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福音は救いを与える神の力 (ローマ1・14~17)

メッセージ

2010年10月3日富里教会
「福音は救いを与える神の力」
(ローマ1:14~17)

1.マルチン・ルターの新しい義の発見

私たちプロテスタント教会の先駆者であり、宗教改革者であるマルチン・ルターは、このローマ書の1章17節の御言葉によって、あの宗教改革を起こしました。それは「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」という言葉です。この新共同訳聖書は残念ながら、カトリック教会との共同訳となっておりますので、この17節の御言葉が少し骨抜きにされたように翻訳されています。宗教改革のほとばしるような、御言葉の力がそがれているような気がします。口語訳聖書の方が、ルターが宗教改革に立ち上がった御言葉の勢いが出ているような訳になっておりますので、そちらを読ませていただきます。

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」(1:17口語訳)
ルターはこの御言葉から神の義についての新しい発見をしました。この「神の義」と言いますのは、このパウロの書いたローマ書のテーマともなっているキー・ワードです。皆さんは、「神の義」という言葉を聞いた時、どんな印象を持ちますか?ルターは、当時の中世のキリスト教会、修道院などの考え方では、「神の義」とは、神の審判、すなわち義しくない者を裁く、神の審判以外の何者でもないと考えておりました。ですから、ルターは修道院で厳しい修行を積んで、神の審判を免れるように一生懸命精進していたわけです。一説によると修道院の塔の階段を、膝をついて祈りながら一段一段昇ってゆく修行とか、あらゆる難行苦行を重ねていました。それはとりもなおさず、義なる神の裁きを免れるため行いでした。

また、ルターは当時、詩編の御言葉を教えていましたが、詩編31:1(口語訳)の「主よ、私はあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください」という御言葉が解らなくなりました。神の義は人を裁く義であるのに、なぜここでは「神の義をもって私を助けて下さい」となっているのかと、不思議に思ったのです。「神の義は人を裁くのではなく、人を救う恵みなのか?」という疑問が頭に浮かんで来ました。そしてその時、ふと何気なく、このローマ書を見たら、今まで考えてもみなかったことが、このローマの1:17に書いてあったのです。彼は雷に打たれたような、衝撃を感じました。それは「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(口語訳)という言葉です。

ルターは、「ああ、神の義というのは、裁きではなく福音なんだ、誰でもユダヤ人だろうがギリシャ人だろうが、信じるものには差別なく無条件に与えられる神様の救いメッセージなのだ」ということが、この時はじめて解ったのです。このまったく新しい神の義を発見した彼は、ヴィッテンベルグ城の扉に95か条の公開質問状を貼り出して、カトリック教会の教皇庁に公然と論争を挑みました。人が救われるのは行いではなく、信仰によるのであり、これは神の一方的な恵みではないのかと。当時、人が救われるのは、「心で悔い改め、口で懺悔し、行いで償いをしなければ救われない」というのがカトリック教会の教えでした。かれはその教えと、真っ向から対決したのでした。それは、「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」によって人は救われるということです。それはまさしく、このローマ書1:17の御言葉に基くものでした。教会の伝承も人間の理性も、行いも人間の救いの条件とはならいとしたプロテスタント教会の主張だったのです。

2.福音には神の義が啓示されている

ではなぜ、福音には人間を救う力があるのでしょうか。それは福音の中には、人間を救う神の力があると言っています。それは、この福音の中には、人間を救う神の義が啓示されているからなのです。神の義という言葉はこのローマ書のテーマですが、それは、神の義しさの故に人間を裁くのではなく、人間を救おうとする神の義なのだということです。

この神の義につきましては、二つの意味があります。一つは、神御自身が義なる方であり、誰からもその義について異議を申し立てられたり、干渉されたりするお方ではないということです。第一義的に神はどんなことがあっても義なるお方だということです。そして第二に、神様の義は、自分だけで完結してしまって人間を全く視野に入れていないというのではありません。神様の義は、人間に対していつも向けられているということです。神様の義は人間を救おうとする目的と強い意志を持っているということです。

それは、この「義」という漢字がその意味を如実に表わしています。つまり、「義」という字は、上が「羊」で下が「我」から成り立っています。「我」というのは、文字通り、私のことです。人間を表わしています。しかも「我」ですから、自我を持った人間、自分中心の罪人を意味しています。そして、この自我をもった人間、すなわち罪人の人間を、神の子羊なるイエス・キリストが覆っているという構造になっています。言い換えますと、「義」という字は、罪深い人間である我々を、神の子羊イエス・キリストが、十字架の上で贖いの血を流すことによって、我々の罪を覆い隠して下さっているという意味です。ですから、「義」という言葉はまさに、イエス・キリスト御自身の贖いの業と、愛の性質を表わしている漢字だといっても過言ではないのです。

つまり、福音には神の義が啓示されていて、これは信仰を与える力があるというのです。誰でも、この十字架につけられた神の子イエス・キリストを信じることによって、その人の罪が贖われ赦されるという良き知らせであり、誰にでも、無条件に与えられる神様からの恵みのプレゼントだというのです。これがルターが発見し、パウロが宣べ伝えた福音なのです。

ですから、イエス・キリストを信じる者は、その信仰の故に神の裁きから救われているのです。この神の義とは、十字架に示されたイエス・キリストのことです。そして、このイエスの福音が、今や明らかにされました。この神の義であるイエス・キリストを信じる者は、皆、誰でも救われるのです。これが信仰による義人は生きるということなのです。行いではありません、能力でもありません、結果でもありません。ただただ、神様の恵みによって与えられるプレゼントなのです。このこと以外に、人間にとって真の意味で、生きる道はありません。

3.パウロの責任、私の責任

この福音に啓示された神の義は、恵みとして、無償で私たちに与えられました。そして私たちは尊い救いに預かりました。これは決して行いによるものではありません。ただ信仰によるものです。恵みによるものです。無償で与えられたのです。有償で与えられたのではありません。もし、これが有償で与えられたのであれば、返済の義務があります。お返しをしなくてはなりません。でも返済義務はありません。

でもパウロは14節でこう言っています。「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。つまりパウロには、福音を告げ知らせる責任があると言っています。パウロは決して行いを否定しているのではありません。信仰によって、恵みによって、無償で救われたものとして、逆に、その一方的な恵みの故に、自分には果たすべき責任と義務があるといっているのです。

パウロは、自分が救われたのは、全くもって神様の一方的な恵みであるから、この救いの知らせを一人でも多くの人に分け与えたい。しかも無償で、その大きな恵みに預かったものとして、自分としては、この福音を一人でも多くの人にも宣べ伝える責任があると言っています。もしそうしないならば自分は不幸だ、災いだとまで言っています。(Ⅰコリント9:16)

神の福音、これは一方的な恵みの賜物です。どんな人に対しても、もし救いを待っている人がありましたら、私たちは出かけていって福音を分かち合うべきではないでしょうか。そして、福音を待っている人はたくさんいます。私たちもここから出かけていって、「さあ、見に来て下さい。」と、人々をイエス様のもとに呼んできましょう。10月はこの福音伝道の月になることを願っています。                          
                                  (岡田 久)

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