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神の約束である聖霊降臨 (使徒言行録2:1~13)

メッセージ
20021/5/23
富里キリスト教会礼拝説教
「神の約束である聖霊降臨」
(使徒言行録2:1〜13)

①ペンテコステの経緯
クリスチャンにとって1年の中でもとても大事にしている日が3日あると言われています。それは一つにクリスマス、二つにイースター、そして3つ目が今日のペンテコステです。特に教会にとってはこのペンテコステとは格別な意味を持ちます。それは、ペンテコステとは教会の誕生日でもあると言われているからです。このペンテコステとは、イエス様の弟子たちの上に聖霊がおりた聖霊降臨日。一人一人に聖霊の炎が降り注がれた。その時から教会の歴史が始まったのです。その日はいったいどのようなものだったのでしょうか。
まずこのペンテコステとはイエス様が復活されてからの出来事です。イエス様は復活されたのち、弟子たちに対し40日間神の国について語られ、父の約束された聖霊を待ちなさいと言われて、天に昇られました。エルサレムに留まり、父の約束を待て。そう語られ、天に昇っていくイエス様を弟子たちは見えなくなるまでじっと見ていました。イエス様はこの目で見ることはできなくなってしまった。何も約束がなければ弟子たちも心細くてたまらなかったことでしょう。しかし、イエス様はあなた方といつまでも共にいると約束してくださりました。見えない形となって共にいてくださるようになるのです。その約束のしるしが聖霊なのだといってよいでしょう。イエス様は私たちを決してみなしごにしないと約束されました。聖霊とはそのようなイエス様の愛の約束のしるしなのです。

ヨハネ14:18−20
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はわたしを見なくなるが、あなた方はわたしを見る。」

でも、そんな見えない形でいるんだったらわざわざ天に昇らず、ずっと地上に残ってイエスさまご自身が引き続き宣教をなされたらいいのに。そう思う方もおられるかもしれません。しかし、このペンテコステの時とは時代が変わる大きな転換点の時でした。主イエスご自身の手から宣教のわざは弟子の一人一人に渡され、人が用いられていく時代、教会、聖霊の時代へと変わっていくのでした。
イスラエル中心から、世界へと御国が拡大していくのです。教会が新しいイスラエルとして用いられていくようになるのです。主ご自身が全てお膳立てするのではなく、私たち人間がその神の救いのみわざに参与していくことを主は望まれたのでした。
しかし、そのためには聖霊という神の力が人に注がれなければなりませんでした。福音が世界に広がっていく。今の私たちにとっては当たり前の感覚があるでしょう。しかし当時の弟子たちにはよくわからなかったかもしれません。「全ての民を私の弟子とせよ。」この大宣教命令を聞いても弟子たちはピンとこなかったように思うのです。40日もイエス様から神の国の話を聞きながらも、彼らは「それで主よ、イスラエルのために国を立て直すのはいつですか?」などと、ここまできても自分たちの内側のことしか見ていなかったのです。それほど彼らからすると世界に出ていくという視点はあまりにも突拍子もないことでした。
だからこそ聖霊の力が注がれなければなりませんでした。視点の大方向転換というものは人の力だけではできないのです。みことばだけじゃだめなんですね。聖霊の力によってはじめてイエス様のことばの意図が理解できるのです。
ペンテコステというものはそもそも五旬祭といわれたユダヤ人のお祭りでした。50日目の祝日という意味で大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われたものでした。本来は七週の祭りと言われ、大麦の収穫の終わりと共に小麦の収穫の始まりのときになされた収穫祭を意味したユダヤ3大祭りの一つでした。また霊的な意味においては神の契約の民としてエジプトから解放されたことを記念する祭りであり、シナイ山で律法が与えられたことを記念するものでもありました。
しかし、この時を境にペンテコステはただのユダヤ民族固有のお祭りではなくなりました。世界中の人にとって喜びの聖霊降臨日、教会の誕生日となったのです。一民族であるイスラエルが神の国を表すというところから、教会をとおしてあらゆる人々が用いられ復活の主を証言して神の国を拡大していくという世界的な視野への転換がなされていくのでした。それは国や民族、すべての隔ての壁が取り除かれていくということを意味していました。ペンテコステとは大きな時代の変わり目、ターニングポイントなのです。

②聖霊によって一つとなる奇跡
イエス様はその聖霊を待てと言い、その言葉を弟子たちは信じて祈って、待ち望みました。すると、約束通りその聖霊降臨、教会の誕生の時はやってきました。聖霊と共に教会はあるのです。聖霊は必ず祈り、待ち望む者に与えられます。中々、信仰を持つことができない、またいつまでたっても信仰が成長しないと嘆きたくなるような時があります。しかし、そこには時というものがあります。必ず聖霊を与えると約束してくださった主を信頼して、自分自身もまた周囲の人も共にいのっていきたいものです。踏みとどまっていることによって必ずやこの初代教会のように私たちの教会にも聖霊が降り注がれることでしょう。
しかし、一口に聖霊といってもみなさん、どんなものかイメージできるでしょうか。何しろ見えませんからね。中々難しいかもしれません。今日の箇所では、聖霊をいろんなものに例えて表現しています。まず、聖霊とは風のようなものだと言っています。風は見えません。しかし、そこに確かにあると感じることはできます。聖霊とはそのようなものです。そして風は自由で、形がありません。聖霊は私たちを解放し、自由にしてくれます。
また、聖霊は炎のようだとも言います。炎とは神の臨在を表しています。聖霊とは神様そのものであり、自分が神様と共にいることを聖霊は実感させてくれます。また、強く神を求める熱心さを与えてくれます。
また、舌が一人一人の上に、と言った表現もなされています。聖霊は私たちの汚れた舌をきよめ、神を賛美し、人を癒し、慰める言葉を与えてくれます。そしてその聖霊は、一人一人に注がれ、それぞれの人格と融合し、大変ユニークな個別性を持ち、一人一人が本当に生き生きと用いられるようになっていきます。
しかし、このペンテコステにおいては、大変ユニークで個別性のある聖霊の働きでありながらもそこに現れた結果は一つの現象でした。

使徒言行録2:4
「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

なんと、弟子たちは霊が語るままにあらゆる国々の言葉を話しだしたのでした。これは、イエス様の命令を受けた者には、必ずそれを実行するための賜物が与えられるという一つの啓示のように思えます。主イエスの大宣教命令は聖霊によって、人の力を超えてなされていったのです。
また、この現象は、福音はユダヤ人だけのものではない。御国はイスラエルから世界へと拡大されていくのだ。そういったメッセージがここにはあります。このとき本当にあらゆる国の言葉が話されていたようです。ちょうど、この時はお祭りでしたから、当時世界中に散っていたディアスポラと言われるユダヤ人たちやユダヤ教に改宗した異邦人、さらには地の果てローマから来ていた人たちもいました。そのあらゆる人たちのすべての国の言葉がその時、語られていたのです。まさに驚くべき神のみわざです。これが聖霊に満たされた教会の誕生の瞬間でした。
その姿とは多種多様なものでした。一人一人がそれぞれ全く違う言語を話し、それを語っている弟子たちも無学でありつつ、元漁師や元取税人など様々な背景とパーソナリティを持っていました。しかし、多種多様でありながらも彼らの語る言葉の内容は一致していたことでしょう。聖霊によって語られる言葉、そこにあるものはまさしく神への賛美、復活の主イエスの証言。つまり、キリストへの信仰による一致がそこにはありました。聖霊はあらゆる民族、違いを超えて、私たちを主イエスへの信仰によって一つとしてくださるのです。
今、この現代、クリスチャンは世界中にいて、それぞれの言語で信仰を告白し、祈ります。外国人同士で祈る時、具体的な意味というものは中々理解できないかもしれません。しかし不思議とその人の思いというものは伝わってくるものです。それは、聖霊が私たちの信仰を一つとしてくださっているからだと思うのです。今、水曜の夜の祈祷会に、外国人の方が来られていますが、その方が共にいた日本人信徒のためにスペイン語で祈られた時、彼はその時とても感動があったようで、後で「異なるものがキリストにおいて一つになる神秘の一端を垣間見ました。」と感想を述べていました。いいこと言うなと思いました。まさにその通りだと思います。
多様性の中にある一致。これが聖霊に満ちたるまことの教会の姿です。私たちは一人一人が違う部分であり、それが聖霊によって結び付けられ一つとなった、キリストのからだなのです。民族、文化、霊性、性別、年齢、職業、時に教派すら超えて聖霊によって一つとされるのです。
違和感という言葉があるように、私たちは元来、違うということに対して抵抗を覚えます。しかし、聖霊はその違いをも豊かさを表すものとしてくださります。違いに戸惑うのではなく、むしろ豊かさと受け止め、それすらも信仰によって一つとしてくださる聖霊の働きを喜び、私たちは主を見上げ、共に賛美をささげる者でありたいと願います。

③聖霊に満ち溢れた教会
しかし、この聖霊降臨、多様性の中にある一致というまことの教会の姿を見た人たちの反応は極めてネガティヴなものが多かったようです。驚き、戸惑い、怪しむ。一体これは何なのだ?神のみわざをみて人は戸惑うのです。言語、民族、文化、国籍、性別、年齢、学歴、職業、そういった違いをこえて一つとなり、家族のように愛し合う姿。この神のみわざをみても、人はこんなのフィクションだろ?できるはずがない。この地上の国境を消すことなどできるのか?できるはずがない。そのように人は、怪しみたくなるものなのです。現実を見ようとします。
しかし、ここにまことの愛の輪がある。確かに違いを超えて一つとなって愛し合う共同体がある。この聖霊に満ちたまことの教会を見て人は戸惑ってしまいます。
あまりにも、自分の知っている世界、価値観と違うからです。こんなことできないと思っていた。しかし、ここに確かにある。本当はそうであってほしいと願う世界がここにある。社会の現実ではなく、人が願い求めていた理想、神の愛が聖霊によって表された教会の姿を見た時、人はその教会に魅力を感じ、足を運ぶようになることでしょう。
お年寄りから子供まで、地位や学歴、職種も国籍も関係なし。あらゆる人たちが集まり、互いのことを覚えて真剣に祈り、誰かの喜びを自分のことのように共に喜び、誰かの悲しみも自分のことのように共に悲しむ。こんなところ、教会しかないんじゃないでしょうか。
富里教会も幅広い年齢差があり、いろんな人がいます。そして外国の方も割とおられるということも私たちの教会の一つの特色であるように思います。富里、成田という場所は土地柄として外国の方もたくさん住んでおられ、その影響なのでしょう。これは、本当に素晴らしいことだと思います。私たちのこの富里教会も、この聖霊に満ち溢れた初代教会や、異邦人やユダヤ人などあらゆる人たちがいたアンテオケ教会のようになっていってほしいと願います。その愛し合う私たちの姿に魅力を感じ、多くの方が足を運び、救いへと導かれていってほしいと願います。
今は、私たちの教会は、外国の方々に日本の教会スタイルに合わせてもらっているように思います。私自身英語能力も低く、メッセージも完全日本語で申し訳なくも思っています。しかし聖霊の働きは言語や文化や民族をも超えるものです。あらゆる国の人々が交わることによってこそ、豊かで生き生きとして新しい形でありながらも原点のような教会となっていくことでしょう。
日本式に合わせる、外国式に合わせるではなく、主イエス・キリストへの信仰という同じ方を見上げながら、聖霊によって交じり合って、日本、モンゴル、台湾、スリランカ、ガーナ、アメリカ、ドイツの教会でありながらも聖霊に満ちた教会として一つとなっている。このペンテコステの時の初代教会のような教会へとなりたいと心から願います。
ここまで聞くと、理想を語っているだけのように聞こえるかもしれません。なに空想みたいなこと言っているんですか?あなた、酔っているんですか?そう言われる方もおられるかもしれません。しかし、私はみことばと御霊のちからを信じたいのです。マーティン・ルーサー・キング牧師のようにI have a dream!! と言いたいのです。
私の故郷の香川県のお隣、徳島県では阿波踊りが有名ですが、その出だしが大変面白いもので、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」というのです。傍観者としてみている方も、参加して踊っている方もそんなに変わらないよ。それだったら踊った方が楽しいよ。そういった意味です。
私たちも踊らにゃ損損です。傍観者ではなく、御国を表し、その拡大に参与する者として教会と共に生きていきたいと願います。そこにこそ教会に生きる喜びがあるのです。

武井誠司

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