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私たちはピースメーカー (マタイ5:9)

メッセージ
2021/08/15

富里教会礼拝説教(平和)
「私たちはピースメーカー」
(マタイ5:9)

◎はじめに

マタイ5:9
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」

これが今日私たちに与えられたみことばですが、イエス様のいう平和とは何でしょうか。どうやら、この世のいう平和とはまた違うものがそこにはあるようです。当時はパックス・ロマーナといった力の支配による平和がありました。確かにそれはある意味秩序があると言えるかもしれません。この日本の社会もそうかもしれません。しかし一見平和に見えるように見えて日本も果たして私たちは平和なのか。戦争はないけれどもほんとに皆は心が平和そして平安なのか。イエス様が私たちにもたらしてくださった平和。そして私たちが届けなくてはいけない平和、これは一体何なのでしょうか。
それは虐げられた者が本当に解放される平和であります。それは私たち罪に犯された人間そのものも表しますし、この罪ある社会の現実の中に痛んでいる者もそうでしょう。
76年前、日本は焼け野原であり、アジアにおいては逆に焼け野原にして多くの人を虐殺してきたと言う悲しい歴史があります。日本人は第二次世界大戦において本当に多くの罪を犯した最大の加害者だと言っても良いでしょう。しかしそれとともに多くの民間人が戦争に巻き込まれた被害者でもあります。今日はその戦争が終結した終戦記念日である8月15日です。最大の加害者でもあり最大の被害者でもあるこの日本の罪と傷を今日は覚えつつ、その歴史の中に生きる者として改めてキリストの平和とは、その平和を実現する者とはどういうことなのか。共にみことばに聞いてまいりましょう。

①平和とは
 「平和」という日本語の意味を辞書で調べてみますと、「戦争もなく世の中が穏やかであること、争いや心配事もなく穏やかであること」とあります。つまりは国と国、人と人、更に言えば、人と自然などの関係が良好、穏やかであることを平和と一般的には呼ぶようです。逆にこの良好な関係がこじれ、壊れてしまうと、敵対し、互いに憎しみあい、さらにはそこから破壊、戦争へと至ってしまいます。悲しいかな、人類の歴史を振り返ると、人は平和を願いつつも、争い続け、そしてそれは未だ続いているという現実があります。
日本人も平和を願って来ました。しかし、先ほども言いましたように、私たちは過去、侵略戦争を起こし、多くの人たちを傷つけ、また、自分たちをも傷つける、そのような過ちを犯しました。そして、その後、戦争を放棄するという平和憲法を持ち、日本は平和主義。そのようなイメージを持たれるようになりました。まあ、昨今はこの憲法を変えるか否かで議論が湧いているわけでありますが、どちらにせよ誰もが平和を望んでいることは間違いないように思います。
 また、人間関係においても日本人は、平和を好む穏やかな人が多いとも言われます。「和をもって貴しとなす」という「みんな仲良くしましょうね。それを一番大切にしましょう。」といった意味の言葉が昔からあるように、日本人は概して争いを好まず、平和を求める傾向にあるようです。これは、一つの良い点と言えるかもしれません。
 しかし現実は、一見平和のように見える日本であっても、多くの悲しみ、痛み、傷があります。いじめ問題、自殺者、DV、などは右肩上がりに伸び続け、障害者を無価値と言い放ち、無差別殺人を犯す、そのような事件も起こりました。今のこのコロナの状況においても多くの差別が生まれているとも聞きます。
戦争はしていません。穏やかな人も多いかもしれません。しかし、これが平和と言えるのでしょうか。どうでしょう?一見、平和に見えても根本的解決には至らない現実がここにあります。根本的解決のためには、その根本原因と向き合わなくてはなりません。
 その根本原因とは何か?それは私たち人間が罪という性質を持っているからなのです。そして、その罪ゆえに神さまとの関係に平和がない、それゆえの争い、憎しみ、痛み、悲しみなのです。

②十字架による平和
 全ての平和が神さまとの関係から始まっています。なぜなら、神さまこそ平和の根源であるからです。聖書のいう平和とは、冒頭で述べましたがヘブライ語でシャロームといいます。ギリシャ語ではイーリーンといい、意味合いとしてシャロームを引き継いでいます。このシャロームという言葉は、先ほどの辞書の説明よりも、もっと深く、いろいろな意味合いがあり、完全性、健康、平安、繁栄、救い、和解などの意味合いがそれぞれの文脈状況の中で表されます。
 ある場合は個人の状態を表し、またある時は人と人の関係、ある時は国と国、そして神と人との関係についても語っています。これらは、神様からの贈り物、祝福と考えられています。そして、その中で最も重要なことは神と人との関係における平和です。
 しかし、先ほども言いましたが、私たち人間は罪という性質を持っています。ここでいう罪とは、いわゆる犯罪というものではなく、生まれながらにして持っている原罪と言われるものです。この罪という性質があるゆえに人は、憎しみ、争い、時に殺人まで起こしてしまう。神さまに背を向けた生き方をしてしまうのです。このような罪が聖い神さまとの関係を断絶してしまい、神さまに近づきたくても近づけない、平和な関係を築くことができなくなってしまったのです。
 しかし、神さまは私たちをそのような状況のままお見捨てにはなりませんでした。私たちとの関係との平和を神さまご自身から回復されようとしてくださったのです。そのために、来られたお方がイエス様なのです。
 御子イエス・キリストは、神さまご自身が人となられたお方です。罪なきお方でありながらも私たちの罪を代わりに全て背負われ、苦しまれ、血を流され、十字架にかかられました。聖書には罪の報いは死であると書かれています。本来、死ななければならないのは私たちです。しかし、イエス様はご自分を顧みず私たちの代わりに十字架にかかり、死なれ、そして3日目に復活なされました。
 ご自身の身の安全という平和ではなく、私たちと神さまの和解という平和を望まれたのです。なぜ、そのようにされたのでしょうか。それは、主が私たちをこよなく愛されているからです。
 この事実を受け入れ、信じた者は神さまから罪をゆるされ、その罪の性質から少しずつ解放されていくのです。神さまに背を向けて生きてきたことを悔い改め、方向転換し、神さまとともに生きるようになった時、そこには神さまとの平和な関係があり、本当の心の平安が与えられるのです。私たちの力では解決できないものを、神さまご自身が根本から解決してくださったのです。

③平和を実現するもの

「平和を実現する者は幸いです」

新改訳では平和をつくる者と訳されています。まさしく、イエス様こそが平和の君であり、平和をつくる者であります。この平和をつくる者という言葉はとても意味深長です。平和を愛する、望む、好む、ではありません。平和を「つくる」です。平和を「つくる」「実現する」とはなんと能動的でしょう。
 この平和をつくる、実現する者と訳されている言葉はギリシャ語でイーリーノピオスといい、この言葉は、不一致、不和、行き違いを持つ人を和解させるように努力する。そのような意味があります。
 形ばかりの平和、自分の安全という平和を望まず、むしろ争いのあるこの地上の傷口に飛び込んでいき、和解に導く者。これこそが平和をつくる者であります。イエス様は、まさに私たちのためにそのようにしてくださったお方なのです。

 私たちは、そのイエス様の十字架の贖いによって神と平和な関係を持つことができるようになりました。驚くべき恵みです。
 では、私たちは、その恵みに対してどう受け止めていくべきでしょうか、どう応えていくべきでしょうか。

コリント人への手紙第二 5:18−19 

「これらのことは、全て神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあってこの世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解の言葉を私たちに委ねられました。」

 主は、私たちにキリストの使節として和解の務めを与えられました。その務めを果たしていくことを主は望まれ、期待されているのです。そのために何をすればよいでしょうか。それは、まず第一にこの和解の福音を宣べ伝えていくことです。神と人との和解が、この地上の回復、平和につながるからです。
 そして、さらには実際にこの世界の痛みの破れ口、傷口に私たちも関わっていくことです。イエス様は来られましたが、依然としてまだこの地上に置いて罪は多く残っています。その罪ゆえに私たちが生きるこの社会においてたくさんの争い、不和、傷口があります。私たちはその間に立ち、和解の務めをし、平和をつくっていく必要があります。家族、友人から始まり、会社などの組織、社会、さらには国家に対して、また教会も例外ではありません。
 とても難しいことです。平和どころか争い、痛みの場に自ら望んでいくことですから。むしろ、すごくしんどいことですよね。逆に非難されることもあるかもしれません。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。ご自分を顧みず、神さまと私たちの破れ口に立ってくださいました。これが十字架です。
平和の実現とは、イエス様が私にしてくださったことを、私も、主が愛する隣人のために。このような思いと祈りの中でされるのならば、必ずやそこに主の助けがあります。それが、キリストと共に生きるということです。なんという幸いでしょう。まさしく、平和をつくる者は幸いであります。神と私の中にある平和がこの地上に表されていく。これほどの喜びがあるでしょうか。

④スパフォードの平安からつくられた平和
私はこのメッセージを準備する中で、神との関係回復によって与えられた平安、シャロームの中に生き、その神の平和、シャロームを実現してきた一人の人物が頭に浮かびました。それはホレイショ・スパフォードという人物で、「静けき河の岸辺を」という賛美の作詞者として有名な方です。彼はシカゴのとっても有能な弁護士でありながら、とっても熱心なクリスチャンだったそうです。妻と四人の娘と一人の息子に囲まれた絵に描いたような幸せな生活を彼は過ごしていました。しかし、そんな彼にとんでもない不幸が起こります。まず愛する一人息子が病気で亡くなってしまいます。そして、悲しみが癒える間もなく今度は、シカゴに大火災が起こり投資したばかりの莫大な財産を失い、一家は大きな経済的打撃を受けてしまいます。
そして、その2年後、スパフォードは落ち込んでいた家族の励ましのためにヨーロッパ旅行を計画します。しかし、いざ出発という時、彼は急に仕事が入ってしまったため、先に妻と4人の娘だけ先にイギリスへ向かわせ、自分はあとから合流するということになりました。しかし、そこでもとんでもない不幸が起こります。なんと妻たちが乗っていた船が大西洋を航行中に沈没していまい、奥さんは助かりましたが、4人の娘は全員命を落としてしまったのです。
その知らせを受け、スパフォードは悲しみと絶望の中、妻に会うために船に乗り込み、イギリスに向かいました。その時の彼の気持ちというものは想像を絶するものだったでしょう。なんとも言えない悲しみの中、船のデッキに立ち尽くしていたと聞きます。しかし、彼はそこで不思議な体験をします。その悲しみを慰め、癒し、包み込むような神の慈しみ、そしてその神に包まれている心の平安、シャロームが自分の心の中に流れて、満たされていくことを感じたのだそうです。
とても状況的には平和とは言えないものでした。しかし、それでも神様に信頼を置き続けたスパフォードの心には慰めに満ちた平安、神のシャロームが与えられたのです。その経験の中で書かれた賛美歌が「静けき河の岸辺を」なのです。静かな河を渡る時も、厳しい荒波を渡る時も、どんなときも私は、神様が共にいてくださるから心安らかです。心安し、神によりて安し。彼の状況を知った上でこの歌詞を見ると本当に胸が打たれます。どのような状況であったとしても神に信頼を置くのであれば必ずそこに慰めに満ちた神の平安、シャロームがあるのだ。スパフォードのこの証は私たちの心をとても励まし、慰め、平安を与えてくれます。
このエピソードは有名な話で、知っていた方もおられたかもしれません。しかし、スパフォードのこの後の人生についてを知っている方はあまりいません。実は、話には続きがあるのです。悲しみの中にも、神と共にある平安が与えられていたスパフォードは、その後、憧れであったイスラエルはエルサレムに移住し、そこで生活をしたのです。エルサレムと聞けば皆、心踊るかもしれませんが、イスラエルという地はイスラエルとパレスチナの紛争というものが絶えず行われ続けている大変危険な場所でもあります。観光ではなく、その地で生きるというものには大変覚悟がいったことと思います。
しかし、彼はあえて平和なアメリカから危険なイスラエルへと行きました。そして、そこで彼はユダヤ人であろうがアラブ人であろうが、エルサレムで貧困にあえぐ人たちの救済のために生涯を捧げたのです。彼は戦争において最も被害を受ける弱者である子供たちを民族、宗教にとらわれず分け隔てなく助けたといいます。まさしく憎しみ傷つけ合う、戦争という罪によって引き裂かれたイスラエルとパレスチナの破れ目、その真ん中にスパフォードはキリストの平和を立てたのです。
戦地において和解の姿を表し、平和を作り上げたのです。キリストの平和はまさしく痛む世界の真ん中に表れるのです。そして、その平和はスパフォードのように神への信頼の中、与えられている神の平安、神のシャロームに生きる人たちをとおして作り上げられていくのです。そして、それはスパフォードだけでなく、キリストの十字架によって神との関係を回復した私たちクリスチャン一人一人によって作り上げられていくのです。

◎結論
 誰もがスパフォードと同じように、戦地に行けと言っているのではありません。もちろんそのように召されている人もいるでしょうが、基本的には、それぞれ自分の目の前の生活の場、社会での破れ目に和解者として立っていくということが大事だということです。それは時に、伝道することであったり、家族同士の不和の間に立つことであったり、独居老人と関わることかもしれません。画一的にこれをすれば良いというのではありません。
 私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって神との平和が与えられました。そのキリストの使節として喜んで和解の務めに参与していく、傷んだこの世界の傷口にキリストの平和を届けていく。その方向性と視点を持って生きていくことがキリストとともに生きるということであり、そこにこそ幸いがあるのです。
76年前と今と、変わった部分もあれば変わっていない部分もあります。大きな痛みを経験したこの日本という国の中で生まれてきた私たちは、今日、改めて物質的には豊かになれども未だ痛みを伴う様々な破れ目に小さなピースメーカーとして平和を届け、実現してまいりましょう。

「平和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子どもと呼ばれる。」

武井誠司

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