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神の自由な選び (ローマ9:8~18)

メッセージ

2013年10月6日富里キリスト教会
「神の自由な選び」
(ローマ書9:8~18)

1.神の選び

今日の聖書を読んでみましょう。ローマ書9章8節から13節まで読んでみましょう。「すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫とみなされるのです。約束の言葉は、『来年の今ごろに、私は来る。そして、サラに男の子が生まれる』というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまり私たちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、良いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう。』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」(9:8~13)

神様は、双子の兄弟エサウとヤコブについて、私はヤコブを愛し、エサウを憎んだと言っています。しかも、彼らが生まれる前から、母リベカの胎内にいる時から「兄は弟に仕えるであろう。」と母に告げられています。つまり、神様の選びというのは、私たちが、何か選ばれるにふさわしいことをしたとか、行いが良かった、優れた能力があるというのではなく、一方的な神様の選びだったのです。しかも本来ならば、兄の方が弟よりも神の祝福を受けるものとされていたにもかかわらず、神様は、弟の方を選ばれたのです。

これが神の自由な選びです。ちょっと不公平だ、えこひいきだと思われても仕方がないような選びです。これに対しては誰も、文句のつけようがないのです。わたしたちは同じ兄弟でも、時には競争したり、比較したり、けんかしたりして育って来ます。お互いに親に気に入ってもらおう、親から認めてもらおうとして頑張ったりします。しかし、真の親である神様から見ますと、その人が長男だとか、頭がいいからとか、スポーツができるというような人間の長所は何の価値もないことなのです。愛の対象の判断基準にはなりません。

むしろ弟ヤコブは、兄よりもあまり体は丈夫でありませんでした。いつもテントの周りにいて、静かなおとなしい子でした。兄のエサウはたくましく、狩りが得意な立派な若者でした。また、ヤコブは、少し抜け目がないというか、ずるがしこいというか、兄の長男としての権利を狙うという難点も持っていました。ヤコブという名は、人を押しのけるという意味です。しかし、神様は、そういう体が弱い、でもずるがしこい、人を押しのけてでも自分を生かそうとするような人間であっても選ばれたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」とあります。神様の自由な判断と裁量です。誰もそれについて、意見を差し挟むことはできないのです。それは自分を神とするに等しいからです。

また、エフェソ1:4でもこう言っています。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:4~5)

神様は、イエス・キリスト様を通して、天地創造の前から私たちを愛して下さり、神の子となるようにとあらかじめ選んでくださったのです。そして、そうなるようにあらかじめ定めておられるのです。ですから、もはやだれもこの神様の一方的な自由の選びの判断に反対することはできないのです。お前はだめだ、お前は役に立たない、お前はいてもいなくてもいい、無価値な存在だということは誰もできないのです。性格がよくない、次男だからということは神様にとっては気にならないのです。むしろ、神様はそのような無価値なもの、ふさわしくないものを選んでくださるからです。しかも、すでに天地創造の時から、その人は選ばれて運命づけられていたのです。主に感謝しましょう。

2.神の選びと神の目的は一つ

しかし、私たちがこうして主によって選ばれ、弟子として召されたのは、ただ単に救いにあずかったことだけを、ぬか喜びするためだけではありませんでした。神様が、私たちを選ばれたのは、私たちを神様のそばに置いて福音伝道のために遣わすためだったのです。中にはこの神様の選びを間違って理解し、神様は初めから救われるものとそうでない者を定めておられるのだから、伝道する必要はないといった考えの方(カルバンの二重予定説)もありますが、それは聖書的ではありません。

先週も言いましたが、イエス様が弟子たちを召された時にこう言いました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)と。そして十二弟子を選ばれた時も、そうでした。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13~16)と。

パウロもそうです。このローマ書の手紙の冒頭で、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」(ローマ1:1)と自分のことを紹介しています。パウロも、ペテロも他の弟子たちも、そして私たちも主に選ばれました。一方的な恵みによってキリストの弟子となるように召し出されたのは、そこに神様の目的があったのです。それは、福音のためです。復活されて、今も私たちと共にいて下さるイエス様と一緒に、福音宣教の働きをするために私たちは選ばれ召されたのです。

そして、イエス様と共にいるということと、福音宣教を宣べ伝えるために出て行くということは、一緒のことなのです。「出て行ってすべての国民をわたしの弟子としなさい。」ということと、この教会標語にあります「見よ、私は世の終わりまであなたがたと共にいる。」という言葉の意味は同じことなのです。一つの文章です。イエス様と常に共にいなければ、私たちは出て行って人々をキリストの弟子にすることはできません。また、出て行かなければ、復活の主と共に働き、主と共に歩むことはできないのです。イエス様ご自身も、福音宣教のためにこの世に来られたからです。

3.神の憐みによる選び

ユダはどうして、あんなにイエス様に愛され、恵みの選びにあずかっていながら、最後は自殺してしまったのでしょうか。それは、やはり、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったというこの一点において、彼の心の中に欠けていたものがありました。神の憐みによって選ばれた、神の愛によって選ばれた、神の恵みによって何の価値もない者がこうして弟子として選ばれたという点が、残念ながら彼の心にはありませんでした。

彼はどこまでも、自分、自分、自分の主義、自分の理想、自分の願いだったのです。自分の理想に向かって、革命を目指していたのです。貧しい人を何とかしなければならないということが彼の目的でした。でもそれは、ユダ自身の主義主張、倫理、思想でした。主御自身の御命令ではありませんでした。弟子としての第一の条件である「わたしの罪のために、イエス・キリストが十字架にかかって下さった」という罪の自覚が、最後の最後まで欠如していたのです。主は最後の最後まで、弟子たち全員を愛し抜かれましたが、ユダにはこのキリストの恵みも神の愛も届かなかったようです。どこまでも、「わたし」、「わたし」の人でした。自分を主に明け渡さなかったのです。ですから、神様からいただいた貴重な命さえ、自分のものだと思って自分の手で奪い取るという自殺の道を選んでしまいました。これほど傲慢な行為はありません。

ユダだけではありません。あの時には、他の弟子たちも、またペテロでさえ、イエスを裏切ったのです。みんな弟子たちは蜘蛛の子を散らすように、主を見捨てて逃げて行きました。みんなユダと同じです。ただ、ペテロは、主を裏切ったことを、涙を流して悔い改めました。自分の罪に、自分のふがいなさに涙するしかありませんでした。涙を流して、泣くしかなかったペテロを、主はもう一度、復活の出来事を通して出会って下さり、信仰を甦らせて下さったのです。悔い改め、心砕けた者のそばに、主はいつもいて下さいます。(今日も主の晩餐式があります。そのような思いで、主の十字架のもとに立ち続けたいものです。)そういう自分でも、神様は神の憐れみを伝える者として選んでくださったのです。

私たちがこうして、礼拝に参加できるということ。そしてイエス様の御言葉を聞くことができるということ。また、何よりも福音を宣べ伝えるという恵みにあずからせていただいていることは、なんとすばらしいことでしょうか。先日来られたチャックさんに、わたしがこういいました。「今回はお二人のお話を聞いて、今度はわたしがこの図を使って、教会の皆さんに話してあげることができますね。そうすると、わたしはチャックさんの弟子になりますね。」と言いました。そうしましたら、「いや、いや、私たちは二人ともキリストの弟子です。わたしの弟子にならないでください。」とおっしゃいました。

本当に謙遜な方だなあと思いました。ともすると自分の弟子を造ってしまいがちなものですが、お二人はどこまでも謙遜な方々でした。そしてよく、「自分たちは、キリストの弟子としてはふさわしくない者ですが、神様の憐みによって、召され選ばれて日本に来ました。でも、逆に私たちの方が恵まれました。」と言って帰られました。この神様の憐みによる選びは変わることがありません。わたしたちは、皆、神様の憐みによって、また恵みによって一方的に選ばれたものです。そのことを感謝しつつ、聖霊様の助けをいただいて、イエス様の後に従って行きたいと願っております。             (岡田 久)

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