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神を第一とせよ (イザヤ43:16~21)

メッセージ
2017年1月1日新年元旦礼拝

「神を第一とせよ」
(イザヤ書43章16~21節)

1.この世界は人間のためか、神のためか

ある時、クリスチャンの方が、「神様は何のために人間を造られたのですかね。」と、わたしに質問したことがありました。わたしはその時に、イザヤ書の43:7の御言葉を引用して、「神様はわたしたち人間を神様の栄光のために創造されたのですよ。」と言いました。「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形つくり、完成した者。」(イザヤ43:7)とあります。そうしましたら、その兄弟は、急に怒った顔になりまして、「いやそんなことはない。」と反対したのです。彼の考えの中には、神様はわたしたち人間のためにこの世を作ってくださったという考えがあったようです。皆さんはいかがでしょうか。わたしたち人間は何のために造られたのでしょうか。

もしわたしのために十字架だったら、感謝して受ける方はいいですが、「わたしのためなら結構です。入りません。」と答える人もいるのではないでしょうか。「わたしのため」でしたら、わたしの責任でていねいに断ることもできるような気がします。わたしの人生はわたしで決めます。わたしのためでしたら、わたしはけっこうです。わたしは天国も永遠の命もいりません。わたしの人生はわたしが責任を持って決定しますと言えるような気がします。

でも神様がこの世界を造られたのは、わたし達のためではなく、わたしたちが勝手に選べる自由な世界ではなく、神様御自身の栄光のために、神様の喜びのために創造されたのです。神様はわたしたちに自由を与えられたのは、自分で勝手に選択して滅びの道を選び取るのではなく、神を喜ばせて欲しい、神の栄光を現して欲しいために自由を与えて創造されたのです。

創世記1:31に神様は全部を創造されてからこう言いました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝がった。第六日である。」(創世記1:31)神はこの世界を造られた時、「ああ、とてもよかった」と喜ぶために創造されたのです。「駄目だ、失敗した」と言って削除するためにこの世界を造ったわけではないのです。ご自身の喜びのため、ご自分の御栄光を表すために創造されたのです。わたし達は神様に喜んでもらうために造られたのです。神のために、神の栄光を現すために造られたのです。

ところがこの神様が想像された完全な世界に、サタンである蛇が入って来て、人間を誘惑しました。「決してこの木の実を食べても死なないよ。神はお前の目が開かれて、神のようになるのを嫌がっているんだよ。」(創世記3:4~5)と嘘をついて誘惑しました。そして、神の御言葉に逆らわせて、神の栄光を汚させました。つまり神の創造の秩序に逆らわせたのです。食べてはいけないと言った命令に背かせたのです。御命令に背くという罪を犯させたのです。

その時の人間の言い訳は、「神様はわたしたちが死んではいけないから、エデンの園の中央の木の実を食べるなとおっしゃいました。」(創世記3:3)と蛇に答えました。人間の言い訳はこうです。「わたしたちが死んではいけないから」と言う言葉です。わたし達が中心なのです。軸が神中心から人間中心に移っていたのです。そこを蛇は見逃さないで、大丈夫と言って食べさせました。このように神のために造られた人間が、いつの間にか自分のためにと視点を変えること、軸を変えること、これが罪の始まりなのです。自分中心の世界です。

聖書を読む時でも、いつもこの自分と言う視点、自分を軸にして読んでいる限りは、本当の真理は分かりません。例えば、「何故神様は、ベツレヘムの罪のない二歳以下の赤ちゃんをむざむざ殺させたのでしょうか。神は何故そんなむごいことをされるのでしょうか。」と考えたりします。マリアが聖霊によって身ごもると言うことも、人間の目から見るならばとうてい信じられないことです。わたしが中心なのですから、自分の頭や理性で理解できないことは受け入れられないのです。もちろん、聖霊とか復活と言うことも信じられません。自分の頭や目で確かめなければならいからです。

2.主のためにわたし達は創造され、贖われた

このイザヤ書43章を読んでいて、発見したことがあります。それはこの43:7のような言葉が、他にもあったと言うことです。43:21に「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」とあります。また43:25にも「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」と言う御言葉です。この43章の中に「わたしのために造った」と言う言葉が何と三回も繰り返されていたのです。

神様はこの世界をご自身のために創造され、わたしたち人間をもご自分のために創造され、ご自分のために罪をぬぐい去って下さったのです。こうして神は、ご自分の正義を証明され貫かれたのです。すべてはこの神様を中心に動いているのです。この世界は神中心の世界なのです。「ではなぜ、人種差別的なトランプ大統領が誕生したり、シリアで今も戦争が続けられ、多くの難民が犠牲になっているのですか。神様はいるのですか。」と問われる方がおられます。それはこの世界は、アダムの堕罪以来、罪の中にあるからなのです。未だにサタンが全ての人を支配しているからなのです。

しかし、そういう世界に神は御独り子を肉体を取って送られました。それはこの世界の罪を贖うためです。アダムの罪が全人類に死が入り込んで、人々はこの罪と死の鎖の中にがんじがらめに縛られてあえぎ苦しんでいる只中へと、ご自身の御独り子を世に遣わされ、十字架の苦しみを通してこの世の罪を贖い取って下さったのです。これは神の決断です。それがこの43:25の「わたし自身のために、あなたの罪を拭い取り、もう思い出さない。」と宣言したことなのです。どこまでも神様の義しさを証明されました。人間が誰も口を差しはさむ余地がないようにされたのです。

なぜこの世に戦争があるのか、人間は人を殺すのか、こんな人間を創造した神の真実と正義はどこにあるのかと反論する人間の口をふさがれたのです。新約聖書にも、同じようなことが宣告されました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義とするためです。」(ローマ3:23~26)

神はまず第一に、御子の十字架を通して御自分の義を示されました。そしてこの世を救おうとされたのです。それはわたしたち人間がかわいそうだからと言うのではなく、ご自分の正しさを示すためだったのです。人間が反抗しようが背こうが、神は全世界の人々に対してご自分の正しさを証明され宣言されたのです。それがあの十字架です。神様の義と愛を示されました。この神の贖いと赦しの業に対して誰も異議を指しはさむことが無いようにしたのです。ご自身の義のために、御子を十字架につけられたのです。

あとは、この神の義なるキリストの十字架を受け入れるか否かです。そして信じて受け入れた者を、第二番目に義とされたのです。第一はこの十字架に示された神の義です。そして第二番目が信じる者に与えられる信仰による義です。ですからこの神子の十字架を信じる者は裁かれませんが、信じない者はすでに裁かれていることになるのです。(ヨハネ3:18)信じても信じなくてもいいと言うのではないのです。それはわたしたちの人間のためではなく、ご自身の真実、ご自身の義のためだったのです。あくまでも神が第一なのです。キリストの十字架は、神様の愛と忍耐のギリギリの宣告なのです。すべての人が救われて欲しいと願っているのです。

知らないうちに、自分の義を建ててしまっていることがあります。正義の味方のクリスチャンになってしまっていました。こういう信仰生活は長続きしません。やがて苦しくなって教会や信仰から離れて行ってしまいます。他人を裁いてしまいます。「神第一」を忘れてしまっていたのです。「キリスト第一」を忘れないために、わたし達は常に主の十字架を記念して、繰り返し、繰り返しその血と肉にあずかるのです。神が第一であることを忘れないためです。主の流された十字架の血の贖いを思い出すのです。この神の義である十字架の原点に立つのです。わたし達が受けるのではなく、神様が備えて下さったこの贖いの血潮にあずからせていただくのです。

3.神の決断

しかし、そういう未熟な私でしたが、やはり神様は大いなる忍耐を持って、時間をかけて養い育ててくれました。つまり、たとえわたしたちが道を外れたとしても、自分のために神がこの世界を作り、自分のために御子を十字架につけてくれたと思っていましても、主は必ずご自身の義を示して下さる時が来ます。それが主の決断なのです。主はご自分のためにこのわたしを創造し、ご自分の栄光のためにこのわたしの罪を贖って下さったのですから、たとえわたしたちが不信仰になり、自分中心になり道を外れていても、必ずわたしたちを真理の道へと引き戻して下さいます。

それはみ言葉から来ます。神様の真実と神様の義と神様の決断は、この聖書の御言葉を通して示されるのです。43:1からの御言葉を見てみましょう。これは神様ご自身の決断です。ご自分のためにわたしたちを創造して下さり、命を与えてくださった方の決意の言葉です。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ書43:1、4)

なぜなら、わたし達は主の栄光のために創造され、形づくられ、完成した者だからです。(43:7)主はご自分のために、ご自分の栄光のためにわたしたちを創造して下さったのです。ご自分のためにわたしたちの罪をぬぐい去ってくださり、罪をもう思い出すことはないと決心して下さったのです。なぜなら、わたし達は主のために造られたからです。自分たちのために造られたのでも、人々のために造られたのでも、この世界のために造られたのでもありません。主のために、主御自身の栄光のために創造されたものですから、必ず、主はこのわたしたちの上に主の御栄光を現して下さいます。

たとえわたしたちが、弱くとも、不信仰であって、罪を犯してしまうようなことがありまして、主はご自分のために責任を持ってわたしたちを御自分の栄光の器として下さるのです。なぜなら、それは主のためだからです。誰もわたしたちを、もうお前はだめだと言う人はいません、お前は主にふさわしくないと言う人はいません。それはわたしたちの働き、能力、実績ではなく、ただひとえに主御自身の栄光のためだからです。皆さん一人一人は、主のためにあるのです。主の御栄光のために創造されたのです。主の栄誉を宣べ伝え語り告げるために、主御自身が選んで下さったのです。この教会も主御自身のために、主が立てて下さった教会なのです。主が責任を持って、わたしたちを主の栄誉を宣べ伝え、証しをするものへと造り変えて下さるのです。

大事なことは、この主の御支配のもとにいることです。主の恵みを信じて、その時を待てばいいのです。これが神の国です。神の権威のもとにいることです。これが天国であり神の国なのです。ですから、わたし達に大事なことはこの「神の義と神の国」を求めることなのです。自分を主としないで、神様を主とすることです。わたしたちを造り、選び、救いに招いて下さった、お方の御支配を受けることです。それは常にこの主の御言葉の権威のもとに服して従うと言うことではないでしょうか。

わたしたち一人一人も、そしてこの教会も、主が御自分の栄光を現すために立てて下さったのです。そして今日もわたしたちを主の御前に招いて下さいました。主の流された十字架の贖いの血潮を記念して、主御自身のこの聖なる晩餐に招いて下さいました。神様が主人であり第一のお方なのです。神を第一とすることです。このお方に従うことです。

最後に主はこうも言っておられます。43:18からですが、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちは悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」(43:18~21)

神様がわたしたちを造り、わたし達の罪を赦し、この教会に集めて、この群れを造ってくださいました。それは、主御自身のために新しいことを行うためであると言っています。この荒れ果てた砂漠に道を造り、すべての人々がその道を通って主のもとに集まって来ることを実現すると言っています。そして、この砂漠のような心の乾いた社会に、命の水の井戸を掘って、あちこちから命の水を湧きあがらせ、人々に命の水を飲ませる時が来ると言っています。

そのための道を造り、井戸を掘り起こし、人々に命の水を飲ませると言う伝道の働きを通して、わたし達は神様のすばらしさを語り告げなければならないのです。そのためにわたし達は創造されたのです。「主御自身のために、その御栄光のために」わたし達は選ばれたのです。選び招かれたのは、主御自身です。ですから、主が最後まで責任を持って、あきらめずにわたしたちを御自分の栄光の器に造りかえて下さるのです。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(43:1)と宣言されておられます。この約束の根拠は、神様の側にあります。ですから、2017年も、この神を第一として歩んで参りたいと願っております。

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