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私たちは御霊に生きる父なる神の子ども (ローマ8:1~17)

メッセージ
2021/9/12
富里キリスト教会礼拝説教
「私たちは御霊に生きる父なる神の子ども」
(ローマ書8:1〜17)

①キリストに結ばれた者は罪に定められない
先週は、クリスチャンの心の中には二人の自分、自分の欲望を愛そうとする肉の人と神を愛そうとする霊の人がいて、その霊と肉の戦い、葛藤、ジレンマがあるのだ。そういうお話をしました。救われてもなお、私たちの中に罪は残っている。残念ながらそういった現実があります。したいことをせずにしたくないことを思わずやってしまうのです。誰がこんな私を救い出せるのだろうか。そんな自分に絶望してしまいます。しかし、そのときこそイエス・キリストの十字架は燦然と光かがやくのです。罪赦されながらもなお、罪に負けてしまうこの私。しかし、その罪すらも贖い、愛によって包み込んで、ないものとしてくださるイエス様。その福音の恵みの圧倒的なすごさにパウロは思わず、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」と声高らかに叫ぶのでした。
そして、今日のこの8章へと入っていき、パウロのテンションはMAX、ピークとなっていきます。ローマ書とは全部で16章ありますが、8章でちょうど真ん中、ここから折り返しとなります。そしてこの8章こそがローマ書のピークであると多くの神学者が語っていますが、確かにそうだなと私も思っています。なぜなら、この8章では神の救いの恵みというものがどれほど揺るぎない、絶対的なものなのか。そういったことが語られているからです。先週、私たちはキリストにあってすでに勝利者であるということを話しましたが、これは8章の最後に語られているパウロの確信的な結論であり宣言なのです。そしてその宣言は、小さな信仰者である私たちに大きな励ましと確信を与えるものなのです。それゆえ時に人は、このローマ書の8章に対して「もし聖書を指輪に見立てるならば、それに付いている宝石がロマ書であり、第8章はその宝石の輝き(輝点)である。」とまで称えています。
私たちはイエス・キリストへの信仰によって義と認められ、罪赦された。このことをパウロはここまで何度も語ってきました。しかし、この罪からの救いとは、最初は内実の伴っていない形だけのものでもあると言えます。信仰者となってからこそが本格的な罪からの脱却というものが始まっていくのです。それは罪との戦いという、クリスチャン独自の苦しみとも言ってよいかもしれません。しかし、私たちはその戦いに決して負けることはありません。なぜなら自分の力で戦うのではないからです。恵みによって罪から脱却するのです。決して負けない、その揺るぎない根拠はキリスト、聖霊、そして父なる神であられる三位一体の生けるまことの神様が私たちを全方向から包み込んで、捉えて離さない、その恵みの確かさにあります。
ここからはその三位一体の神である、キリスト、聖霊、父なる神の恵みの確かさについて一つずつ見てまいりましょう。まずはキリストです。

ローマ8:1
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

キリストに結ばれている者は罪に定められない。このようにパウロは言い切ります。揺るぎない確信を感じます。私たちもまず、この確信に立ち続けることが本当に大切です。なによりこの真理は、主イエスご自身からも明確に語られているのです。

ヨハネ福音書5:24
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

このように語られています。神は世、つまり私たちを愛されたがゆえに人となってこの地に降りてこられました。その方こそがイエス様です。そして、それは私たちに永遠の命を与えるためのわざでした。罪と死の法則に生きる私たちを解放し、命をもたらす霊の法則に生きる者へと変えてくださったのです。そして、それはただの法則ではなく私たちのマインドを律法から恵みへと変えるものでした。自分の力で救いを達成しようとするのではなく、このお方にしかこの私を救うことはできない、いや、このお方こそ私の救い主なのだ、という神に完全に委ねるという、赤子が親に対して覚えるような全き信頼の中で救われていくというマインドです。
そして、確かにこの主イエス・キリストというお方はこの世の中で最も信頼に足るお方なのです。私たちには、欲望、自己中心といった肉の弱さを抱えています。それゆえ、律法をかなえることができませんでした。しかし主は、この罪に囚われた私たちを憐れみ、あえて肉の弱さを持つ人間と同じ姿となられ主ご自身は罪なき者でありながら、人間の罪を取り除くために甘んじて罪ある者として十字架刑を持って処断されました。
本来、処断されなくてはならない私たちの身代わりとなって裁かれたのです。つまりすでに私たちの罪は、キリストの十字架をもって裁かれたということです。それゆえにそのキリストを信じる者は罪なき者とされているのです。そして、もはや私たちは死の裁きという恐れから解放され、さらにはその喜びによって律法を行う力までも与えられたのだと聖書は語っています。それは旧約聖書からずっと語られ続けてきた約束の成就でもあります。このキリストを信じ、委ねる、つまりキリストに結ばれた者は決して裁かれることはないのだ。この安心感こそがまず罪と戦っていく上で必要な土台となっていきます。

②聖霊によって歩む
キリストに結ばれる。これはキリストとの一体化、キリストと一つになるということでしょう。もはや生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きているのです(ガラテヤ2:20)。こういった心境です。そしてキリストと一体となった私の肉は全て十字架に打ち付けたのです。

ガラテヤ5:24
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」

しかし、それでも罪、肉というものは私たちの中ですくなからず残っている現実があります。油断するとむくむくとその欲望が湧いてきます。その肉の力に対してどのように対抗するべきでしょうか。決して自分の力では勝てません。答えは二つ目の恵みの確かさ、聖霊によってです。先ほど読んだガラテヤ5:24ではこのように続いていきます。

ガラテヤ5:25
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

霊に従っていこうとパウロは勧めます。自分の中に残っている肉に従っていくと、肉に属することばかり考えてしまいます。これは、自分の満足、喜び、自己中心的な考えを指します。この肉の思いというものに自分の意志で戦おうとすると負けてしまいます。今まではそうやって負けていました。しかし、今や私たちは今までとは違います。聖霊が与えられているのです。
「聖霊によらなければだれもイエスは主であると言うことはできない。」そのようなみことばがⅠコリント12:3では語られています。キリストに結ばれている私たちには聖霊がすでに与えられているのです。どれだけ欠けのある小さな信仰だったとしても、それでも私はイエス様を信じている。その信仰告白こそ私たちが救われており、聖霊様が共におられるというしるしなのです。聖霊のことをパウロはここでキリストの霊と表現しています。生けるまことの神様は三位一体の神様なのでこれは間違っていません。聖霊はイエス様そのものだとも言えます。イエス様があなたの中にいるのです。決してあなたをみなしごにはしない。共にいると約束された主イエスがそこにおられるのです。それが聖霊です。

ヨハネ福音書14:16−18
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」

罪との戦いは決して孤独な戦いではありません。一人じゃないのです。この戦いはイエス様と二人三脚なのです。戦う私やあなたの背中をイエス様は時に押し、時に支え、助けてくださるのです。先ほど読んだ箇所の15節に「弁護者を遣わす」と書かれていますが聖霊とは私たちの弁護者であり、助け主とも言われています。たとえサタンが私たちの罪状をこれでもかと訴えたとしても、聖霊様は私たちを弁護し、どのような耐え難い人生の状況におかれたとしても私たちを助け、守り、新しい行いを与えてくださるのです。必ず力が与えられます。
そして、この聖霊の恵みによる罪との戦いの一番のポイントは聖霊とは賜物、神様からのプレゼントだという点です。聖霊は自分の力でひねり出すようなものではありません。ですから、聖霊を通して肉を支配していくという方法はまず自力によらずに聖霊の力に委ねますから、自力による失敗の恐れがありません。更に言えば、この方法は自力で無理して踏ん張り続けるといった苦しさがありません。肉の支配は私たちを欲望の鎖で縛り付けますが、霊の支配は私たちを本当の意味で自由な者へと解放します。「こうしなければならない」ではなく、自然と罪から離れたくなり、自然と神に喜ばれるように生きたいと願うようになるのです。
私たちはその聖霊の働きを信じて求めるだけなのです。自分を喜ばすのではなく、神様に喜んでいただきたい。心の矢印の方向が自分ではなく神と隣人へと向いたその願いは御心にかなっています。必ずそのような思いの中で祈り求めるときあなたの中にある聖霊、イエス様は大いに働いてくださりあなたを作り変えてくださるのです。

③神の子としての特権
子が親に当たり前にねだるように乞い求め、信頼する者を神さまは喜ばれます。私たちが自分を第一とせず、神の国と神の義を第一に求めたとき、神様は我が子を愛するが如く、必要なもの、そして聖霊を与えてくださるのです。

マタイ6:33
「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

そして、神様は実際に子供のようにではなく、私たちを本当に神の子としてくださりました。ここからは最後の恵みの確かさ、父なる神の恵みの確かさについて見てまいりましょう。

ローマ8:14−15
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」

聖霊と共にあるということが、私たちが神の子とされたことのしるしであり、そのことを証明しているのだ。そのようにパウロは言います。以前、救いとは神との和解という関係回復の一面もあるということを語りました。神様は、みなしごとなっていた私たちを再び子供としてくださったのです。
神と私が親子関係であるということ。この事実は私たちに本当に慰めと平安を与えてくれます。なぜなら親子というものはなにがどうあっても親子であることに変わりはないからです。それは、まさしく放蕩息子と父親の関係を彷彿とさせます。息子が父親に背を向けても、父は待ち続け、決して絶縁しないのです。素直にごめんなさいと涙する我が子に、何度離れていようともその度に抱きしめ、口づけをするのです。聖霊と共にある限り、父と子の関係は続き、たとえいっとき離れてしまおうとも、必ず父の元に私たちは引き戻されるのです。それほど父なる神は子である私たちを愛しているのです。決して手放したりはしないのです。
そして私たちは神の子供として御国を受け継ぐ相続人としての特権が与えられているのです。私たちが神と共にいるとき、全てが満たされます。放蕩息子の父親は、自分には何もくれなかったと不満を訴える兄に対し、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と語りました。父と共にあるとき、私たちは相続人として天の御国が約束されているのです。それが全てだと言って良いのです。その素晴らしさを表しているものが永遠の命だと言って良いでしょう。
父親は兄にそのあと、このように言葉を続けます。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。」と。父から離れていた弟は死んでおり、また父の元に帰ってきたことによって生き返ったのだと言うのです。神と共にある永遠の命。まさにこれこそが御国を受け継ぐ者の特権なのです。
私たちが肉の思いである死の世界から霊の思いである命と平和の世界に帰ってくること。これを神様はなによりも喜ばれるのです。なぜなら神様は旧約の時代から私たちに対して、死ぬな、立ち返って生きよ。と切実に呼びかけられ続けていたのですから。私たちが生きることを神様はだれよりも望まれているのです。

エゼキエル18:31−32
「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」と主なる神は言われる。」

キリストに結ばれ、聖霊をプレゼントされ、父なる神に子供とされる。この三位一体の神の恵みが、私たちをこれでもかと言わんばかりにあらゆる方向から全方位的に包み込んでくださっています。私たちの救いとはこれほどまでに確かなものなのです。私たちがすべきことはこの恵みに信頼し、「アバ、父よ」と主に祈り求めるのみなのです。
罪との戦い、肉と霊のせめぎ合いというものは苦しいものです。しかし、キリストと共にその苦しみを受けるのなら、私たちは神の圧倒的な恵みによってキリストと共に栄光も受けるのだと聖書はパウロの言葉を通して約束されています。キリストの内に私がいて、私の内にキリストがおられます。キリストに結ばれ、聖霊が与えられ、神の子とされた私たちは、肉ではなく霊に従って、キリストの命にあずかりながら喜びをもって生きてまいりましょう。

武井誠司

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