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福音の核心と喜び (Ⅰコリント15:1~8)

メッセージ
2021年7月25日富里キリスト教会
「福音の核心と喜び」(2021)
(Ⅰコリント15:1~8)
はじめに

主の御名を賛美します。
今日は武井先生の夏季休暇で代わりに講壇に立たせていただきました。4月からは説教から解放されて日々のんびりと尺八の練習と読書と神学書の翻訳に明け暮れております。4月から埼玉県の一番近くのバプテスト連盟の教会に行こうと思っていましたが、希望していました西川口教会が、昨年の4月から1年半にわたって今もオンライン礼拝を続けております。ですからまだ一度も礼拝に伺うチャンスがなく、今は、一番近くの教会の礼拝に参加させていただきながら、西川口教会の礼拝再会を待っている状態です。そこの教会のお年寄りを中心にしました「ほっとカフェ」という集会で、尺八の演奏をしながら皆さん方を和ませております。いつもいろいろと竹の話をするものですから、いつの間にか「バンブー岡田」という名前がついてしまいました。

また4月からは「牧師」という肩書がなくなりましたので、自分で勝手に三つの肩書を考えて作りました。それは「福音伝道者」「尺八奏者」「解釈学者」です。
「解釈学」と言いますのは文字通り、聖書をどう解釈すればいいのか、聖書の意味を理解し、それを実践に移すことが出来るようになるにはどうしたらいいのかという研究です。そしてそれは聖書だけではなく、芸術作品の理解やひいては人間の心の理解にまで応用されて来ておりまして、最近では精神医学の方面でもこの解釈という言葉が使われてきているようです。

先々週はTCUの伝道隊の学生諸君が来て下さって、すばらしい証をして下さったようですね。わたしもPCで献身の証の原稿を読ませていただきました。皆さんそれぞれの時代に、それぞれの環境でそれぞれの場所で神様と出会って、生涯を主に捧げる決心をして神学校に入って来られました。たとえ牧師の家庭で育っても、時には親に反抗したり教会に反発したりする時もあります。そういう中でも一人一人が、ある時神様との出会いを経験されて打ち砕かれ、主の前に自分を降参し明け渡して素直に主に従う決心をされておられます。わたしも読みながらとても励まされました。

1.牧師の願い

わたしは36年間牧師をさせていただきましたが、牧師の働きは信徒の方が大人であれ子供であれ、今も生きておられるイエス・キリスト様と真に出会うことを願って説教をし、牧会をしてまいりました。人は誰でも真にキリストに会う時があります。するとその人の人生は180度転換します。そしてある人は牧師に、ある人は宣教師に献身するかもしれません。またある人は献身された信徒伝道者、信徒牧者、祈祷者、役員として牧師と共に教会の働きに献身的に担ってゆく方もございます。これがわたし達に与えられた福音です。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。・・・そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(Ⅰコリント15:1~5、8)

わたしたちは皆、福音を聞き、福音を受け入れ、福音に従って歩んでまいりました。福音こそ教会と信仰生活の中心ともいえる言葉です。では一体その福音とは何でしょうか。それがここに書かれてあります。第一に、「キリストが聖書に書いてあるとおりわたしの罪のために死んだ」ことです。第二に「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。そして第三に「ケファに現れ、その後12人に現れたことです。・・・そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れた」ということです。

この三つが福音の核心(コアの部分)です。これ以外に福音の中身はありません。福音の核心は何か?それはイエス・キリストの十字架と復活です。ここまでは誰でも答えることが出来るかもしれません。でもさらに大事なことは、その三番目のことです。この十字架と復活のキリストに現実に、人生の中で出会ったということです。

テストの回答のように、福音とは何ですかと尋ねられて、「キリストの十字架と復活」ですと大概の人は答えるかもしれません。しかし大事なことは、その三番目のそのお方がわたしに出会って下さったという出来事です。人生を180度変えるような出会いをして下さったということです。別な言葉で言いますと、キリストはわたしの罪のために本当に死んでくださった、そして復活して御言葉をもってわたしに出会って下さったということです。このお方は今も生きていますということです。この時わたし達の人生は変わります。生き方も変わります。新しく造りかえられます。生まれ変わります。それが先日の神学生の方々の証です。

それがないならば、わたし達の信仰っていったい何でしょうか。親がクリスチャンだから、親が牧師だから信じています。教会の奉仕の働きがあるから教会に行きます。大好きな友達が来るのでいつも行きます。これが福音による信仰でしょうか。ある時このお話を別なところでしましたら、「じゃあ、わたしは一体どうすればいいでしょうか?十字架も復活もいまいちピンとこないんです。」おっしゃった方がおられました。でも私はその方は正直な方だと思いました。教会は来ているけれども、福音の核心が解らない、自分の人生を180度変えるほどに出会ってはいないと。これも信仰です。あるがままの真実を語る時に、そこから信仰の旅が始まります。

あの神学生たちのように親や社会に反発していた、でもそういう自分でも神様の大きな愛の中に生かされていることを知った、わたしの人生を主に捧げますと彼らは献身しました。神学生は神学生として牧師は牧師としてそして信徒は信徒として献身しているのです。神学生だから、牧師だから献身するのではりません。もしそうであれば私の献身生活は牧師を引退した時に終わります。献身は牧師への献身ではなく、キリストへの献身です。生きている限り、いや死んでも続く恵みの道です。

ですから信徒も献身しなければなりません。わたしは牧師よりもすばらしい信仰と働きをしている信徒の方々をたくさん知っています。牧師以上に献身している信徒の方も沢山います。牧師以上に牧会し、伝道し、奉仕をし献金をします。頭が下がります。そして何よりも牧師を支えます。それは自分も仲間を牧会する信徒牧会者だからです。牧師の苦労や痛みや重荷が分かるのです。

そして、牧師の願いは、皆さん方お一人お一人がこの十字架と復活の主に出会って欲しいのです。あの神学生のように真にキリストに献身したキリスト者となっていただきたいのです。そのためにわたしは12年間ここで説教してきました。皆さんをスモールグループで実践に当たらせました。そして武井先生も後を継いでそうして下さっています。この富里教会に仕えてこられた歴代の牧師も皆、皆さん方がこの福音に出会って欲しいと願って、皆さんのために福音を解き明かし語り継いで来たのです。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(15:2)とパウロは言っています。福音とは何か、そしてその福音の核心の確信をもっているだろうかと自分に問い返していただきたいのです。

2.キリストはわたしの罪のために死んでくださった

この間の神学生の証の中にも、何度か神様からのコーリングを受けたけれどもすぐには従うことが出来なかったと証をされておられた方がおりました。わたしだけではないのだなと思いました。わたしも一回目二回目のコーリング(神の召命)ではすぐに従いませんでした。でも三回目のコーリングでわたしの罪が目の前に暴き出されたので、初めて主の召しに従う決心ができました。

高校を卒業する時に、青森バプテスト教会に通っていましたが、牧師先生から「岡田君、君、西南の神学部に行かないかね。」と言われました。その時は牧師の仕事にあまり魅力を感じていませんでした。たった一週間に、日曜日だけ説教してそれで給料もらっている仕事なんて男の仕事ではないと思いました。そして、それを断って岩手大学の農学部に入りました。ところがこの大学の四年間、三沢のカルバリー教会の女性会から、毎月現金書留で10ドル(当時3600円)の奨学金を送ってもらったのです。毎月、几帳面に現金書留が届くのです。誰が頼んだのか全く見ず知らずの教会です。おかげで辞典やブレザーを買うことが出来本当に助かりました。

そして当時は70年安保の時代でしたので、学生運動に身を投じました。もう卒業してもまともには就職できないだろうと思って、神学校に行く計画を自分でしました。最後の砦、牧師としての就職の道は残されているのではないだろうかと思っていました。そして神学校に入るための入学金の10万円を自分で稼ぐために東京に出稼ぎに行って、三か月働いて10万円の入学金をためることが出来ました。その間、実家には全く連絡を取りませんでした。そして帰ってきましたら、父が癌ということでした。すぐに入院し、手術して10日目で亡くなりました。もしかしたら実家に連絡もせず、父に心配かけすぎて体を悪くしてしまったのかなあとも思いました。

父は亡くなる前に自分も教会に行ってみたいというようなことを言いましたが、その頃の私の信仰は十字架とか復活ではなく、いかに生きるかという思想的哲学的な信仰でした。ですから死を目の前にした父に何の証も救いの言葉も話せずに、ただ黙って苦しんで死んでゆく最期を看取ることしかできませんでした。生きている時の信仰ですから、死を目の前にして、生きる時間がない人が死の直前に信仰を持ってもあまり意味がないのではなかと思っていました。そんな信仰とは言えない信仰でした。

そして大学を卒業する時に、その頃学生YMCAの活動をしていましたので、YMCA同盟から学生部の主事をしないかとのお誘いがありましたが、まだキリスト教で生計を立てるということに抵抗を感じていましたので断りました。仲間が次々と就職試験の面接で落とされる中、わたしだけは不思議にも受かってしまい青森県庁に採用されました。後ろめたい思いがしましたが、残された母と三人の弟を養うために地元への就職の道を選びました。

その後、献身するまでのこの公務員の10年間は、ある意味では私にとって十字架と復活の福音を経験し信じるようになるための大事な期間ではなかったかと今は思います。学生運動をしておりましたわたしは、就職してからも労働組合に入り組合活動を通して、職場の差別や弱い者いじめをなくすために働きました。そのかいあって自治労の支部の執行委員になりました。キリスト者として職場でのいじめや弱者救済、差別解消のために働き、それが社会にあって生きるクリスチャンの真の証の生活だと考えていました。

ある時、職場の一人の女子職員の方が組合を辞めたと申し出られました。その頃ちょうど当局側と組合側の力関係が職場で拮抗していたものですから、ここで辞められては困る、団結が崩れるということでわたしが彼女の説得に当たることになりました。その方の家を夜訪問して、「何とか組合を辞めないでほしい、もしどうしてもというのであれば、わたし達はあなたをもう仲間だと思わないからね。」と言って飴と鞭をもって説得工作を続けました。そして翌日、いつものように職場で皆さんが執務をしている時に、その方が突然けたたましくけらけらと笑い始めたのです。職場のみんなも何事が起ったのかとびっくりしました。上司があわててタクシーに乗せてひとまず家に帰らせました。

後で聞きましたら、ちょうど離婚したばかりで、一人の子供を抱えしかも家のローンに迫られて少しでもお金を節約したかったので、組合費を納めるのもしんどくなってきたとのことでした。そして眠れない日が続いて、心身のバランスを崩してしまっているところに、わたしが押しかけて行って辞めないようにと追い詰めたのです。上司からは組合なんかやめてしまえと言われその板挟みになっていたということでした。そして眠れない日が続き、ついに心神喪失になり、職場での突然の錯乱状態になってしまったのでした。もしかしたら、わたしがそこまで追い詰めてしまったのではないかと自責の念に駆られました。

その時わたしは、自分がサウルのようになっていたのを思い出します。罪のないクリスチャンを追いかけまわし縛り上げて投獄しているあのサウルは、自分ではないだろうかということに気づかされたのです。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。・・・わたしはあなたが迫害しているイエスである。」(使徒言行録9:5~6)という主の声が聞こえてきたような気がしました。正しいと思ってやって来た自分の行為が、一人の弱い者を心神喪失になるまで追い詰めて行ってしまったのです。信仰をもって自分の義しさを求めて生きて来たわたしが、いつの間にか相手を追い詰め、迫害している、的外れの信仰者だったのではないかと気づかされました。キリストを十字架につけ迫害しているのは、自分の方なのだということが解ったのです。その時初めて、自分の罪と言うものを目の前に突き付けられそれを認めざるをえませんでした。

他に罪はまだたくさんありますが、これがわたしの人生を180度転回させた出来事です。このわたしの罪のために十字架に架かって下さり、わたしの罪を赦し更に生かして用いて下さるお方との出会いとなりました。自分の罪を目の前に突き付けられるまでは、自分の本当の罪に気が付かないのです。自分の罪が示されて、初めて十字架のキリストと人は出会うのではないでしょうか。この出来事が、わたしにとって第三番目の真のコーリングになりました。神様は絶対にあきらめないお方だということです。最後の最後まで神様ご自身の目的のためにわたし達に狙い定め、打ち砕き、降伏させてどこまでも従わせるお方なのです。捕まえたら離さないお方のなのです。

3.復活の主との出会い

次に復活の主との出会いですが、その頃一応クリスチャンとして主の十字架と復活くらいは知っていました。ある程度信じていました。しかし、本当に信じていたのか、聖書の復活についての記事が全部その通りだと、心底信じる所まで入っていませんでした。ですから人を追い詰めるような生き方をしていたのです。その頃は、いろんな神学書を読んだりギリシャ語も少しは勉強していましたが、復活についてはアーメン、本当ですと言うところまでは行っていませんでした。

ある時、わたしの官舎で開いていた家庭集会に来られておられた方がなくなりました。その時わたしが友人代表で弔辞を読むことになりました。そしてその弔辞の中に、家庭集会で一緒に学んでいましたローマ書の一節を引用させていただきました。それは「わたし達はキリスト共に死んだのなら、キリスト共に生きることにもなることを信じます。」(ローマ6:8)という御言葉です。わたしはこのみ言葉を弔辞で読んだ時に、初めてこの言葉は真実だということが解りました。理解したのです、真実だと思ったのです。本当だと確信したのです。

この兄弟の遺体は今、目の前の棺の中にあるけれども、彼は信仰をもって主のもとに帰られたのだという確信が与えられたのです。キリストは十字架に死んで三日目に甦って今も生きておられるから、わたしも生きるのだという確信です。キリストの側に、聖書の約束の言葉の方に真実があるのです。わたしは弔辞を読みながら、今こそ主がわたしのふさがった眼を開いて下さった。御言葉の真実を示して下さった。啓示の光が与えられたのだと感謝し、熱いものがこみあげてくるのを抑えることが出来ませんでした。

皆さん復活はあります。わたし達はすでにキリスト共に天に移されているのです。死はもはやわたし達を支配することは出来ません。復活が事実であり、わたし達がすでに永遠の命を受けており天に名が記されているのです。それが事実なら、わたし達はどうするでしょうか。もうこの嬉しさを誰かに伝えずにはいられなくなるでしょう。その歓喜の喜びの衝動を抑えることは出来ません。こんなことをしてはいられないと思い、わたしはすぐに仕事を辞めて神学校に行く準備に入りました。真にキリストの十字架と復活に出会う時、人は変えられその人の人生は180度転換します。これが福音です。そしてそれは教会の中でも外でも起こります。特に教会の出来事の中で起こります。ですから諦めずに、教会から離れないでください。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(Ⅰコリント15:3~5、8)そしてこの自己中心的な自分をどこまでも正しいとする、わたし岡田にも出会ってくださったのです。そして30歳で献身し、以来ちょうど40年間バプテスト連盟の牧師として五つの教会に仕えさせていただきました。富里教会は最も長く勤めさせていただいた教会で12年間ご奉仕させていただきました。しかし、今思えばあっという間の出来事でした。

4.生き永らえて

最後に、最近与えられている聖書を一か所読ませていただきます。
「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしようと言う人たち、あなたがたは自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろあなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。』」(ヤコブ4:13~17)

15節に「『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」という御言葉があります。今、連盟の牧師を引退して、これからの人生をどうしようかと考えておりますが、ある先輩が、引退する時に牧師会で最後にこう言いました。「さあ、これから伝道するぞ!!」と。「えッ、今まで伝道してこなかったのですか?」と耳を疑いましたが、なぜそう言ったのか解るような気がします。牧師として教会に居ますと、やはり正直言いまして毎週の説教や祈祷会聖研の準備、週報、役員会、礼典慶弔関係、ブロックや連合、連盟の働きと追われてしまいます。

つまり個人的な伝道や新しい開拓伝道がなかなかできません。本当に教会の仕事から解放されて、ホッとしている面もありますが、果たしてこれでいいのだろうかと思う時もあります。わたしも残りの生涯もあとわずかでしょう。でもこのみ言葉には、「あなたがたは自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのこともしよう』と言うべきです。」とあります。

人生は一瞬です。だから引退しても「主の御心であれば、生き永らえて、あのこともこのこともしよう」と考えなさい、そしてそう口で言いなさいと言っています。いつも健康や年金や老後のことばかり話題にするのではなく、何とか長生きして生き永らえて主の御心を行うことです。わたしの若いころの出来事の中で、いまひとつまだ解らないことがあります。それは学生時代に神学生でもないわたしに、見ず知らずの教会の女性会が毎月10ドル(3600円)の現金書留を欠かさず送ってくれたことです。誰がそう指示したのか、何のためにしたのか、その理由がまだよく解らないのです。

これは推測ですが、もしかしたら、南部バプテストの宣教師の思いと祈りがあったのではないだろうかとも考えております。「全日本にキリストの光を!」これが60年前のバプテスト連盟のスローガンでした。今でも連盟事務所にはこの言葉が掲げられています。日本人に福音を、全日本にキリストの光を届けなさい、そういう願いと祈りが、奨学金としてわたしに与えられているのかなあと思ったりしています。まだなすべきことがあるのではないかと思ったりしています。
わたしが受けた福音と神の恵み、そしてそれは日本に福音を宣べ伝えたバプテストの宣教師が受けた福音であり、それはまたパウロも受けたイエス・キリストの福音ではないでしょうか。それはあのキリストの十字架と復活の福音です。この福音の恵みと祝福をこれからも宣べ伝えてゆく者となりたいと願っています。
(岡田 久)

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