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福音は恥ではなく、神の力 (ローマ1:16~17)

メッセージ
2021/4/25
富里キリスト教会礼拝説教
「福音は恥ではなく、神の力」
(ローマ書1:16〜17)

①福音を恥としない
本日の箇所は2節と大変短いですが、この箇所はある意味挨拶と本題の架け橋となっており、さあ、いよいよ福音を語るぞというパウロの胸の高まりを感じることができるような箇所であります。それゆえに今日の箇所は福音の本質、真髄の部分がギュッと凝縮されており福音の旨味100%といった短くも大変濃厚な箇所であるといってよいでしょう。まずパウロは「私は福音を恥としない」と大変珍しい言い回し、なかなか見ることのない切り口で語ります。

ローマ1:16
「わたしは福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」

恥としない、と言いますが聖書の中で恥という言葉は実は結構出てきます。調べてみたところ旧約、新約合わせて239回出てきていました。まあ、ぱっと聞いて多いのか少ないのかわからないかもしれませんが、結構多い方だと思います。ただ、表現としては恥ずべき、だとか恥を見る、といった表現は多いですが福音を恥としない、こういった言い方はほとんど見られません。
これは、パウロが福音の素晴らしさをより強調して伝えたいがゆえの、あえての言い方であると言われています。ギリシャ語では、否定の形式による表現は肯定の形式の表現よりもとても強い印象を与えます。福音を誇りとする、よりずっと強い調子の言葉となるがゆえのこの表現なのです。
また、他に理由がもう一点あると思います。みなさん、福音と聞くとネガティブなイメージ、ポジティブなイメージのどちらを持たれますか。普通、福音と聞くと私たちは「福音こそ希望だ!!」と、とてもポジティブなイメージを持つことでしょう。誰も恥とは思っていません。ですからわざわざ福音を恥とはしないなんて言い方はしないでしょう。しかし、当時においてこの福音を恥とネガティブに捉えていた人たちがいたのです。それゆえ、あえてパウロは、「私は福音を恥としない」と力強く断言したのでしょう。
福音とは何かと言いますと、これだけで何回も説教ができてしまうほどの深い言葉ですが、ギュッとまとめて言いますとイエス・キリストの十字架による救いです。全ての人間には例外なく罪の性質があります。そしてそれゆえに罪を犯してしまいます。自分の力でここから逃れられる人は一人もいません。そして、人はその罪ゆえに死という報酬を受け取らなければなりませんでした。しかし、主イエス・キリストはその人類の全ての罪を背負って、代わりに十字架にかかられ、その本来人間が受けるべき裁きをすべてうけてくださった。そのことを信じることによって私の罪は赦され、永遠の命が与えられる。これが救いであり福音であります。人類に対する素晴らしい知らせであります。まさに最高のグッドニュースです。
しかし、この福音はユダヤ人にとっては恥でしかありませんでした。彼らにとってイエスとは木に架けられ処刑された神に呪われた者、律法から外れた者でした。偽メシアを信じるなど彼らにとってはそれこそ民族の恥。実際、パウロもそのように思いクリスチャンを迫害していました。
またギリシャ人にとっても福音は恥であったことでしょう。彼らにとって至上のものは知恵でした。彼らにとっての救いとは人間の理性による自己探求、知恵の追求による真理の達成でした。自分たちが必死に見つけようとしていたものが神様の方から明らかにされて、与えられる。それは彼らの生き方、価値観を根本的にひっくり返すことになり、それを受け入れるということはまさに彼らにとっては恥以外のなにものでもなかったでしょう。
更に言えば、この箇所でのギリシャ人とは、広義の意味においてはユダヤ人以外のすべての異邦人という意味もあります。すべての人間にとって何かを信じて、すがって頼って生きていくことは、どこかに恥ずかしさや引け目を感じることなのかもしれません。自分の父親も最初は宗教のような何かに頼って生きていくのは弱い人のすることだから好きじゃないと言っていました。そのような考えを持つ方はこの日本にはきっと多いでしょう。自分の力で生きていけない、自立できない、人の力を借りて生きていく。こういったことに多くの人間が恥ずかしさを覚えます。
しかし、パウロはそんな人たちの価値観を吹き飛ばすかのように「私は福音を恥としない」と宣言します。福音は恥ではない、むしろ高らかに誇るべきことなのだ。人類の勝利であり、喜びであり、祝福なのだ。恥ずべきことではなく、あなたたちが恥じるそこにこそ、救いがあるのだ。恥ずべきことだと侮るあなたたち全ての者に救いをもたらす神の力なのだと言い切ります。パウロは1コリント1:23−25でもこのように語っています。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

②恥とは何か
福音とは恥ではなく、誇り。いや、福音のみが誇り、主イエスこそが誇りである。パウロは他の箇所で誇るなら主を誇れといいます。私たちは一体何を恥とし、何を誇りとして生きているでしょうか。先ほどユダヤ人、ギリシャ人などいろんな角度から恥についてみてまいりました。もう少し、この恥という言葉、概念について深めていきたいと思います。
なぜなら、私たち日本人は恥という概念に対して、格別に敏感なところがあるからです。欧米人から見た日本人や日本の文化について研究した「日本人論」の中で、ルース・ベネディクトというアメリカの女性人類学者が書いた「菊と刀」という本がありますが、彼女はこの本の中で、日本人の文化は「恥を基調とする文化」、つまり「恥の文化」であると言いました。
日本人は礼節を持ち、優しい。ルールと秩序を守り、平和で安全。海外の人からそのように評価されることがあります。しかし、ルースは、それは外面的強制力に基づくものであると言います。彼らは周囲に人がいるとゴミを捨てないが、誰もいないと平気でゴミを捨てていく。つまり、他人の目が行動を決定する基準となっているというのです。ルースはこの本の中でこのように語っています。
「日本人は罪の重大さより恥の重大さに重きを置いているのである。」そこまで一括りに言い切られると少し、心外だ。そのように思う方もおられるかもしれません。またこの本は戦時中に研究されたものですので現代とのギャップも少しあるでしょう。しかし、世間がうるさいから。こういった言葉は100パーセントそうだとも言えませんが、そこには確かに多くの日本人の本音があることは否定できないでしょう。内面的強制力を考慮しないとまでは言いませんが外面的強制力への比重は大きいように思います。
他方、欧米人は恥ではなく罪の文化だとルースは言います。彼らは内面的強制力によってゴミを捨てない。欧米人は「他人の目」ではなく「神様がいつも私を見ておられる」というのです。彼らは神との対話の中で行動を決定している。つまり、良心に基づいているというのです。これもまた、欧米人全員がそうであるとはいえませんが、少なくともこれが彼らの文化を作り上げた聖書の価値観であるといえるでしょう。
更に突き詰めて言えば聖書でいう罪と恥というものは非常につながっているものといえます。聖書では神のみ前で罪を起こすことこそ恥であると語られています。聖書の価値観でいう恥は罪につながっており、日本の伝統的な価値観でいう恥は世間とつながっている。この違いは明確なものであると言えるでしょう。ダニエル書9:7−8にはこのようなことが書かれています。

「主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。主よ、恥を被るのはわたしたちであり、その王、指導者、父祖なのです。あなたに対して罪を犯したのですから。」

バビロン捕囚という辱め、恥を受けたのは、イスラエルの民が神に背を向け、偶像礼拝という罪を犯したがゆえ。なによりあなたのみ前で犯した罪そのものが私の恥である。そのようにダニエルは嘆きました。
私たちは何を恥とし、何を誇りとするべきでしょうか。世間の目を恥とするのでしょうか。信仰に生きることを自分の力で生きていくことのできない弱さだと恥じるのでしょうか。そうではありません。神のみ前で罪を犯すことこそ何よりもの恥なのです。そして、その神のみ前で罪を犯さないという人は残念ながらこの世に一人もいません。厳しい言い方かもしれませんが、すべての人間は神のみ前で恥ずべき者なのです。
しかし、その罪に囚われた恥ずべき私たちを救い出す神の力がこの地に現れました。それがイエス・キリストの十字架であり福音であります。それゆえに私たちは福音を恥としません。福音こそ、キリストこそ、十字架こそ私たちの誇りなのです。

③神の義とは
ローマ1:17
「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

福音には神の義が啓示されているとパウロは言います。啓示とは隠されていた覆いを取り除くことを意味する神学用語です。また、義という言葉。これもまた神学用語です。義と言われてみなさんピンときますか?中々普段使わない言葉ですからイメージがつかない方もおられるかもしれません。義というものは簡単に言えば、正しさ、硬く言えば正義、そういったものといえるでしょう。
しかし、聖書でいう義とは神の主権について用いられている言葉です。この世の正義とは社会状況の変化によってコロコロ変わったりします。100年前と今の正義は違いますし、もっといえば立場によって正義は変わり、人の数だけ正義があるといった相対的な基準、そういった性質があります。しかし、神の義は徹頭徹尾変わりません。不変の規範なのです。神様の本質のように永遠の義なのです。神様は創造主であるがゆえに義の創始者であります。義は神の本質であり、その属性の中に表されているのです。つまり神様とは超越的に、ぶっちぎりに正しいお方ということです。そして、その神様の本質であられるその義もこの世の義をはるかに超えた超越的で普遍的で永遠に変わらない正しさというものなのです。
また、この神の義というものは関係概念でもあり、神様との正しい関係をも表しています。人間は神の意志に沿って生きていく時、神の義にかなうものと認められます。義は神との交わりの基礎なのです。したがって義とするとは神との正しい関係と交わりの回復を意味する。これが救いです。そのように神の義が福音に示されているとパウロは言うのです。
神様は義なる方、完全に正しいお方であるがゆえに、その目にかなった、義と認められたものとしか交わることができません。そして残念ながらすべての人間には罪の性質が備わっており、それゆえに神のみ前において人は義とされず交わることができないようになっていました。罪によって神様と私たちの関係は断絶されていたのです。私たちと神様の間には大きな隔ての壁が立ちふさがっていたのです。この壁は人が自力で越えることのできない壁でした。じゃあ、神様の方からその壁超えたらいいじゃないかと思う方もおられるかもしれません。
しかし、神様からはそうしたくてもできないのです。それは神様が完全な正しさをもつ義なるお方だからです。罪あるものをちょっと目をつむって罪なしとすることはできないのです。それは、まさしく不義であり神様にとっての恥となってしまいます。神様は義であり聖なるお方で、それゆえ悪と罪を憎まれるお方です。どれだけわたしたちのことを可愛く思っていても、決して罪を見過ごすことはできないお方なのです。人間の親子ですら可愛いからといって子供の悪事を親が見過ごし続けていたらとんでもないことになります。いくら可愛くても、公正に裁かなくてはならない。神様は正しい裁判官なのです。有罪の者を不正によって無罪にすることはできません。
しかし、福音には神の義が貫かれています。福音とは救い。このような状況からどのようにして救い出されたのか。それは、神ご自身が人類すべての罪を背負って代わりに有罪判決を受け、罰を受けられた。それゆえ私たちの罪は赦され、無罪とされた。これが神の人知をはるかに超えた神の正しさです。罪を決してそのままにはされないのです。しかし、だからと言って人を自業自得だとは見捨てないのです。ご自身が身代わりとなってその罪の報いをすべて受け取られたのです。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。そこには神の義と共に、私たちへ完全な神の愛が現れています。十字架には神の義と神の愛が完全に交わり、分かちがたいものとなって貫かれているのです。義も愛も神様はイエス・キリストの十字架をもって完全に全うされたのです、
この十字架の福音を信じた時、その罪は赦され人は救われるのです。その信仰によって正しくないものも正しい、義であると神様は認めてくださるのです。「正しいものは信仰によって生きる」とありますが、ここでいう正しい人とは、罪を犯さない人、品行方正、パリサイ人的な人ということではなく、神さまに義と認められた者、正しいとされた者という意味であるでしょう。正しいとされた者は信仰によって生きるのです。そして信仰によって正しいとされた者は信仰によって生きるのです。人間の中にはどこまでいっても不完全な正しさ、義しかありません。神の義である十字架の福音を信じることによってその義を与えていただき、正しくない者を正しいとしていただくほか救われる方法はないのです。正しい者が信仰をもつのではなく、信仰によって正しい者とされる。この順序をしっかり心に留めていただきたいと願います。罪ある者がこの福音を信じた時、その心の中に神の愛と義が入り、あふれんばかりに満たされるのです。それは例外なくすべての人間に対して開かれた神の救いの力です。これこそが福音なのです。この福音を信じ、恥じることなく誇りとして今日も私たちは生きてまいりましょう。

武井誠司

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