びながら私たちに救いの手を差し伸べ続けられているのです。
アダムによる神への不従順。この人間が罪に陥ったその瞬間から神様は私たちのために救いの計画を始められました。この時、神様はアダムたちを罪へと誘惑した蛇、サタンに対して、お前の頭を砕く者が現れると言われました。このお方がイエス・キリストです。神様は人が罪に陥ったその時から主イエスによる罪からの救い、死に対する勝利を告げておられたのです。
その救いの計画は聖書の中で少しずつ明らかにされていきました。アダムによって全人類は罪の性質を持ちました。そして、モーセの律法が与えられたことによって、その罪が具体的に明らかにされて、キリストが来られ、恵みによって人類を救い出されたのです。神の救いの計画は聖書の中に表れている歴史をとおしてすでに達成されたのです。

③罪が増すところに恵みは一層満ち溢れる
これほど神の恵みとは罪の力とは比べものにならないほどの力を持ち、そしてその本質は神の慈しみであり憐れみであり完全な愛です。そして、私たちはその恵みを罪の自覚を通って受け取っていくのです。しかし神の救いというものはインスタントなものでもければマニュアル的なものでもありません。一人一人本当にその人独自のユニークな形で救われていきます。
罪が分からなければ恵みもわからない。確かにそういった面はありますが、他方で恵みを知ることによって罪の自覚が深まっていく面もあります。罪が先か恵みが先か。そういった順番みたいなところはそれほどこだわることではないのかもしれません。圧倒的な神の愛をみた時、そこにある自分の罪性に気づく。そういったこともあるのです。私たちは、罪と恵、この両面を知っていくことによって救われていくのです。罪だけ語ってもダメだし、恵みだけ語ってもダメだということです。この罪と恵みというものはつながっているし、連動しているのです。

ローマ5:20
「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」

罪人であることを痛感すればするほど、神の恵みがより沁みるのです。救いのようのない人間を、この罪人である私を救ってくださったのだ。罪と恵みの比例現象というものがここにあります。自分のことを罪人だとは言われたくないし、自分自身でも認めたくないものです。しかし、自分の存在まで否定する必要はありませんが、罪から離れられない、そんな弱い自分を認めて、受け止めていくということはとっても大事なことでもあるのです。苦しいことのように見えても、そこに恵みがあるのです。罪人であることを痛感すればするほど、キリストの十字架の恵みの喜びが溢れてくるのです。
パウロという人物は、まさにそうでした。彼は自分のことを罪人のかしらであると表現しました。その自覚があるゆえにでしょう。彼の福音の恵みに対する喜びの強さというものは、これでもかというぐらい聖書の中で表されています。
罪人意識の強いクリスチャンの方の中には、愛と寛容に満ちた方が本当に多くおられます。私は、かつてキリスト教系の児童養護施設で働いていましたが、創立記念日のイベントの際に、ある元極道をされていた牧師の方が講師としてこられたのですが、その方は本当に元その筋の人と思えないほどに柔和さをかもし出していました。御霊の実が本当にたくさん実っており、本当にキリストの香りを放っていた方でした。
そこで語られた暴力、薬物に支配されて苦しんでいた自分、犯してきた罪に対する強い後悔、そしてその苦しみからの解放、あふれんばかりの恵みに対する喜び。非常に印象的なメッセージでした。しかし、実はそれと共に私の中ではこの方に対する印象的な出来事がもう一つありました。それは児童養護施設の子どもたちに対する関わり方でした。
児童養護施設にいる子どもたちとは、私のいた施設だけだったかもしれませんが、非常に口が悪い子たちがたくさんいます。それだけネガティヴな言葉を投げかけられ続けた過去があるゆえでしょう。また、自分自身をみてほしい、引き付けたいがゆえの言動とも言えるかもしれません。しかし、表面的には非常に大人を逆撫でし、バカにしているようにみえます。その牧師の方は、頭が今の私のようにつるつるでした。こどもにとっては格好の餌食です。子供達は、これでもかというほど、ハゲハゲハゲと指を指してからかっていました。
職員である私はその姿をとてもヒヤヒヤしながらみていました。しかしその方は子供達に満面の笑顔を返して、こう言ったのです。「なんでハゲてるかわかる?これはね、イエス様が僕の頭をいい子いい子って、なでなでしてくれたからなんだよ。」そして、そう言いながらそのバカにする子供の頭を優しく撫でたのでした。なんと、愛のある方でしょう。きっと罪の意識が強い分、救われた喜びが大きいゆえの愛と寛容なのでしょう。
実は、当時私は自分の薄い頭がコンプレックスとなっていました。自分の罪の意識というものはこの方ほどにはないが、私もこのようでありたいなと思ったことをよく覚えています。そして、現在の私は、子供に頭をいじられた時はにっこり笑顔でその牧師の方と同じ言葉を返すようになったのですが、これは小さな私のエピソードです。
罪が増すところにこそ、恵みはますます満ち溢れる。自分の中にある暗闇を知れば知るほど、希望の光はますます光り輝くのです。そして、この救いの光はすでに私たちの元までやってこられたのです。私たちは皆、罪人です。しかし、罪人であっても、もはや裁かれません。主イエスがその裁きをすでに私たちの代わりとなって全て受け取ってくださったからです。この安心感の中で、自分自身の罪と向き合いつつ、永遠の命の恵みの中で共に生きてまいりましょう。

武井誠司

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