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絶えず祈り続けなさい (ローマ12:9~21)

メッセージ

2010年12月25日富里教会
「絶えず祈り続けなさい」
(ローマの信徒への手紙12:9~21)

今日は、クリスチャン生活の基本について、見てみたいと思います。12:9~12までの短い聖書箇所の中から、三つのことを取り上げてお話したいと思います。一つは、「愛に偽りがあってはいけない」ということ。二つ目は「霊に燃えて主に仕えなさい」ということ。三つ目は「たゆまず祈りなさい」というこの三点についてお話してみたいと思います。

1.愛に偽りがあってはいけない

まず最初に、「愛に偽りがあってはいけない」ということですが、9節から読んでみます。「愛に偽りがあってはなりません。悪は憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(9~10)リビングバイブルではこの箇所をこう書いています。「ただ見せかけで人を愛してはいけません。真心から愛しなさい。悪いことを憎み、良いことには味方しなさい」と。偽りの愛、それは見せかけで人を愛していることです。一見クリスチャンのようですが、実はそうではない。礼拝に来ている、奉仕もしているけれど見せ掛けだけの信仰生活もあるというのです。

先々週でしたでしょうか。こういうことがありました。ガスの給湯器のスイッチを押しても電気がつかないのです。バプテスマの前の土曜日の夜でしたので、明日はお湯が出ないかもしれないと困ってしまいました。どこが故障かと思いまして、教会の裏の給湯器の電気のコンセントの所に行って見ました。「コンセントも繋がっている。電気は来ているはずだ。」と思いました。そして、念のため、コンセントをもう一度下から上に差し込んでみました。そうしたら、フッと電源が入った音がしたのです。そうなんです。コンセントが一見差し込んであるんですが、少しゆるんでいたのです。でも見た目にはコンセントが繋がっているのです。

その時、私は、ああ、これが見せかけの愛なんだと思いました。一見繋がっているように見えます。クリスチャンとして礼拝にきて奉仕も時々します。でも、本当に電源が入っているだろうか、と思ったのです。形だけ繋がっていても、ちゃんと神様の御言葉と聖霊様に差し込まれていなければ、電源が入っていないと同じなのです。電源とは何か、それは二つあります。力の源である神の御言葉です。そしてもう一つは聖霊によって祈ることです。この祈りと御言葉の二つがしっかりと繋がっているでしょうか。

コンセントを見てください。差込が幾つありますか。二つあります。どんな電気製品でも二つの差込を通して電源を取ります。それと同じように、私たちクリスチャンも、祈りと御言葉という二つの差込によって神様と接続するのです。少しでもゆるんでいると電気は来ません。見せかけで繋がっていては、神様からのエネルギーは来ません。しっかりと、外れないように繋がらなければ成りません。

もし私たちがしっかりと御言葉と祈りを通して、神様と繋がるならば、悪を憎み、善から離れることがありません。兄弟愛によって結ばれ、教会員の兄弟姉妹を尊敬し合い、相手を優れた人と見ることができるようになります。見せ掛けだけで愛している人は、悪の行いに走ります。そして、兄弟姉妹を軽視し、自分を誇り自慢します。15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(15~16)とあります。しっかりと繋がっていると、どんな人に対しても尊敬し、へりくだって仲よくすることです。

2. 霊に燃えて主に仕えよ

次に11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」を見てみましょう。ここでは主に仕えるということが述べられています。ここに「霊に燃えて」とありますが、霊に燃えるということは聖霊に満たされて初めてできる奉仕なのです。霊がくすぶっていては奉仕をすることができません。聖霊充満、聖霊にいっぱいに満たされることです。また「情熱」に燃やされてもいけません。「義務と責任」に燃やされてもいけません。「やる気」に燃やされてもいけません。「霊」に燃やされるのです。人間の能力とエネルギーではないのです。人間の情熱や責任感、義務感で奉仕したら、それは長続きしません。すぐに嫌になってきますし、奉仕しない人を批判したり、反対に奉仕する人を妬んでしまいます。聖霊様からくる力と知恵をいただいて奉仕するのです。

皆さん、私がいつも皆さんに思い起こすように勧めている祈りがありましたね。覚えているでしょうか。ここの教会の住所は何ですか。「七栄」です。七つの栄光、聖霊の七つの働きをいつも祈り求めなさいと言って来ました。毎日、毎日聖霊なる神様を求めるのです。そして特に七つの霊の働きを願い求める事です。それはイザヤ書11章の2節の言葉です。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」の七つの霊です。この七つの霊は、エッサイの根から出る新しい芽、ひこばえであるイエス・キリストの上に宿る神様の霊です。イエス様はこの霊に満たされ、この霊に燃えて地上での業を成し遂げられました。

日本語ではピンと来ませんが、英語ではもっとはっきり解ります。「The Spirit of the Lord, Wisdom, Understanding, Counsel, Power, Knowledge, Fear of the lord.」です。訳しますと、「主の霊」「知恵の霊」「理解の霊」「カウンセリングの霊」「力の霊」「知識の霊」「主を畏れる霊」の七つです。私たちは七栄の教会です。これらの神の七つの霊を祈り求めることです。神様は必ずその人に必要な霊の賜物を備えて下さいます。これが、「霊」に燃えることであり、しっかりとコンセントに繋がっている愛の業だと思います。

3.たゆまず祈りなさい

そして最後に、この神様から来る霊に満たされるためには祈りが必要です。
12節に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」とあります。祈りとは何でしょうか。私たちはどのように祈っているでしょうか。また14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とあります。このように、クリスチャンの祈りの力は迫害に会っている時に試されるといわれています。

真剣な真実の祈りは、私たちが満足し、安心している時には忘れられていることがあります。なにか、試練や苦しみや困難がある時に、私たちは祈りの支援をお願いする時があります。困難に会ったり、失敗したり、病気の時や、いじめたり、嫌がらせにあったりする時、私たちは祈りなくしてはその場を乗り越えて行くことができません。

「たゆまず祈りなさい」ですから、いつも祈りなさいということです。私は車を運転する前に必ず祈ります。祈らないと、途中で何が起こるか心配です。ここからそこのポストまでも、車を使う時には祈ります。また、食事の前に祈ります。恥ずかしい話ですが、以前はおなかがすくと、「感謝!感謝!」と口で言って祈らないで食べる時もありました。また、はしを持ったまま、食べるかっこうをして簡単に祈ることがありました。ある時、ハッと気付きました。神様は、私たちの祈りの声と態度を、全部天国のDVDにとっておられるのだと。天国に行ってから、「これがあなたの祈りです。」と再生されたら恥ずかしいと思いました。それで、食事の前も、真剣に祈るようにしました。いつもイエス様を目の前に置いているつもりで、真剣にどんな時でもです。

祈りの時に手を合わせるということは、神様に対して心を向けると同時に、自分の一切の行動、思考を中断します、という意味でもあるのではないでしょうか。今していることから手を離すという態度の現れです。ですから最近は、食事の祈りでも運転の祈りでも、はしをちゃんと置いて、ハンドルから手を離して、手を組んで神様に心を集中して真剣に祈るようになりました。これが絶えず常に、たゆまず祈るということではないでしょうか。

ある時、「神の言葉で祈る」(ベス・ムーア著、いのちのことば社)という本を読みましたらこう書いてありました。「神様は、罪の要塞を取り壊すために、私たちに御言葉と祈りという二つのダイナマイトを渡してくださいました。ダイナマイトを別々の場所に置くよりも、爆発の威力を大きくするにはどうしたら良いでしょう。二本一緒に束ねるのです。つまり、祈りと御言葉の主要なダイナマイトを束ねて、それから、神ができると仰せられたことを信じて火をつけるのです。これによって固い罪の要塞を打ち砕くことができるのです。」と。

私もここに祈りの爆発的な力があるような気がします。聖書に書いてある御言葉を信じて祈るのです。ただ祈るだけではなく、聖書を読む、デボーションの本を読む、ショートメッセージの本を読むとか、ともかく御言葉と祈りを一緒にするのです。ハレルヤ!そうしましたら、本当に夜の時間も聖別され、恐れや不安もなく、夜もぐっすりと眠れるようになりました。夜の静かさや暗いことをも、神様の恵みの内にあるんだと信じて休むことができるようになりました。そうすると朝も、早く起きることができます。

エフェソ6:17からにもこうあります。「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:17~18)御霊の剣である御言葉を手にとって、絶えず目を覚まして、根気よく、祈りなさいとあります。ここに見せかけの愛ではなく真実の愛を、祈りと御言葉を通して、神様から教えられていただくこつがあるような気がします。年末年始、何かと忙しく過ごす時ですが、静かに絶えず御言葉と祈りをもって、神様にしっかりと繋がって過ごしてゆきたいと願っております。(岡田 久)

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