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神の義 (ローマ3・20~26)

メッセージ

2010年10月17日
「神の義」
(ローマ書3:20~26)

1.全ての人は罪人です。(人間の現実)

3:10~18には、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を捜し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行なう者はいない。ただの一人もいない。」(詩編14:3,53:4などからの引用)とあります。自分は正しいと神様の前に、堂々と言い張る事のできる人は誰もいないと、聖書は断言しています。人は皆、光である神を見る事も、聞く事もできず、あの事故で地下に閉じ込められた人々のように、暗闇で手探りでもがいているに過ぎないのです。いや、それだけではありません。もっと悪い人間の現実の姿が記されています。(3:13~18)

あの十戒という神の正しい教えが授けられ、神に選ばれたユダヤ人でさえ、ことごとく罪の中にいるとパウロは断言しています。パウロは、律法の本当の意味と目的を明らかにしています。それが、3:20の言葉です。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と。律法の働きは、人間の罪の自覚を生じさせるものであると言うのです。

聖書の中にこういう話があります。ある時、姦淫の現場を捕えられた女性が、イエス様の前に連れてこられました。ユダヤ人達は、律法に従ってこの罪を犯した女を処分して欲しいと、イエス様に詰め寄りました。主は、「じゃあ、罪のない人から、この女に石を投げなさい。」と言いました。すると、その場にいて彼女の罪を告発していたユダヤ人の大人たちが、ばつ悪そうに一人二人三人と、その場から離れていきました。自分のことを冷静に考えてみれば、誰でも自分の心の罪、過去の過ちに気づきます。(ヨハネ8:1~11)

このように、ユダヤ人が律法を守りそれを実行すればするほど、自分の心の中の罪が、目の前にあぶり出されて来るのです。つまり、律法を完全に行なう人間なんていないのです。20節に「律法によっては罪の自覚しか生じない」とあります。ですから、十戒の真の目的は、それを守ることができない人間の限界と現実の姿を、ユダヤ人の目の前に突きつけることでした。人間はすべて、地下の暗闇の中を歩いているに過ぎないということをまず知るべきです。

2.恵みとしての神の義

しかしながら、罪を犯し、違反を犯し、神の前にただただ目をつぶって、その義なる裁きを受けなければならない私たちに対して、まったく予想もつかない判決が下されたのです。それが、21節からの御言葉です。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(3:21~26)

これは、地上から地下まで垂直にまっすぐ、トンネルが掘られたと言う事です。自分で、努力して上によじ登ってゆくのではなく、(誰もそれはできません。)上から救いの道が、待ち望んでいる私たちのところまで届いたという事です。
冒頭に「ところが今や」という言葉があります。これは、死を覚悟している私たちに対して、神様が最終判断を下された、しかし、その判断は意外なものでした。それは、イエス・キリストを信じるだけで救われると言う驚くべき判断でした。無条件で罪が赦されるという判決です。

24節にありますように、神の義とは、「キリスト・イエスの贖いの業を通して」そして「神の恵みにより」、「無償で」義として下さるのです。義としてくださると言うことは、私たちが義しい者、罪赦されたものとして下さるということです。神様は、罪人の私たちを裁く方ではありません。いやむしろ、どこまでも追いかけてきて、私たちを救おうとされておられるのです。違反者の罪を赦し、その罰金まで支払って下さるお方です。恵みと言うのは、恩恵、施し、無条件に与える事を言います。「無償で」とありますのは、値なしに、受けるに値しない者にも与えられる義だということです。

あるところに小学生の子がいました。ある日、学校から電話がかかってきました。お父さんが呼び出されて、学校に行きました。そして、その子を家につれて帰って来ました。「今度と言う今度は、お前を絶対に赦さない。何度言ったら分かるんだ!」そう言って、お父さんはその子の性根をたたき直してやろうとしました。そして、いろりから鉄の火ばしを持って来て、我が子の頭にその火ばしを打ち下ろしました。

子供は、もうすっかり観念し覚悟を決めていました。振り上げた鉄製の固い火ばしが、自分の頭の上に振り下ろされて、コブができるか血が出るかと覚悟しました。バシッ、バシッ、バシッと鈍い音がしました。思わず目をつむって、痛さをこらえようとしましたが、なんと痛みがないのです。そして、恐る恐る目を開けてみましたら、何と、お父さんが、自分の手のひらの上にその火ばしを打ち降ろしているではありませんか。鈍い音がして、皮が裂け、血が飛び散って、見る見るうちにお父さんの手の甲が赤く青黒くなってゆきました。その子は思わず、「お父さん、止めて!僕が悪かった、僕が悪かった、もう二度としないから手をたたくのは止めて!」とその子は叫んでしまいました。そして、
それ以来、その子は二度と万引きをすることはなくなりました。

これが神の義です。神様は、ご自分の正しさと真実を表わすために、御独り子イエス・キリスト様を十字架につけ、本来私たちは受けるべき罪の代価、罰を御自身の愛するわが子の上に降されました。自分自身の手を、息子の罪のために代わりにたたいたお父さんのようなお方です。今まで、人間が犯し続けてきた罪を、今のこの十字架の時まで見逃しておられ、最後の最後に、切り札としてわが子を私達の罪の身代わりとして十字架につけられ、その死によって私たちの罪を償って下さったのです。これが神の恵みによる義なのです。誰も、この神の恵み事実と神の真実に異論を差し挟むことはできません。

3.神が第一(救いの根拠)

ここに、この御子イエス・キリストを信じる私たちの救いの根拠があるのです。今日の最後の26節を読んで見ましょう。「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」この箇所を、口語訳聖書では、「こうして神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」と訳しています。

つまり、まず神様ご自身が、イエス・キリストを十字架につけられることによって、まず最初に、ご自分の義を表わして下さいました。これは、誰もこの神様の義の行為に、異論を挟む事はできないと言う事です。少し、別な言い方をしますと、たとえ人間が神を信じようが信じまいが、神様の義は変わらないと言うことです。まず、神様の義が第一であって、その次にこの神の義を信じる人間の義が起こされるのです。人間の信仰は二番目なのです。ですからたとえ私たちが不信仰になっても、失敗しても、第一である神様の義は変わることはありません。神様は、首尾一貫して、最高の世界を造り、人間の罪を今まで忍耐をもって見逃してこられました。そして、最後の最後に、神の切り札として御子イエスキリストをこの世に送り、御子の十字架を通して、人類の罪を贖い赦して下さいました。

この大いなる救いの恵みに預かった者として、これからも主を信じ、主を見上げて歩んでまいりましょう。また、まだ主を信じておられない方は、今日がその日です。値なしに、無償で、恩寵として私たちを無条件で救って下さる神の義であるイエス・キリストの十字架があなたの目の前にあります。このお方を心に受け入れ、信じるならば誰でも救われます。あのフェニックスという甦りの不死鳥のような筒に入るだけでいいのです。あとは委ねるだけです。十字架にかかって死なれ、三日目に甦った主が、天上に私たちを引き上げて下さいます。今日、この神の義を信じて、真に神に生きる者となりましょう。
                                                              (岡田 久)

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