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福音の中心 (Ⅰコリント15:1~11)

メッセージ

2014年7月13日富里キリスト教会

「福音の中心」
(Ⅰコリント15:1~11)

1.信仰が無駄にならないように

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」
(Ⅰコリント15:1~2)

パウロはここで改めて、自分が告げ知らせた福音をもう一度確認し、その福音の中味について明らかにして、果たしてその通り生きて来たかを反省してみることを勧めています。そうでないと、せっかく信仰をもってもそれが無駄になってしまうかもしれないと言っています。口語訳聖書では「いたずらに信じないでほしい」となっています。

ただ信じているのではなく、何をどう信じているのかです。パウロもまた多くの宣教師も牧師も語って来たように、私たちに宣べ伝えられてきた福音の内容を、しっかりと理解しておくことが大事です。といいますのは、最初は信じていても、最後はこの福音から離れてしまう人が多いからです。

最近、わたしの耳に入ってくる言葉に、「自分は信仰をもってバプテスマを受けたから、もう救われている。後はクリスチャンとして何をすべきかと思っていました。」という言葉です。信仰をもった後で、何か善い行い、慈善事業、人のためになることがクリスチャンの目的だと考えてしまうことです。私もかつてそういう信仰をもっていたことがありました。クリスチャンとして何をすべきか、どうしたら良い証の生活ができるだろうかということです。

またもう一つ、気になる言葉を耳にすることがあります。それは「キリスト教もいいが、他の宗教も悪くはないんじゃないか」という考えです。せっかくバプテスマを受けて、クリスチャンになっても、福音の中心その教えをしっかりと自分の物にしていないと、信仰の核心部分、中心が何かということが分からなくなってきます。そして、イエス様も拝むし、御大師様も拝むし、山の神様も拝むという信仰になってしまいます。神様はどこにでもおられ、何でも神様になってしまうという汎神論です。キリスト教と他の宗教との混交宗教になってしまうことです。

そこで何とか正しい信仰、教会が寄って立つところの基本的な信仰とは何かということを、もう一度喚起しようとしてこの15章を書きました。なんとかコリント教会の混乱の根を見つけて出して、教会が一致して歩んで欲しいという願いをもって書きました。今までの教会の分裂問題、偶像礼拝問題、異性の問題などの根っこの原因は、この正しい一つの信仰の曖昧さから来ているのではないかとみておりました。そこで、もう一度最後に、信仰が無駄にならないように、福音の中心部分、核心部分を述べて訴えているのです。

2.福音の中心

教会にとって大切なことは、この信仰と知識の一致なのです。そして聖霊による一致です。この信仰、知識、聖霊による一致が、教会を一つの体として育てて行くための基本ですから、聖書の教えをわたしたちは聖書から正しく素直に、そして熱心に学ばなければなりません。(エフェソ4:14~15を全員で読む)これこそ最も大事なことです。これこそ人生の最大の幸福であり、何にも変えがたい喜びなのです。

さてパウロは、この福音の中心を何と言っているか見てみたいと思います。
「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現われたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。そのうちの何人かはすでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現われました。」
(15:3~8)

パウロはここで、最も大切なこと、福音の核心部分について述べています。それは、第一に「キリストが私たちの罪のために死んだこと」です。そして第二に、「三日目に復活したこと」です。そして、第三に「弟子達に現れたこと」です。つまり、福音の中心は何かと言いますと、「イエス・キリストの十字架の贖い」と「死人からの復活」、そして「この復活の主との出会い」です。特にキリストの十字架と復活が福音の中心であり、福音そのものです。

毎年イースタになると、この講壇の後ろの壁に「イエス様の十字架」と「復活の空の墓」の絵が掲げられます。これが、福音の中心なのです。このイエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰の一致と、これについての知識の一致を教会ではいつも持って行かなければなりませんし、またここから離れてもいけません。わたしたちも生涯ここに留まり続けることが大事です。息を引き取るまで、主の晩餐式は続きます。イエス様と私の関係です。

イエス様は言いました。「もし私があなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない。」(ヨハネ13:8)と。イエス様は今も私たちの足、即ち罪の汚れを最後まで、棺に納められるまで洗い流して下さっているのです。この一点のみがわたしとイエス様との関係であり、これから離れてはいけません。永遠の十字架の贖いの恵みです。教会はここに立つのです。そのことを忘れないために、毎月主の晩餐式をもっています。最後までこの福音の中心に立ち続けるのです。

そして、信仰の確信は、この十字架と復活の主に出会うことです。5節から8節までの間に、復活の主が出会って下さった人々のリストが乗っています。全部で6名の方々があげられています。「ケファ(ペトロ)」「十二使徒」「五百人の人」「ヤコブ」「すべての使徒」、そして最後に「月足らずで生まれたようなわたしにも現われました。」と言っています。教会の迫害者であり、使徒とは呼ばれる価値のないようなパウロにさえも、復活の主は現れて下さったのです。

パウロは、自分の罪のために十字架に架かって下さり、死んで三日目に甦って下さった主が、この罪人の不信仰な私にも出会って下さったということ、これが福音の中心で、あり核心部分なのです。復活の主と出会ったものは、もう黙っておれません。最高の発見、最高の宝物を見つけたわけですから、誰かに話したくて、話したくてしょうがないのです。この復活の主と出会った人は、もはや黙っていられません。

3.神の恵みの宣教

ある方がこう言われました。「自分には信仰があるかどうか不安です。もしかしたら、ないかもしれません。どうしたらいいでしょうか。」そのような方に、わたしはこう言いたいです。「あなたには信仰があります。ただ、復活信仰の確信がないだけです。復活のイエス様と出会ったという経験がないだけですから、途中であきらめて信仰を捨ててしまわないようにして下さい。教会から離れないでください。復活の主が自分に出会って下さることを信じて、待ってください。そして、忠実に主に仕え、教会に繋がっていて下さい。熱心に求めるようにして、食いつくようにして聖書を読んで下さい。そうすれば、いつかきっと復活の主が出会って下さいます。」と。

わたしもしばらくそういう時期がありました。教会に反発してみたり、礼拝を休んだりしてました。それでも教会から離れないで、伝道役員をし、家では家庭集会をもって熱心に教会に仕え、牧師にも仕えておりました。そうしましたら、ある時、教会の葬儀で復活の主が御言葉をもって出会って下さったのです。また、家庭での聖書の学びを通して、御言葉が啓かれたのです。もやもやとしていたものがはっきりと理解できるようになりました。十字架と復活の確信が与えられたのです。

復活の主に出会い、復活信仰の確信が与えられますと、人生が変わります。礼拝やすまなくなりました。牧師先生の後について、一緒に伝道するようになりました。そして、その時、わたしはすぐに仕事を辞めて献身して神学校へ入りました。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(15:10)今日こうして、富里にいる兄弟姉妹に神の福音の宣教の働きができますことを心から感謝しております。そしてそれは、わたしが出会った復活の主によって受けたことであり、それを皆さんにも告げ知らせております。宣教の働きをしているのは、わたしではなくわたしと共にある神の恵みなのです。

ですから、この福音の中心にしっかりと立ってほしいのです。わたしが宣べ伝える福音をしっかりと覚えて心に刻みつけて欲しいのです。日曜の説教で語り、原稿にして送っています。ある方は、言葉にして目で読むとまた理解が深まると言って、毎週礼拝が終わってから、もう一度読み直して下さっています。また祈祷会でも、神の教えについて語っています。これはクリスチャンにとって欠かせない、教理の教えです。

しっかりと学んで、時には牧師に食い下がってもいいですから、学んで自分のものにしてもらいたいと思います。これに、真剣に向き合い、命がけで取り組んでほしいのです。そうでないと、せっかく聞いた信仰が無駄になってしまいます。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの信仰によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(15:2)

皆さん一人一人、地上での最期を迎える時が来ます。その時に、「復活するかどうかわからない。死んだらどうなるだろうか。岡田先生よろしくお願いします。」ということは出来ません。一人一人が、その最後の時に向き合うのです。わたしはそばで祈ることしかできませんが、もう天国への希望で、顔を輝かせて元気に息を引き取ってもらいたいと思います。ですから今のうちに、目が見え、口で話せるうちに、聖書の教えを真剣に飢え渇くようにして心から慕い求めてください。この神様からの真理と命の言葉しかないのですから。もっともっと貪欲に、今のうちに、命の言葉をむさぼるように追い求めて欲しいと思います。

わたしも伝道者になってから、神奈川の相模中央教会を皮切りに、四国の八幡浜教会、東京の篠崎教会、そして横浜の港南恵み教会、そして千葉の富里教会と福音宣教の働きを続けてくることができました。ここまで宣教の働きができたのは、本当に神様の恵みによる以外ありません。そして、どこへ行っても福音を宣べ伝えること、そしてそれを聞いて信じる信仰の耳があります。これは神の恵みです。どうか、最後まで、この神の福音の中心に立ち続け、天国に信仰の確信をもって行くことができるようにと願っております。  (岡田 久)

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