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私の羊を飼いなさい

メッセージ

2009年4月26日富里教会

    「わたしの羊を飼いなさい」
               (ヨハネによる福音書21:15〜19)
                          

1.わたしを愛するか

「食事が終ると、イエスはシモン・ペテロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。』と言うと、イエスは『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」
                    (ヨハネ21:15〜17)
ここではイエス様が尋ねています。「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか?」
私たちは神様への愛の証明として、何をもって表わすことができるでしょうか。しかも「他の弟子以上に私を愛するか?」と尋ねられました。私たち日本人ですと、みんなと同じようにあなたを愛します、と答えるかもしれません。でもイエス様は、みんなに合わせなくてもいい、あなたはどうなのか、他の人以上に私を愛しているのかと、個人的に尋ねておられます。

これに対してペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。しかもこのような質問が3回もあったのです。イエス様が3回も同じことを尋ねられたということは、ペテロが、以前にイエス様を3回も知らないと言って、裏切った言葉に対応しているのではないかと思いました。かつてペテロは、イエス様が逮捕されて取調べを受けている時に、自分もイエスの仲間だと言われました。その時、「イエスなんか知らない、仲間ではない」とつい、言ってしまったのです。3回イエスを否定したと言うことは、完全に主を否定したと言うことです。

しかし、私たちが完全に主を否定し、知らない、関係がないと言ったにもかかわらず、イエス様は3回も「私を愛するか」と尋ねられました。これは、イエス様が私たちをどこまでも見捨てず、罪を悔い改めて従って来ることを訴えているのではないかと思います。「ペテロよ、お前は私を完全に見捨てたけれども、私は決してお前を見捨てはしない。あきらめない。たとえお前の罪が私の身体を傷つけたとしても、十字架の上で両手を広げたように、私はどこまでもお前を愛している。お前はどうなのだ。ヨハネの子シモン。私を愛しているか?」と尋ねられたのです。弱い罪人の私たちを愛して止まない主の愛の言葉が、この3回の質問ではなかったでしょうか。イエス様の愛は、私たちの完全な否定と背信にもかかわらず、どこまでも執拗に追いかけて行って、捕まえ、私たちの応答を求められる愛です。

ヨブ記の中に、神様の執拗な愛について反論しているヨブの言葉がありました。「(神様、)もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください、わたしの一生は空しいのです。人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない。」(ヨブ7:16〜19)この執拗なまでの神様の問いかけに対して、ヨブは「もう放っておいてください。なぜ、私をそこまで追い詰めるのですか?」と問いかけています。唾を飲み込む瞬間さえ、神様は私たちから目を離さないで、見ておられるのです。

2. わたしの子羊を飼いなさい

イエス様はペテロに三つの使命を授けられました。一つは、「わたしの子羊を飼いなさい」。二番目は、「わたしの羊の世話をしなさい」。三番目は「わたしの羊を飼いなさい」という言葉です。英語の聖書(NIV)では「FEED MY LAMBS」「TAKE CARE OF MY SHEEP」「FEED MY SHEEP」となっています。つまり、イエス様が最期に一番言いたかったことは、私の子羊や羊、すなわち新生したばかりのクリスチャンやベテランのクリスチャンを御言葉で養い、牧会しなさいと言うことです。

これが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われた主の大宣教命令の中味でもあるのです。福音を宣べ伝えることとは、まず伝道して魂を救い、キリストの羊である信徒を養い、牧会して世話をし、キリストの子羊を御言葉を持って養うことなのです。しかもこの大切な働きは、自分の弱さ、欠け、失敗、挫折を人一倍感じている者に託されたのであります。イエス様は、ペテロが優秀だったからではなく、信仰があったからではなく、失敗者だったからこそ、主を何度も裏切って、御心を悲しませ続けた者だからこそ、この働きを最期に委ねられたのでのではないでしょうか。自分の弱さ、不十分さを知る者こそ、真に自分の知恵や力によってではなく、キリストの知恵と力により頼む者だからです。

ペテロはこの後も、イエス様が愛しておられた弟子の一人で、この福音書を書いたヨハネのほうを振り向いて、こう言っています。「主よこの人はどうなるのでしょうか。」(21:21)と。するとイエス様は、「あなたには他の弟子がどうなろうと関係が無い、ただ、あなたは私に従ってきなさい。」(21:22)と言いました。このように、ペテロは最後の最後まで、他の弟子と自分を気にしていました。あんなに「愛しているか」と尋ねられ、「愛しています。それはあなたが知っています。」と言っていながら、最後まで人目を気にし、比較する信仰しか持ち得なかったペテロでした。それでもイエス様はこのペテロに、「あなたは、ただ、私に従ってきなさい。他の人のことは気にせず、私の羊を飼いなさい」と言われたのです。

信仰はイエス様と私の関係です。始めから最期まで、どこまでも私たちを愛し抜いて下さったイエス様に従うことです。このペテロのように、自分中心で弱い私たちです。でも、不十分だからこそ、失敗をし挫折をし主の御心を何度も悲しませた者だからこそ、イエス様は主の羊を養い、世話することを委ねたのではないかと思います。

ペテロはこの後、使徒言行録では、聖霊の力によって、弟子のリーダーとしてすばらしい働きをしました。そして、聖書にはありませんが、伝説では、最期にイエス様と同じ十字架にかかるのはもったいないと言って、あえてさかさまに十字架につけられて、殉教したと言い伝えられています。十字架の大きな愛をもって、私たちを愛し、弱くて不十分な私たちを決して見捨てることなく、
どこまでも「私を愛するか?」と問い続けて下さっておられる主に心から感謝し、主の御後に従って行きたいと願っております。 
                                            (岡田 久)

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