ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

私を思い出してください (ルカ23・32〜43)

メッセージ

2010年3月28日富里教会
       「私を思い出して下さい」
              (ルカによる福音書23:32〜43)

1. 三本の十字架
この小高い丘に立てられた三本の十字架の場面を見る時に、いつも思い出すのは、「苦しむ」という漢字です。この「苦」という漢字をよく見て見ますと、小さな山の上に立てられた三つの十字架からできているような気がします。真ん中の十字架だけが「口」という字の上に立っています。そしてその左右に一本づつ別の十字架が置かれています。でも、口という字の真上に立っているのは、真ん中にある十字架だけです。

つまり、この「苦しむ」という漢字は、このゴルゴダの丘の上に立てられた三本の十字架からできている漢字ではないかと言われています。そして、真ん中の十字架だけが小山のような墓の上に立っています。この口とも見える字は、実は墓の入り口を表わす字だとも言われています。つまり、真ん中のイエス様の十字架だけが、墓の上に立っている、そして墓の入り口がぽっかりと口を開いて開けられていることを示しています。言い換えますと、イエス・キリストの十字架は、すでに罪と死に勝利した十字架だということです。それが墓の上に立てられ、墓穴がすでに開けられたという形をとっているわけです。

そして、右と左の十字架は、死に運命づけられている人間の姿を表わしています。すべての人は、自分の罪のゆえに死に定められており、誰でも例外なく死を迎えるという構図を示しています。ですから、この「苦しむ」という一字の中に、いみじくも人間の世界、人間の歴史、人間の運命が描かれていると言っても過言ではありません。

2. 楽園に向って
前にもお話したかもしれませんが、一人の死刑囚のお話をしたいと思います。彼は、仲間と一緒にアベックの若いカップルを襲って、罪のない二人を殺してしまいました。そして逮捕されて、彼の裁判が始まりました。彼は死にたくなかったし、家族を悲しめるのもかわいそうで、自分は二人を殺してはいないと主張しました。その裁判の中で、一人のシスターが、彼のために教誨師として、立ち会いました。その教誨師のシスターにも、嘘を言って自分はやっていない、これは冤罪だと訴えました。すると、マスコミがそれを取り上げて、この囚人は無実だというキャンペーンが張られ、もう少しで、彼は無実を勝ち取るところまで行きました。しかし、最後には死刑判決が下され、かれは薬物で死刑執行をされることになりました。

でも、最後の最後まで、自分は無実だと言い張りました。そして、ついに死刑が執行される直前に、教誨師のシスターに自分がやったと告白します。彼女は、彼の告白を受け止め、誰でも罪を悔改めるならば、イエス様がその罪を赦して下さり、天国に行くことができますといって彼を励まし、祈りました。その時、看守が大きな声で、「デッドマン、イズ、ウォーキング!」と叫びました。それは、直訳すれば、「死刑囚が刑を受けるために、今、死刑台へ歩いてゆくぞ!」という意味です。そして、実は、この声がこの映画のタイトルになっています。「Deadman is walking!」という題名でした。でもこの言葉は、罪の悔改めを勧めたシスターの耳には、「一人の罪人が、今、ようやく自分の罪を認めて、立ち上がり、天国への道を歩きだした」という風に聞こえたのです。そして私もそのように考えました。

誰にでも死はやってきます。この映画のように死刑台で死ぬ人もあるかもしれません。聖書のように、十字架刑の上で死を迎える人もあるでしょう。あるいは病気で、病院で息を引き取る人もあるかも知れません。あるいは、自宅で家族に囲まれて亡くなる方もあるでしょう。三本の十字架に描かれたように、全ての人生は死に向っています。死は誰にでもいずれ訪れます。その時に苦しむ人もいるかもしれません。

もし、人間が死を目の前にして苦しむとしたら、私は三つのことがあるのではないかと思います。一つは、自分の今まで犯してきた罪や過ちに対する後悔の念、二つ目は、今の苦しみの状態を避けたいという思い、三つ目は死んだらどこに行くのだろうかという、将来に対する不安と恐れ、この三つがあるような気がします。

1) 過去の罪、過ちに対する贖いの十字架
人間は、死に直面して、自分の過去の罪や過ちについて振り返る人はいると思います。でも、そこで、自分の罪や過ちを認めて、悔改める人は少ないのではないでしょうか。あの映画の死刑囚も、どこまでも自分の罪を隠して、死を免れたいと思いました。また、十字架の上の一人の死刑囚もそうです。自分の罪を認めようとはせず、どこまでも他人のせいにし、何とか十字架から助かろうとしました。

でも、イエス・キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34)と言って、自分をあざ笑い、自分をののしる人々のために、十字架の上でとりなしの祈りを捧げておられたのです。このように主はどこまでも、私達の罪のために執り成し、私たちが負うべきその責めをご自分の身に負ってくださいました。

私たちが過去に犯したどんな罪も、罪のない御方が、その身に背負って、身代わりになって十字架にかかり、苦しんでおられたのです。イエス・キリストの十字架は自分を救うためではなく、私たちの罪を赦し、救わんがための十字架だったのです。

2) 今の苦しみの只中で、共にいてくださる十字架の主
もう一人の囚人は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40)と言って、イエスをののしっている囚人をたしなめました。彼は、自分の犯した罪を認め、その報いとしての死を受け入れる覚悟をしていました。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい。」(42)と言いました。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43)と言われました。(40〜43)

イエス様は、この死刑囚のそばに立って、死を目の前にして苦しんでいる人と同じ姿をとり、同じように苦しんで下さいました。たとえ罪を犯して、一人で死刑台に向かわなければならないとしても、あるいは病を得て、人知れず病魔と戦って病院のベッドで死を迎えなければならないとしても、それでも、主イエス・キリストは私たちのすぐそば近くにいてくださいます。死の瞬間にも、共にいてくださるお方です。そればかりではありません。死ぬ前も、死ぬ瞬間も、死んだ後もいつも、そばにいてくださいます。

3) 楽園に向っている十字架
イエスと共に十字架につけられた一人の死刑囚は、「私を思い出して下さい」と言いました。大胆な信仰決心をしたわけでもありません。こんな罪深い私でも、あなたの御国に入れるなら、どうぞ、その時には罪深い私をもちょっとでもいいですから思い出して下さいという控えめな、つつましい言葉です。自分がおいそれと救われるとは思っていなかったかも知れません。それに対して、主イエスは、「あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。楽園とは、一般に天国への待合室といわれている所です。クリスチャンは死ぬと同時に楽園に移されます。そして、そこで主の再臨の時を待つのです。楽園に行った人は必ず、天国へ行きます。

そして、このイエスの十字架の道は必ず、天国に向っております。私たちといつも、どんな時にも共にいてくださる主。死の間際にあっても共に並んで歩んで下さる私たちの主イエス様、このお方にすがって行くならば、必ず、死の向こうには命があります。闇の向こうに光が待っています。それが「あなたは今日わたしと一緒に楽園に入る」という言葉です。

彼は立派な信仰告白書を書いたわけではありません。浸礼のバプテスマを受けたわけではありません。献金も、訓練も、奉仕も伝道もしたわけではありません。もう目の前には死しかありませんでした。でも、自分の罪を静かに認め、こんな私でも御国に入ることが出来るのであれば、どうか、その時には「私を思い出して下さい。」と願いました。

どんな小さな信仰であっても、イエスは決して見捨てられません。「今日、わたしと一緒に楽園に入る」とおっしゃって下さいました。この主イエス・キリスト様の大きな恵みと十字架の贖いの業を感謝しつつ、「私を思い出して下さい。」と祈りながら、この受難週を共に過ごして参りたいと思います。

                                       (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional