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神の義の啓示 (ローマ3:21~26)

メッセージ

2013年3月24日富里キリスト教会
「神の義の啓示」
(ローマの信徒への手紙3:21~26)

1.すべての人は罪人です

主の御名を賛美します。
前回のローマの信徒への手紙では、「すべての人は罪人です」と言う題で語らせていただきました。人類最初の人間アダムの犯した罪によって、全人類の歴史に罪の血が注がれたのです。その結果、神様は人間に対して、「お前たちはもともとチリから造られたのだから、死んで土のチリに帰る」(創世記3:19)とアダムの罪に対する罰を宣言されました。その結果、人間は誰でも必ず、死を経験しなければならなくなりました。なぜ、人間は死ななければならないのか?その答えは、罪を犯したからです。

そしてパウロが言っている人間の罪と言いますのは、この神様から霊的に離されている状態のことです。神に造られながら、神に背を向けて生きている状態のことを罪と言います。信仰とは、私たちの顔を神様に向けることです。人生の標準を神様に、しかも十字架のイエス・キリストに合わせることだと言ってもいいかも知れません。ローマ1:29に人間の罪の姿が描かれています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」

この20の悪に自分は全く関係がない、したことがないと言える人はいるでしょうか。これは、人間が神から離れている罪が、根本にあってもたらすものです。個々の悪を直すことはできません。根底にある原罪、あのアダムの犯した神の御心に背を向けるという原罪を解決しない限り、私たちに罪からの救いはないのです。

そして、これらの戒めを「わたしは神の律法に従って守っている」と言って誇っていたユダヤ人でさえ、異邦人を裁くことによって、自分たちも罪の只中にあることを証明したのでした。ですから、パウロはすべての人は罪を犯してしまった、誰も神の前に弁解できる人はいない、弁解の余地はないと言っています。正しい人は一人もいない、善を行う者もいない、全ての人は空しく迷いに迷っていて、最後には全ての人が、神の裁きの前に立たなければならないのであると言っています。(3:9~19)

そういう救い難い人間、どうしようもない罪を持った人間に、果たして救いの道があるのだろうかということで、3:12から全く新しい救いの道、罪からの解放の道を示したのが、今日の聖書の個所です。

2.神の義

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」                     (ローマ3:21~25)

神様は、ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人以外のすべての人のために、御独り子イエス・キリストをこの世に与えて下さいました。もし、律法を通して神の義が示されたのであれば、救いはユダヤ人だけのものとなっていたかもしれませんが、律法とは関係なく示されました。しかし、律法によって前もって証しされ、教えられて来たことでした。これが律法と預言者によって立証されてということです。

24節に、神の義について大切な二つのことが述べられています。一つは、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して義とされる」とあります。二つ目は、「神の恵みにより無償で義とされる」とあります。

A)イエス・キリストによる贖いの業を通して

「贖う」と言う言葉は少し聞きなれない言葉だと思いますが、聖書の中では一番大切な言葉です。神学用語としては「贖罪(しょくざい)」と言う言葉です。これは本来、奴隷の身分を解消するために、だれかがその人のために代価を払って買い上げるという意味です。あるいは、借金のかたに身を売ってしまった遊女のために、誰かが借金に見合う代金を払って身請けをするということです。つまり、私たち罪人が、罪の牢獄に閉じ込められていたのを、誰かが相当の代金を払って罪の束縛から解放してくれるということです。これが贖いの業です。

御子イエス・キリストを贖いの子羊として、あの十字架の上につけられ、その流された血潮と苦しみと死を通して、私たちの罪の償いをしてくださったのです。罪のないお方を、罪をもったものとして、全人類の罪の呪いと苦しみと罰を全部その身に負わせられたのです。その苦しみを御子は、生身の体でご自分に引き受けられたのです。人間一人の命も相当尊いものですが、それ以上に神御自身の命もそれ以上にはるかに尊いものです。それほどの代償を支払って、私たちの罪を贖って下さったのです。これが神の義です。罪を犯した者の罪を赦し、罪なき者として無罪放免にしてくださったのです。

イエス・キリストがわたしたちの受けるべき罰を、裁きを、私たちの身代わりになってご自身の体に受けて下さったのです。誰かが苦しまなければ、誰かが代わりに死ななければ、罪を犯した人の罪は贖われません。それがあの十字架の姿なのです。

イザヤ書53:4から読んでみましょう。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

それまで、神様は大いなる忍耐を持って、イスラエルの民を導き育ててきました。しかし、そのあげくの果てが、彼らの決定的な背き、背信の行為でした。ユダヤ人は、神に選ばれたにもかかわらず、神の御子を憎み、退け、十字架につけてしまったのです。そして、神の御子を、神の民自身が自分たちの手で殺してしまったのです。それほどまでに、人間の罪が増大し、荒れ狂っていました。しかし、神は忍耐をして見守っておられましたが、最後の最後に、切り札としてご自分の真実の心をあの十字架の上に示されたのです。

それは、御子イエス・キリストを信じる者がすべて、罪赦され神の前に義とされるということです。私たちの過去、現在、未来の一切の罪を帳消しにして、新しく生まれ変わることができると言う義です。もう一度初めから、いつでもやり直しのできる人生です。私たちの罪を御子の血潮をもって贖い取り、私たちをも義としてくださる神の義なのです。

B)神の恵みの業

この贖いの業というものは、神様の無償の恵みだと言っております。わたしたちの罪のために、ご自分の子どもと言うお金では測ることのできない代償金を支払って下さったこの業は、実は恵みの業だというのです。恵みと言いますのは、難しい言葉では「恩寵(おんちょう)」と言う言葉です。プレゼントと言う意味です。今、上野公園では桜が満開です。この上野公園のことを、正式には上野恩賜公園と言います。おそらく、これは国から、東京都が無料でいただいたという意味ではないかと思うのですが、「恩賜」すなわち無料で与えられたという意味です。

この神の義は、誰でも信じる者に区別なく与えられるものです。しかも、無料で与えられるプレゼントです。「神の恵みにより、無償で義とされるのです。」とありますように、この神の義であるイエス・キリストの十字架の救いは、誰に対してでも無償で与えられるということです。何かお礼をしなければというようなものではありません。お返しが必要であれば、それは恵みではないです。
あるいは、何か人間が努力して与えられるものだというものではありません。

神は人間を造り、愛を持って今まで養い育てて下さいました。ところが、その人間が神に逆らい、神様の一人息子であるイエス・キリストを十字架の上で殺してしまったのです。愛する一人息子イエス・キリストが殺されてしまったのに、その被害者でもある親が、加害者である人間のために莫大な補償金を出して、加害者の罪を帳消しにし、和解するという人がいるでしょうか。一般常識では考えられないことです。この和解も、この赦しも、この罪を問わないということも、すべて神様御自身の方から出ているのです。これが「神の恵みにより無償で義とされるのです。」ということです。恵みによるとは、そういうことです。

そしてその恵みは、信じる者すべてに与えられる神の義なのです。ただ信じるだけで、ただ神様に向けて顔を上げるだけで、神様と叫ぶだけで、主は私たちの罪を贖い赦し清めて元通りにしてくださるのです。生まれ変わることができるのです。あるいは以前のように、新しい人生を出発することができるのです。

3.神の義と信仰による義

最後になりますが、わたしが良く若い時に、疑問に思っていたことの一つが、この箇所を読むことによって解ったということがありました。それは、最後の26節です。「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」                   (ローマ3:26)

この短い一言ですが、ここに、「神様御自身が正しい方であることを明らかにされた」とあります。つまり、わたしは以前、こう思っておりました。神様がいるのになぜこの世に悪があるのか、神様が創造した世界なのに、どうしてこの世界には貧困や差別や戦争が絶えないのだろうか。神は果たしておられるのか。もしおられるならこの世界の現実をどう考えているのかと。こんな世界を放置している神が間違っておられるのではないかと。そして自ら、労働組合運動に身を投じて、弱者救済、差別撤廃の階級のない世界を作ろうと頑張っていた時がありました。

しかし、ある晩、スモールグループで数人の仲間と一緒にこの聖書の個所を読んでいた時に、ふと教えられたことがありました。それは神様は、イエス・キリストの十字架を通して既に、ご自分が正しい方であることを世界に啓示されたのだということです。そこには人間が、神は存在するのかと言う反論の入る余地が残されないほどの、神御自身の真実が第一に現されたということです。

たとえこの世界に貧困や飢餓や戦争がありましても、また核の開発が進んでいても、テロリストが人を殺し回っていても、それは神の御心ではなく、神義自身はイエス・キリストの十字架の贖いを通して、御自身の愛と真実を全世界に、時間空間を超えて宣言されたのだということです。後はこの神様の義(または真実、正義)に対して人間がどういう答えを出すかが問われているのだということです。それが今日の時代だということです。

たとえ世界中の人間が神を信じなくても、たとえ一人の人間も悔い改めなくても、世界が罪によってすべて神の裁きの下に置かれても、神様は、まずご自身の真実を、正しさを示されたのが、この神の義なのです。このように神御自身が、まず最初に御自分の義を示して下さいました。そして、次に人間が、イエス・キリストを信じる信仰による義を受けることができるのです。人間がどこまでも自分の正しさ主張する限り、信仰による義は与えられません。自分を捨て、へりくだって主を信じることが求められています。(岡田 久)

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