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絶対に私たちを手放さない神の愛 (ローマ8:31~39)

メッセージ
2021/10/3
富里キリスト教会礼拝説教
「絶対に私たちを手放さない神の愛」
(ローマ書8:31〜39)

①だれが私たちに敵対できますか?
前回は、私たちの救いというものは万事を益とされる神様のご計画の中であらかじめ定められたものであったということを確認いたしました。一方的に神様の方から愛し、召し出された者はどんな人生の苦しみがあっても、その苦難によって信仰から離れることはなく、むしろその苦難や失敗すらも益とされるのである。それほど、神の恵み、神の救いのご計画というものは堅く、確かなものなのです。この事実は信仰薄い私たちを本当に励ましてくれます。自分で救いを勝ち取ったのではなく、神の主権によって救われたという確かさは、私たちの心に平安をあたえてくれるのです。
では、その神の救いの確かさとは具体的に一体どういうことなのか。今日の箇所は、そういったことが書かれており、それはパウロがこのローマ書に置いてもっとも伝えたかったことでしょう。つまり、今日の箇所はローマ書の中心であり、クライマックスともいえるのです。そして、それは聖書全体のメッセージからみても、今日の箇所は中心であるといっても過言ではないように思います。なぜなら今日のテーマは小見出しにもあるように、「神の愛」だからです。私たちに向けられた神の愛とはいったいどれほど確かなものなのでしょうか。
まず。パウロは今日の箇所でまた、ここぞとばかり質問ぜめをしていきます。ここでもやはり、その質問の答えは読み手の方もみな、わかっています。それでもパウロは聞くわけです。それは私たちの中にあるその答えへの確信をさらに深めていくための一つの技術でもありました。だれが?だれが?という問いに自らノーノーノーの否定の返答を文章の中に含ませて、どんどんテンションがあがっていきます。技術とも言いましたが、それ以上にここにはパウロの溢れ出る喜びの感情と熱を感じます。
そして、そのピークに、だれも神の愛から私たちを引き離すことはできない、と結論を語り今日の箇所は終わります。今日はこのパウロの多くの問いから、3つの「だれが?」というクエスチョンを選び、一つずつ追っていきたいと思います。
まず一つ目は31節の

「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

というクエスチョンです。もし神が私たちの味方であるならば・・・と仮定していますが、実際に神様は私たちの味方です。もちろんパウロもその核心がある中での仮定です。そして、パウロは神が私たちの味方である根拠を続けて語っていきます。

ローマ8:32
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

神様は私たちのために、御子であるイエス・キリストを惜しまずに、死に渡さされました。惜しむとは、あるものに執着し、これを犠牲にすることを強くためらうことを意味します。神様にとってそのひとり子を人間の罪のために十字架につける事は耐えられないほどの苦しみであったことでしょう。また、死に渡されたとは見放されたという意味があります。神さまは私たちのために命を惜しまないで、裁かれ、見放されたのです。それはただただ私たちへの愛ゆえでした。それほどまでに私たちのことを愛されているのです。
岩渕まことさんという有名なゴスペルミュージシャンの方が生み出した「父の涙」という名曲がありますが、十字架から溢れ流れる泉、それは御子を惜しまれながらもささげられた父の悲しみの涙であり、イエスの愛であるとうたわれています。この神の愛が完全に現れている十字架こそ、神が私たちの絶対的な味方であるということの証拠なのです。
全知全能であり、創造主であり、裁き主でもありながら、だれよりも世を、私たち人間を愛し、憐れみ、慰め、全てをささげてくださった。そのような神が私たちの味方であるならば、だれも敵対などできません。神が味方の私たちに、もはや敵などいないのです。

②だれが私たちを罪に定めることができますか?
次に二つ目の問いを追っていきましょう。それは「だれが私たちを罪に定めることができますか?」といったクエスチョンです。

ローマ8:34
「だれが、私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

誰が私を罪に定めるか。もちろん、ここにもそんなものはいない、という答えがパウロの中には確信的にあります。だれも私たちを罪に定めることはできないのです。罪に定めるということは、そこには裁判というものがあります。そして裁判は訴えられて初めて始まるものです。
少し前段階の質問を見てみましょう。33節に「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」とあります。この答えも当然、それはだれにもできないというパウロの明確なノーという裏のメッセージがあります。私たちを義としてくださった神の判決に対してだれもひっくり返すことはできないのです。
しかし、それでも私たちを訴え、罪に定めようとする狡猾な見えない力があります。それがサタンです。サタンはまず、わたしたちの心に囁くようにして、訴えてきます。私たちは神様の方からあらかじめ定められ、ただその主権と憐れみによって救われています。万事を益とされる神の恵みの確かさの中にいます。しかし、それであってもそのわたしたちの信仰をサタンはぐらつかせようとしてきます。しかも、それはあたかも一見、もっともな正論のような言い方で囁いてきます。こんなに罪にまみれてしまって・・・、さすがにそこまでやったら赦されないよ・・・、いつまでたっても変わらないお前はもう神から見捨てられたのだ・・・、神はそんなお前にもう呆れているよ。
このようにサタンは私たちの心を動揺させて、さらには神に訴えるのです。こいつはこんなに罪人ですよと罪状リストを読み上げるのです。このまま、私たちは罪に定められてしまうのでしょうか。いや、そうではない。誰も私たちを罪に定めることはできないとパウロを通してみことばが約束をされています。その約束の根拠はイエス・キリストです。全てを捨てて死なれ、復活された栄光の主イエスが神の右の座に座られ、わたしたちのためにずっと執り成し続けてくださっているのです。ヘブライ人への手紙7:24−25にはこう書かれています。

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

イエス様はこのように大祭司でもあり、また、弁護者とも言われています。弁護士となって私たちを助けてくださるのです。これほど頼もしい敏腕弁護士はいません。100戦100勝、負けなしの弁護士です。法廷に立ち、「この人の罪は私が責任をもって、全てを受け取った。この私の十字架における打ち傷がその証明である。私のこの十字架の贖いにより、そしてその私の救いのわざを信じている者にゆるされない罪はない!!」とこのように力強く弁護してくださるのです。そして、この弁護により、裁判官である父なる神は、キリストの十字架、キリストの義によってこの者に罪はないものとする。よって無罪である、と高らかに宣言されるのです。だれもキリストの義にあずかっている私たちを罪に定めることはできないのです。自分自身の至らなさよりも、キリストの十字架の恵みの力の方が圧倒的なのです。私たちは自分自身の力ではなく、この確かな神の救いを誇り、平安の中、生きていきたいものです。

イザヤ50:8−9
「わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。だれがわたしを訴えるのか。わたしに向かってくるがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう。」

③誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができるのですか?
神が私たちの味方となり、キリストが私たちの弁護者となり、もはや私たちに敵はなく、私たちを罪に定める者もいません。それほどまでに、私たちの救いの恵みは確かなものなのです。その堅く、確かな救いの恵みを確かめた後、パウロは最後の問いを私たちに投げかけます。それは「だれが、そんな私たちをキリストの愛から引き離すことができるだろうか。」というクエスチョンです。そして、パウロはこの最後の問いに対して、だれも引き離すことはできないのだと力強く断言します。その揺るぎない確信の中での断言こそが今日の箇所の結論なのです。
しかし、それでも私たちを揺さぶるものがあります。この現実があることもパウロはよく知っています。それは人生の中にある苦難です。艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。私たちは人生の中で多くの苦しみにあうことがあります。クリスチャンであると、なお多いというところもあります。そのような私たちをパウロは「一日中死にさらされ、屠られる羊」のようだと例えています。
クリスチャンになったら、いいことばっかり起こって、ハッピー。キリスト教はそんな現世利益を求めた御利益信仰ではありません。クリスチャンになっても、いやクリスチャンだからこその苦しみがあります。しかし、そのただ中にこそ主が共にいてくださるのだ。だから、私は安心してこの苦しみの道を歩んでいくことができるのです。このような思いの中で苦難に向かっていけるところにキリスト者のまことの幸いがあります。
人生というものがどのようなものであるか、まだまだ何も知らない若輩者の私がこのようなことを言ってもあまり説得力はないかもしれませんが、しかし、パウロは口だけではありません。実際、彼はキリスト者ゆえの苦しみを受け続けてきた人物でした。パウロの人生はまさしく苦難そのものでした。しかし、彼の福音の恵みに対する喜びはその苦難の中にあっても増し続けました。彼は獄中の中においても神さまを賛美しました。
苦しみの中であっても、いや、苦しみの中だからこそパウロはキリストと共にある喜びをおぼえていたのではないのかと思うのです。私たちは屠られる羊のようだと先ほど言いましたが、屠られる羊とはまさにイエス・キリストそのものであります。パウロは苦しみを通る中でキリストの十字架の苦しみを共に味わい、主イエスはこの苦しみ、いやこの何百倍の苦しみを通られ、私を救ってくださったのだ。そのような思いがパウロを苦しみの中からの喜びへと導いていったのではないでしょうか。こそれこそがまさに、キリストと共にいるということではないでしょか。
痛みを知らないどころか、どこまでも知っていたパウロの発言にはとても説得力があります。パウロのその苦しみの中で得た確信は今や、神のみことばとなって私たちに迫ってきます。

ローマ8:37
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」

私たちは、神の愛によってあらゆる苦難に打ち勝ち、輝かしい勝利を収めるのだとみことばは、約束してくれています。新改訳においては、私たちは圧倒的な勝利者であると訳されています。僅差、じゃありません。かろうじて勝つとかでもありません。神が私たちに約束された勝利はぶっちぎりの圧倒的な勝利なのです。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、という表現が38、39節にありますが、これは聖書では時折使われる表現で、対極にあるものを2つだしあうことによって全ての領域においてという意味を表現しているものです。つまりは、全ての領域において、どんな被造物も神の愛から私たちを引き離すことは決してできないのです。救いの圧倒的な確かさを高らかに宣言するこの言葉は、まさしく宝石のようなまばゆい光を放っています。
自分の至らなさ、罪が残っている自分の姿を見た時、私たちはこんな私で本当に大丈夫なのだろうか・・・、本当に救われているのだろうか・・・、そんな風に思ってしまうこともあるかもしれません。でも大丈夫なのです。心配無用なのです。私が言っているのではありません。みことばが私たちに堅く約束をしてくださっているのです。
自分のいたらなさに涙することはとっても大事なことです。自己吟味は私たちの信仰成長の上で不可欠なものです。しかし、その後に十字架のイエスを見上げることはもっと大事なことです。その至らない、汚れに汚れた私の罪の全てをイエス様が引き受けてくださったのです。私たちは最後には必ず十字架という希望と勝利の約束がされている。その確かな恵みを受けとってていきたいと願います。神の絶対に私たちをあきらめない愛に希望を持って、主に信頼してハレルヤと神を賛美しつつ、人生を共に歩んでまいりましょう。

武井誠司

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