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私たちはアブラハムの約束の子孫 (ローマ4:13~25)

メッセージ
2021/6/27
富里キリスト教会礼拝説教
「私たちはアブラハムの約束の子孫」
(ローマ書4:13〜25)

①アブラハムの約束は信仰によって
ローマ4:13
「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」

聖書というこの神のみこころが啓示された書物は新約聖書、旧約聖書の二つによって構成されています。新約、旧約とは簡単に言いますと新しい約束、古い約束ということですが、聖書では契約、つまり約束というものが一つのテーマとして貫かれています。聖書とは神と人との約束について書かれているものといってもよいでしょう。そして、その約束に対しての二つの向き合い方がそこには描かれています。一つは、人はその神との約束をことごとく破り続けたということです。そしてもう一つは、そんな人間に対してそれでも神は、一度交わした約束を誠実にどこまでも守り続けられたということです。
そしてその約束の中心となるものが先ほど読んだ、アブラハムとその子孫に世界を受け継がせるといったものなのです。この約束は創世記の中で何度も神様はアブラハムに対して語られました。
現代のイスラエルはこの約束を一つの根拠としてこの土地は私たちのものだと主張をされていますが、しかしこの約束はユダヤ人だけになされたものではありません。アブラハムは諸国民の父となると神様は言われました。アブラハムの子孫はユダヤ人だけではないのです。肉においての子孫はユダヤ人ですが、アブラハムの信仰を模範とする者たちも霊的な子孫としてこの世界を受け継ぐのだ。そのように神様はアブラハムと約束を交わされたのです。全てはアブラハムを祝福の基として始まっていくのです。
そして、この約束は決して律法ではなく信仰に基づくものなのだとパウロは語ります。まず、最初にアブラハムは信仰によって義と認められました。律法自体はモーセの時代に与えられたものですからだいぶ後に与えられたことになります。その律法を守ることがこの約束の根拠としてしまうのであれば、最初にされたアブラハムの信仰による義を根拠とした約束はパーになってしまうというのです。

ガラテヤ3:17−18
「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。」

では、律法はなんのためにあるのでしょうか。律法は神の怒りを招くものとまで言われています。しかし、律法自体は今までもなんども言いましたが本来は正しく、良いものです。神から与えられた、私たちに守るようにと示された要求であり聖なるものです。しかし、その聖なる要求を守ることができない。この事実によって自分自身の罪があぶり出されていきます。そして、自分自身がいかに罪人であるかを痛感するのです。

ローマ7:7
「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば。律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりをしらなかったでしょう。」

この律法によって救いを達成しようと試みると呪われるとパウロは言います。なぜなら、律法を完全に守ることはできないからです。聖書には律法が守れなければ呪われるとはっきり書かれています。ユダヤ人は律法を誇りとしながらも実は律法に呪われていたのです。
では、どうすればよいのか。それは原点回帰です。アブラハムに帰れということです。そもそものアブラハムと神との約束は信仰義認にあるのです。人は律法によって自分の罪を知る必要がありました。そして時代は、キリストが来られることによって新たな転換点を迎えます。そして、すでにキリストは来られました。イエス・キリストがこの地上に来られたことは、新たな時代に突入したことでもあり、最初の約束に帰っていくことでもあったのです。アブラハムとの約束がキリストによって成就なされたのです。これが福音です。救いは信仰によって、ただ神の恵みによって与えられるのです。信仰によってアブラハムの子孫とされた私たちは約束の神の国を受け継ぐものとされているのです。

②信仰によって子孫となったザアカイ
私は、この信仰によってアブラハムの子孫となり、救われた者となった一つの例としてザアカイという人物が挙げられるのではないかと思っています。ザアカイという人物はルカによる福音書の中に出てきますが、彼はユダヤ人でありながら徴税人のかしらとして働き、大変裕福だったそうです。しかしそれは本来ユダヤ人が支配国であるローマに払わなければならない税金を水増し請求した中でピンハネするという不正によって手に入れた財産でした。そんな彼を、同胞たちは売国奴と冷ややかな目で見ていたことでしょう。ザアカイはユダヤ人から罪深い男の人とまで言われていたのです。嘘をつき、お金を貪る律法を守らないザアカイは肉の上ではアブラハムの子孫ですが、もはやそうではないと思われていたかもしれません。
確かにザアカイは、言い訳もフォローもできないほどに罪人でした。しかし、イエス様はその罪人を憐れまれました。ご自分から声をかけ、ご自分から足を運び、ザアカイの家に行って一緒に食事をされたのです。だれもが敬遠するような罪人のもとにこそイエス様は行かれるのです。このイエス様との出会いがザアカイの人生を変えました。金は持てども心は空しい。そんなザアカイのお金では埋まらない大きな穴をイエス様はとんでもなく大きな愛で埋めてくださったのです。この愛を受けてザアカイは悔い改め、この救い主である主イエスを信仰しました。
彼は立ち上がってイエス様に向かって「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と言ったのです。これこそまさにザアカイの信仰告白を表すものであると思います。そして主イエスは、この信仰告白をしたザアカイを見て「今日、救いがこの家を訪れた。」と宣言したのです。そして「この人もアブラハムの子なのだから。」と言葉を続けたのです。肉の上では、ザアカイはアブラハムの子、ユダヤ人でした。しかし、信仰によって救われたこの時こそ正真正銘のアブラハムの子となったのだとイエス様は言われているのではないでしょうか。そしてイエス様は最後にこのように言われました。

「人の子は失われたものを捜して救うために来たのである。」

律法に生きるユダヤ人は律法に呪われた者、まさしく失われた者となっていました。その彼らが信仰によって生きるようにと導くためにイエス様は来られました。しかし、それとともに、失われた者とはそもそも、罪に囚われている者を指します。つまり全ての人間が本来失われた者なのです。全ての人間は罪人なのですから。全ての人間を罪と死の呪いから救い出すために主イエスはこの地に来られたのです。このお方を信じて生きていく。主イエスを信じて生きるものこそ真の意味でのアブラハムの子なのです。

③アブラハムの信仰
神とアブラハムとの約束は、恵みによって与えられたもの。そして、それはアブラハムのように信仰によって生きる者に対しても約束されたものとなるのだ。信仰者こそアブラハムの子である。このようにパウロは言います。それではその約束の根拠であるアブラハムの信仰とは一体どのようなものだったのでしょうか。17節では「死者に命を与え、存在していないもの呼び出して存在させる神をアブラハムは信じていた。」とあります。
死、存在しない。全くの無、全くの暗闇。まるで希望が見えない。絶望。そんな時でも、いや、神はそこから命を与え、無から有を与えるたった一人のお方だと、暗闇の絶望の中で希望の光を見上げ、信じ、仰ぐ。これがアブラハムの信仰です。
アブラハムが最初に神様の呼びかけを受け、その約束の言葉を聞いたのは75歳の時でした。しかし、すぐには約束の子どもは与えられませんでした。25年経っておよそ100歳、もうどう考えてもさすがに子どもが授かるはずはない。妻のサラの身体も、もはや子どもが埋める状態ではありませんでした。ありえない。しかし、そのような時であっても彼の信仰は弱まらず、疑わず、神を賛美したと19、20節には書かれています。
これだけみたらアブラハムは本当にすごいですね。まさに尊敬すべき人物です。でも、とてもじゃないけど自分はこんな風にはなれないなぁ。そんな風にどこか自分の信仰に引け目を感じる方はおられませんか?正直言いますと、私はそう思ってしまうかもしれません。
しかし、実は、決して彼の信仰は常に確信に満ちたものであったわけではありませんでした。彼は妻のサラの提案を受け入れて、エジプトの女ハガルを妻として迎え、子供を持とうとし、神の約束を自分たちのわざで実現しようとしました。また、彼が100歳になって、改めて神の約束の言葉を聞いた時は、ひれ伏しつつも思わず笑ってしまうのです。100歳の男と90歳の女に子供がうめるのだろうかと。
アブラハムは揺れ動いていた。これもまた現実なのです。私たちの信仰生活も同じです。神様を信じていても、ときにぐらついて完全に信じ続けられないような時もあるのです。それでもパウロは、その信仰は弱まらず、不信仰にはならなかったと言っています。それはきっと、その都度アブラハムも神を疑った罪を悔い改め、その罪を神の慈しみと憐れみによって覆っていただいていたからではないしょうか。

ローマ4:7
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。」

これこそが義と認められた者の幸いであるということを先週、学びました。人の信仰は時に、揺れる、戸惑う、疑う。そういったところがあります。しかし、それでも最終的には踏みとどまって、それでも私は信じる、と宣言をする。その戦う信仰者の姿を、パウロは決して不信仰とは言わないのです。
むしろ、その葛藤を覚えながらも、踏みとどまっていくその過程の中でこそ神様は必ず約束を実現してくださるお方なのだという、ゆるぎない確信をもった信仰へと成長していくのではないでしょうか。そして実際にアブラハムはその道のりの中で確信が深まり、最終的に彼は、神は死者に命を与える方と、イサクをささげてもいとわないほどの信仰者となったのです。

ヘブライ11:19
「アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

神様はこのアブラハムの信仰の道のりそのものを義と認められたのではないでしょうか。そして、この信仰によって義と認められるという約束は、アブラハムだけではなく、このアブラハムのように生きる全ての者に約束されているのです。
この救いの啓示である神の福音が今や、はっきりと明らかにされたのです。それこそがイエス・キリストの十字架の贖いと復活なのです。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」は、私たちを死から永遠の命の世界へと救い出してくださるのです。罪の報酬は死であると聖書には書かれています。罪に囚われている私たちは本来であれば、生きていながらも神との関係が断絶された状態であり、霊的には全く死んだ状態であります。これはまた、死んでなお続く永遠の死をも意味します。
もう一度言います。私たちは本来、死んでいるのです。そこから命あるものへとするためにイエス・キリストはこの地に来られました。そして、私たちの罪を全て引き受け、身代わりとなって死に渡された。これが十字架の贖いです。私たちのためにイエス様は死なれたのです。しかし、それで終わりはしません。その死から命与えられ、主イエスは復活なされたのです。私たちを命あるものとするため、義とされた者とするため。私たちのためにイエス様は復活されました。

ローマ4:25
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

この十字架の贖いと復活、死から命を与えたこの神の奇跡のみわざを信じることこそ、アブラハムの信仰と同じものだと言えるのです。
そしてこの神のみわざは私たちへの完全な愛を示したものなのです。

ローマ5:7−8
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」

キリストは私のために死なれた。この計り知れない愛を受けたとき、信じた時私たちは新しく生まれ変わり、新しい永遠の命の中、キリストのために生きたいと願い、人生をも新しいものへと変えられていくのです。

Ⅱコリント5:15
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

死から永遠の命へと。この命とはただ死後の世界だけの話ではありません。今、この時、キリストの命に生きるということなのです。命とは英語で言うところのlife。ライフという言葉は命と共に人生という意味もあります。非常にこの言葉は聖書的であると思います。新しい命であり、新しい人生がイエス・キリストへの信仰によって与えられる。それこそ神の愛を受けた者の永遠のいのちに生きる幸いなのです。死の泥沼から永遠のいのちの世界へとひきあげてくださった、キリストの十字架の贖いと復活のみわざ。この福音を信じて義とされた私たちは、今このキリストのために生きる新しい人生を共に歩んでまいりましょう。

武井誠司

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