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神の箱は行く

メッセージ

 2009年3月8日富里教会
         「神の箱は行く」
                (歴代誌上13:7〜14)
                          
1. はじめに

さて、今朝は、何年か前にヒットした映画「失われたアーク(聖櫃)」にちなんだお話です。映画では、世界制覇をもくろむドイツ軍が、戦争に勝つために、約3000年間行方不明だった契約の箱を見つけ出して、自分たちのものにするのですが、最期には箱の中を見てしまって、神様に逆に滅ぼされてしまうというストーリーになっていました。

2. 神の箱

英語では神の箱のことを、ARK(アーク)と言いますが、ノアの箱舟も同じようにARKという言葉を使います。特にこの十戒の二枚の板が入った箱のことを「契約の箱」または「あかしの箱」とも言っています。今朝も教会学校でモーセの十戒を学びましたが、モーセがシナイ山に登って、神様から十の戒めを二枚の石板に記してもらって下山します。すると、山のふもとでイスラエルの民が、金の子牛を祭って偶像礼拝をして飲み食いしていました。モーセは怒って十戒の石板を打ち砕いて、彼らを悔い改めさせました。その後、偶像礼拝を悔い改めたイスラエルの民のために、もう一度新しく書かれた十戒の板をモーセは神様からいただき、箱の中に安置しました(出エジプト記32章、37章1〜9、40:20〜21)。

この神の箱は、イスラエルの民が荒野を旅する時(民数記10:33〜36)も常に先頭に立って進みました。また、ヨルダン川を渡る時も川の水をせき止めながら、先頭に進みました(ヨシュア記3:11〜17)。そして、エリコの町を攻略する時も、神の箱が町を7周回って行進すると、あの堅固なエリコの町の城壁がたちまち崩れ落ちました(ヨシュア6:6〜8)。その後神の箱は、サムエルの時代までシロの町に安置されましたが、異邦人ペリシテ軍との戦いの中で敵の手に渡ります。神の箱は、敵の偶像タゴンの神殿に置かれますが、一晩でタゴンの像を切り倒してしまいました。更に異邦人に対して災難を起こし、とうとうイスラエル側に返還することになりました(サムエル記上5章)。その途中、箱の中をのぞいた人が70人死んでしまうという事件がありました(サムエル記上6:19)。最終的には、キリヤト・エアリムのアミダナブという人の家に安置されることになったのです(サムエル記上7:1)。

この箱のふたに一対のケルブ(ケルブの複数形がケルビム)という天使の像が立っていて、この上に主なる神様が御臨在され、力を現されるのです。ですから、イスラエルの民にとっては、神御自身を運ぶという大切な行事でもありました。ダビデは、サウルの後を引き継いで、政治的にも王国の統一を果たし、エルサレムを全イスラエルの中心に据えました。そして、いよいよ宗教的にも首都エルサレムをイスラエルの民の信仰の中心に据えるために、二十年間放置されていた神の箱を、首都エルサレムに運ぶ決心をしたのでした。今朝は、その神の箱を運ぶという大切な宗教行事のさなかに起こった、悲しい出来事を取り上げてみました。いずれにしても神の箱は、ソロモンの時代に神殿に安置されるわけですが、聖書では、その後この神の箱がどうなったかは記されておりません。

まず神の箱をエルサレムに移すに当たり、ダビデは指導者たちと協議しています。(歴代誌上13:1〜4)自分で決めたのではなく、軍の長や指導者たちと協議をした上で、実行しています。偉大な王であればあるほど、まず人の意見を聞いた後で、取り掛かっています。「民の誰にもそれは当を得たことだと思われたので、すべての会衆が賛同した」(13:4)とあります。ダビデの手順を踏んだやり方は、人々の心を捉えています。

3. 神に打ち砕かれたウザ

「彼らはアビダナブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を抑えようとした。ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。」(歴代誌上13:7〜11)

旧約聖書の中にいくつか理解できない箇所がありますが、このペレツ・ウザ(ウザを砕く)の記事もその一つだと思います。牛車に乗せた神の箱が、進んで行くうちに、石にでもつまずいたのでしょうか、牛がよろめいて荷台が傾きました。当然、上に乗せてあった神の箱が荷台からずり落ちそうになりました。そこで、そばに付いていたウザが機転をきかせて、落ちないようにすばやく箱を押さえたわけです。すると、神様が箱に手を伸ばして、押さえたウザをその場で打ち殺してしまいました。

普通でしたら、神様が落ちないように助けてあげた良い行いです。ほめるべきものをなぜ神様は殺してしまったのでしょうか。民数記に記されている神の箱を運ぶ際の規則を見てみますと、それに違反していることが解かります。(民数記4:6,15)
? 牛車を使ってはならない。肩に担いで運ぶこと。
? 神の箱はレビ族のケハトの家系に属する者のみが運搬を許されていた。
? 手を触れないように、担ぎ棒を差し入れて運ぶように命じられていた。
これらの掟をウザはことごとく破っていたわけです。それに気づかなかったダビデにも落ち度はありました。ダビデは、もはや運ぶことに恐れを感じ、エルサレムに運び込むことを一時止めました。

確かに神の箱を運ぶに当たっての、いくつかの違反はありました。それでも、ウザが箱を落さないように手を伸ばして、押さえたことに対して、それをとがめる正当な理由があるでしょうか。神様もあまりにも一方的で厳しすぎると思いませんでしょうか。私はなぜ神様がこれほどまでに、怒り、罰を下されたのかこだわりました。その中で、神様を持ち運ぶと言う時に、私たちがどんな注意を払う必要があるのかということも、教えられたような気がします。

? 車を御する罪

神様を持ち運ぶと言うことは一体どういうことでしょうか。新約聖書ではイエス様は何に乗って、人々の心にはいられたでしょうか。イエス様は小さなロバの子に乗って、エルサレムに入られました。神様であるイエス様を乗せて人々の心に届けるのは、子ロバの背中です。(マタイ21章)つまり、神様を持ち運ぶのは車ではなく、私たち自身だということです。わたしたち自身で神様を担いで運ばなければならないのです。

ここに先月作った教会案内があります。神様のメッセージです。これを人々の心に届けるわけですが、これを自分で、自分の手、自分の足、自分の口で届けることが大事なのではないでしょうか。もちろん、市内の団地までは車で行きますが、手渡す時には私たちで、私たちの手足を使って、私たちを通してメッセージを運ぶことです。人任せにしないということですね。

しかも、ウザとアフヨは13:7に「神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した」とあります。車を御する、すなわち車を運転するのは私たちではなく、神様だということを肝に銘じたいと思います。そこを注意しないと、私たちが神を御すると言う大きな罪を犯すことになります。神様が私たちを御するのです。車を運転するのは私たちではなく、神様です。ですから、わたしたちはこの教会案内を手に持って、神様があっちの団地に行きなさい、この人に手渡しなさいという言葉を聞きながら、神様の指示に従って案内を手渡すのです。これが神様を持ち運ぶ際の注意事項です。ですから、配布する前にまず、祈りましょう。あなたをどこに運んだらいいですかと。

? 聖別されない者が運ぶ罪

神様を持ち運ぶのは、よその人ではなく私たちなのです。神様によって選ばれ、救われ、聖別されたものでなければなりません。ウザの死によって、一時中断したこの働きも、ダビデはもう一度悔い改めて挑戦しました。
「最初のときにはあなたたち(レビ人)がいなかったので、わたしたちの神、主は私たちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。祭司とレビ人は、イスラエルの神、主の箱を運び上げるため自らを聖別した。主の言葉に従ってモーセが命じたように、レビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担いだ。」(歴代誌上15:13〜15)

聖別された者といいますのは、以前も申しましたが、「聖」という漢字が示しているとおり、御言葉を耳で聞き、口で感謝と賛美を祈り、心の王座にイエス・キリストを迎え入れている者という意味です。昔のレビ人はおそらく、祈って断食をしてからこの尊い働きについたのではないでしょうか。ですから私たちも、この案内を配る時、あるいは伝道する時、やはり、罪を悔い改め、祈りのうちに準備する必要があるかと思います。神様を運ぶのは私たちなのです。

? 人間が手を伸ばす罪

最後に、この手を伸ばして落ちそうになった箱を押さえようとした行為が、神の前に厳しく罰せられました。この神の箱の前を歩いていたアフヨと箱のそばを歩いたウザとはどこが違ったでしょうか。ウザは注意深く箱を監視しながら牛車を運転しました。ウザは万が一箱が落ちそうになったら、すぐに手を出してそれを押さえようとしたに違いありません。ですから箱のそばにいました。しかし、ここに人間の大きな罪と過ちがあります。つまり、神を自分が見ている、言い換えますと、神を自分が助けようとしているという思い上がりと不信仰の姿を見る思いです。

それは日本人が良くお墓に言って、墓前にお酒を供えたり、タバコを備えたりするようなものです。仏様もお酒を飲みたいだろう、タバコも吸いたいだろうと自分で勝手に想像してお参りするようなものです。ウザもそうでした、もし神様の箱が落ちそうになったら、ぱっと手を差し出して助けてあげようと考えていました。これが偶像礼拝の一つの形です。神様は私の助けが必要でしょうか?あの異教のタゴンの神殿でも、一人で偶像を切り倒しました。神の箱はたとえ敵の陣地に連れて行かれても、偶像の神殿の中に置かれても、ご自分で戦われ、勝利されるお方なのです。人間の合いの手を必要とされません。もし、万が一、箱が荷台からずり落ちても、そこには神様の深い御計画があるのです。神の箱が落ちると困るという、人間の不信仰を神様は嫌われ、裁かれたのでした。

マタイによる福音書16:21節〜23節までにも同じようなことが書かれています。主イエスが、これから私は十字架にかかって死ぬということを予告しました。すると、すぐそばにいたペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と神御自身をいさめ始めました。神様が地面におちるようなことがあってはなりません。しかも十字架刑で死んでしまうなんて、そんなことは絶対あってはなりませんと、真剣にイエス様を戒めたのです。どっちが神様か、どっちが主人か解かりません。これが偶像礼拝の姿です。自分の考え、自分の願望、自分のイメージを神に投影して押し付けてしまうことです。

ウザもそうでした。神の箱が地面に落ちること、神ご自身が砕かれることを、何とか阻止しようと考えたのでした。ここに、一見、神に仕えているようであっても、神を使っている人間の不信仰、偶像礼拝の姿があります。神様は、それを砕かれたのです。神御自身が戦われる、神様が進軍するのです。神様が勝利されるのです。だれも神の行くてを妨げることはできません。人間の目から見ては、おかしいと思うことでも神様の目には深い御計画があるのです。

4. 神の前で力をこめて歌おう

最期に、じゃあ、どうしたら神様の御心どおりに、神様を人々の心に担ぎ込むことができるのか考えて見たいと思います。もちろん、自分の罪をすべて告白して、悔い改めて自分自身を聖別することも大切です。罪を持ったままでは神様を持ち運ぶことはできません。

ダビデは13:3で、人々にこう言っています。「私たちの神の箱をここに移そうではないか。サウルの時代に私たちはこれをおろそかにした」と。私たちも今まで神様に対して何かおろそかにしていたことがなかったでしょうか。もし、今日何か神様に対しておろそかにしていたことがあったら、そのことを悔い改めましょう。もし、神様よりも大切な偶像を心にしまっていましたら、主の前に告白し悔い改めましょう。その偶像を砕いて下さるのは、イエス・キリストの十字架の御言葉です。イエス様はわたしたちの罪のために十字架にかかって、私たちの罪の身代わりとなって、御自分が砕かれて下さいました。そして、罪に勝利して甦って下さいました。

ダビデも王国の絶頂期に、天狗になっていた自分、神の戒めをないがしろにしていたことを悔い改めて、もう一度、神様の御言葉に従って、神の箱を都エルサレムに担ぎ上る決心をしました。そして、規定どおり、レビ人を招集して聖別させ、神の箱の前に進ませました。
歴代誌上15:13〜16に「『最初のときにはあなたたちがいなかったので、私たちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。』祭司とレビ人は、イスラエルの神、主の箱を運び上げるため自らを聖別した。主の言葉に従ってモーセが命じたように、レビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担いだ。ダビデはレビ人の長たちに命じて、詠唱者であるその兄弟たちを任務につかせ、琴、竪琴、シンバルなどの楽器を奏で、声を張り上げ、喜び祝うようにさせた。」とあります。

ダビデは前回も神のみ前で、力を込めて賛美しましたが(13:8)、今度はレビ人を立て、力を込めて主を賛美しました。神様を運ぶためには、私たちはまず、賛美の声をあげることが大切です。ただ、チラシを配布する、福音を宣べ伝えるのではなく、賛美の声が高く上がり、私たちが主に向って、感謝と賛美の声をあげるとき主は私たちと共に歩んで下さるのです。賛美の声を高く上げましょう。祈りの声をもっとあげましょう。感謝の声を力を込めて主に向って上げましょう。

同じ箇所を記したサムエル記下6:13〜15にはこうあります。「主の箱を担ぐものが六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。」ここでは、ダビデは力のかぎり歌っただけではなく、踊りも入りました。

来年度はこの教会案内の配布を通して、神様を人々の心に届けましょう。そのためにももっとこの礼拝堂を主への賛美と感謝、喜びで満たして行こうではありませんか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(?テサロニケ5:16〜18)「主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源です。」(ネヘミヤ8:10)             (岡田 久)

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