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私たちは憐みの器 (ローマ9:19~29)

メッセージ
2021/10/24
富里キリスト教会礼拝説教
「私たちは憐れみの器」
(ローマ書9:19〜29)

①神の主権と人間の自由意志
前回、私たちは神の選びという教理的な面から、神の恵みの確かさというものを改めて実感する機会が与えられました。私たちが救われたのは、自分の意志、力、知恵、はたまた善い行いのゆえにではなく神の主権によって選ばれて救われたのだ、ということです。そしてその神の選びは気まぐれでも、神ご自身の利益や都合などではなく、ただただ私たちへの慈しみとあわれみゆえになされたことでした。そして、さらに言えば神様は私たちを、人類の救いの計画を達成するために選ばれました。私たちが選ばれ、救われたのは私たちのためでもあり、人類全ての救いのためでもあったのです。
このローマ書9章とは神の救いにおける主権と絶対性というものが語られている箇所です。今日はその続きとなっていくわけですが、19節からはまずその神の主権と絶対性というものからでてくる疑問、不満というところから始まっていきます。

ローマ書9:19
「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」

もし神が人間の心、意志までも主権によって自由に支配しておられるのなら、たとえ人間が神に反逆したとしても人間に責任はないじゃないか。神様が人間を責めるのは矛盾じゃないか。そんなのおかしいじゃないか。こう主張してくる人がいることを見越して、パウロはここでも先回りしてその疑問について取り扱います。
神の主権と人間の自由意志。実はこれは聖書における永遠のテーマとしてずっと昔から神学議論がなされ続けている事柄です。神が全てを支配しているなら人間のしたことに責任は問えないじゃないか。一見、ごもっともと言いたくなるような主張です。しかし、このような理屈に立つとそれでは人間とはただのロボットになってしまいます。確かにそうであれば、人間が犯した罪に責任などないといえるでしょう。
しかし、神様は決して私たちをロボットのようにしたいとは思われません。強制的にではなく私たち自身の方から神様を求めて、帰ってくることを願われているのです。父親として子供である私たちをその主権によって支配下に置きながらも、私たちの自由意志を最大限に尊重もしてくださっているのです。
支配されながらも自由?言ってる方も聞いてる方もこんがらがってくるかもしれません。申し訳ございません。しかし、聖書はこの両面を確かにはっきりと語っているのです。人の力が全く及ぶことのできない神の恵みによってのみ人は救われる。このように明言もしていますし、他方であなた自身の心の悔い改めによって、神のもとに立ち返るその一歩によって、神との関係は回復に至る。そういったこともまた明確に語られています。これらの二つは人間の理性で考えると両立し得ない矛盾にみえるかもしれません。しかし、これらの事柄は決して矛盾しません。それは、私たちの信仰生活の中で本当に実感することです。ここにこそ人間の理性をはるかに超えた神の言葉の真理があるのだと私は思います。
私たちは、神を信じ、みことばに従うことができた時、誰かを無条件で愛せた時、あの憎くて仕方なかった人を心からゆるすことができた時、そこで、これは自分の意志や力ではない。ここに私の心を突き動かすイエス・キリストがおられるのだ。そういったことを実感することがあります。他方で、自分自身が罪を犯してしまった時、自分の中から溢れてきた意志、欲望、ねたみ、怒りによって私は行動してしまった。そういった実感を覚えることもあるでしょう。
このように神の主権というものと人の自由意志というものは深く大きく絡み合っており、ここまでは神の主権、ここからは人の意志と簡単にいうことはできません。大切なことは神学的な正しさよりも、神様と自分との向き合い方ではないかと思います。
例えば私自身の心がけていることで言えば、みことばに従うことができ、だれかにキリストの愛を表すことができた、そのような時、それは神様が私を神の主権による恵みによって働いてくださったのだと、主に感謝するように心がけています。それが神に栄光を帰すということだからです。私の功績ではなく、神のみわざであるということです。
他方で、みことばに従えず、罪を犯し、誰かを傷つけてしまった時、それは自分の罪、弱さゆえのことであるとして、神のみ前において悔い改めるように心がけています。簡単に言えば、何を成功、何を失敗とするかは置いておいて、うまくいったときは神様のおかげ、失敗した時は自分のせいだと思うようにしているということです。大切なことは自分の意志をはるかに超えて、神の栄光がこの私を通して表れたということを感謝すると共に、自分の自由意志によって選び取った罪の責任を神の主権を言い訳にして逃げてはならないということではないかと思います。

②陶器師なる神と陶器でしかない私
そして、私たちが神の主権を前にして、心がける何より大切なことは人としての分をわきまえるということです。私たちは決して神様に文句を言える立場ではないのだということです。聖書では、神と人の間には決して超えることのできない明確な線引きがなされています。

ローマ9:20
「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」

神に口答えとは、お前何様?造られた分際で造った側に文句いうのか?パウロも中々に手厳しいですね。しかし、確かにその通り。創造主と被造物。この超えることのできない線引きを人はわきまえなければなりません。そもそも、神なくばこの私の命もない。神のご意志、主権によってはじめて自分は存在することがゆるされている。そして私は、その神の救いの計画に用いられるために生まれてきたのだ。このような認識が大切です。私は神によって造られたという創造論を信じることは本当に大事なことです。近代に入ってから人間を中心とした思考が強くなりましたが、人のために神がいるのではなく神のために人がいるということを私たちは踏まえる必要があります。
しかし、そこに立った時こそ、その圧倒的に超越した神ご自身が私たち人間のために、その線を飛び越え十字架にかかってくださったということの深さ、重さを知ることができるのです。その神の真実な愛に私たちはどこまでも慰めを受けるのです。
そして、パウロは神様と私たち人間の関係を、焼き物師、陶器師と陶器の関係に例えています。この例えは、旧約聖書のイザヤ書などで何度もされている表現です。陶器師が何を作るかは自由です。陶器が土の段階で、このように作ってよとは注文できません。陶器は造られる側の存在であって、決してお客様ではありません。こんな器、注文していないという身分ではないのです。人はあくまで陶器側なのです。そうであるのであれば、陶器師に文句を言えるでしょうか。したとしてもその姿は滑稽でしょう。私は犬の餌入れなんかに使われたくない(決してワンちゃんを卑しい存在とみているわけではありません)。美しい花を入れる花瓶が良かったのに!!このような姿は、もはや漫画の世界です。
陶器は陶器師の思いのままに造られる存在でしかありません。しかし、陶器師なる神様は、決してご自分の利益や、気まぐれで適当に陶器である私たちを造ったりはしません。この世を、つまり私たち人間を救い出す、神様の救いの計画に用いるために、私たちを色んな形に造るのです。そこには神様の明確なご意志ととご計画があります。しかし、神様は決してその器をただの道具としては見ず、自分の創り出した愛おしい作品としてどこまでも、その器を喜ばれるのです。

イザヤ43:1
「ヤコブよ、あなたを創造された主は。イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。」

イザヤ43:4
「わたしの目にはあなたは値高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」

これが私たちに対する陶器師なる神様の目線であり、価値観です。ご自身が造られた作品としてどこまでも愛し、貴いといわれ、あなたは私のものと名前で呼びかけてくださるのです。人はその神に造られ、愛された貴い作品であることを喜びをもって受けとめ、そのご計画に沿って生きていこうとした時、その人の人生はまことに輝くのです。
なのに、人はこんなの嫌だ、もっと立派な人に作ってほしかったなどとぶつくさ文句を言ってしまいます。ここに人間の傲慢さと罪があります。せっかく神がご計画の元、自分という器を造り出してくださったのに、その自分を否定する。その罪が私という器を怒りの器へと変えてしまうのではないでしょうか。しかし、神様はその怒りの器を怒りに任せて割ったりはせずに、寛大な心で忍耐されました。
人間国宝の名人だったら駄作の陶器はどんどん気に入らないと割ってしまうことでしょう。でも、神様はご自分からは決してこの器を割ったりはされないのです。たとえ欠けもヒビもある失敗作のように見えても、一つ一つの器をご自身が創り出した作品として、これは私のものとよびかけ、愛でてくださるのです。その神の愛と憐れみに気づき、神のご計画に選ばれた器として用いてくださいと、神のみ前で悔い改めた時、主はまことにその私という欠けた器にあふれんばかりの憐れみを注ぎ、救い出してくださるのです。その時初めて私たちは憐れみの器として神の栄光を表すこととなるのです。

③私たちは憐れみの器
神の主権と絶対性が人間の悔い改めと融け合った時、人は神の恵みによって救われます。そこに私自身の功績などは一つもありません。自分自身の意志による決断に見えるかもしれませんが、その自分の意志すらも神によるものだと感謝し、賛美することが、栄光を神に帰するということであり、そこに憐れみを受けた器としての本分があります。
この福音がはっきりと表された今、ユダヤ人と異邦人の違いを超えてあらゆる国民が、神の民イスラエルとなることができるようになったのです。福音はあらゆる民族や文化の壁を超えていくのです。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、そんなものは関係なく神様は、主権を持って私たちを憐れんでくださるのです。
その真理の根拠としてパウロはホセア書を引用しました。

ローマ9:25−26
「私は自分の民でないものを私の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは私の民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

この言葉は、ここだけ聞くと異邦人に向けられた言葉のように聞こえます。実際ここでは、パウロはそのような意味合いとして引用したでしょう。しかし、このみことばは元々、イスラエルの民に向けた言葉でした。北イスラエル王国という、建国当初から金の仔牛像を建てて拝み、外国の宗教に染まり、偶像礼拝を平然と行い、神に背を向け続けてきた背信のイスラエル。生けるまことの神と契約を結びながら他の神々にうつつを抜かした姦淫の罪によって彼らはもはや神の民と呼ばれなくなりました。そのような者に対して神様はそれでも愛された者よと呼んだということなのです。
ホセア書とは独特な物語性のある預言書でもあります。預言者ホセアに不貞を犯すゴメルを妻として迎えよと神様は命じます。それはイスラエルの不貞を神がどれほど心を痛めているかを知るためでした。そして案の定、ゴメルはホセアとの子を設けながらも、何度もホセアを裏切り他の男と不貞を犯します。それでもホアセはゴメルを愛し続けるのです。このホセアの姿はどこまで落ちたとしても、決して見放さない愛と忍耐に満ちた神様ご自身の姿を表しています。これほどイスラエルの民というものは憐れみを受けていたのです。そうであるのならば、今まで無関係のように見えた異邦人であったとしても愛と忍耐の神がその異邦人を憐れまれないはずがない、ということなのです。
私たちは憐れみの器です。神の憐れみがなければ器として用いられるどころか、本来粉々に割られても仕方ない器です。それにも関わらず神は私たちを憐れみ、救い出してくださったのです。そして、主はその憐れみの器である私やあなたを用いて、また新たに憐れまれた者を救いへと導いてくださるのです。そのために私たちは神様に憐れみの器として選ばれているのです。
また、このような憐れみの器である私たちのことをパウロは、イザヤ書を引用しながら残りの者と表現します。この残りの者とはバビロン捕囚で国が滅びつつも耐え忍び、その苦境にありながらも神に従い信仰を守り続けた者のことを言い、この残りの者から新しい神の民が形成されていくことを主はイザヤを通して預言されました。まさしくこの残りの者とは神の憐れみによって選ばれた者であり、選ばれたゆえに彼らは信仰を守ることができました。
この日本社会で生きる私たちは圧倒的マイノリティです。日本人のクリスチャン人口は1%にも満たないと言われています。まさしく私たちは、神の憐れみによって選ばれた残りの者といえるでしょう。肩身の狭さを覚えたり、理解されなかったり、偏見の言葉をあびせられることもあるかもしれません。特にクリスチャンホームでなければ家族との関わりという面で悩むことも多くあるかもしれません。しかし、そのような場所で生きる私たちにこそ主は、愛された者よと呼び、生ける神の子らよと憐れみをもって呼んでくださっているのです。この慈しみと憐れみの神の御支配の中で、私たちは生きています。
なぜ、私たちがこの、世界の中でも群を抜いて宗教に対して無関心な国と言われる日本で生まれて、クリスチャンとして生きているのか。その理由は私たちにはわかりません。わかっていることはそこに神様のご計画があり、神様がその主権によって私たちを憐れみの器として選ばれたゆえに、今私たちは、この日本の富里キリスト教会で神を礼拝しているということです。この神に選ばれた器として用いられることを喜びとして、主と共に歩んでまいりましょう。私たちには神様から与えられた使命があるのです。この光を届けていく使命があるのです。その神の使命を受け取って生きる時、私たちの人生は本当の意味で光り輝いていくのです。共に憐れみの器としての人生を全ういたしましょう。

マタイ5:14−16
「あなた方は世の光である。山の上にある街は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」

武井誠司

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