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神の福音に生きる者として (ローマ1:1~7)

メッセージ
20021/4/11
富里キリスト教会礼拝説教
「神の福音に生きる者として」
(ローマ書1:1〜7)

①ローマ書の背景
まずこのローマ書が書かれた背景というものについてみていきましょう。このローマの信徒への手紙というものは、文字通り当時のローマ教会の人たちに使徒パウロから送られた書簡でありますが、実は聖書の中でローマに教会が誕生した経緯や背景といったものは明確には書かれておりません。
直接、使徒がローマに行って伝道して教会ができたということではないようです。パウロ自身もこの手紙を書いたときは、ローマには行ったことがなかったようです。では、いったいどのようにしてローマ教会はできたのでしょうか。よく言われるのは、使徒言行録2章はペンテコステのシーンが描かれていますが、その時にローマからきたエルサレムの巡礼者がいたという記述があります。その中にユダヤ人もいれば異邦人の改宗者もいたことでしょう。その彼らがのちに起こる迫害の時、ローマまで散らされ、その中で自然発生的にできた教会がローマ教会だったのではないか。そのように言われております。
また、ローマ書はユダヤ人、異邦人その両方に向けて書かれているように受け取れるところから、その教会にはユダヤ人もいれば異邦人もいたことが窺えられます。最近の見解では、異邦人がやや多かったのではないかと言われています。しかしそこに至るには様々な経緯がありました。
このローマ書の最後は〜によろしくという挨拶がなされていきますがそこで、アキラとプリスキラといった夫婦の名前がでてきてます。この二人の名前は他の書でも出てきており、使徒言行録18章で彼らは当時のローマ皇帝、クラウディウス帝がユダヤ人をローマから追放するようにという命令が下ったためローマからコリントまできていたことが書かれています。そして、そこでパウロと出会い、彼らは精力的にパウロと宣教活動を行いました。とてもしっかりした信仰者だったようです。
このようにローマ教会には異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンがいたのですが、一時期ユダヤ人クリスチャンはローマから追放されていて異邦人のみで過ごさなければならない時期があったようです。この追放令はクラウディウス帝の死後、取り下げられユダヤ人クリスチャンは再びローマに帰ってきます。そして、その中で元々いた異邦人クリスチャンと帰ってきたユダヤ人クリスチャンの間に一つの緊張感のようなものが生まれた可能性があるという見解が最近研究ではなされています。まあ、簡単にいいますと教会の中でユダヤ人派、異邦人派といった派閥でぶつかり合っていた可能性があるということです。
そういった教会特有の事情に加え、ローマには世界のあらゆる思想と宗教が流れ込み、それらが複雑に絡み合い渦巻いていました。それらに正しく対処し、そのよう状況で健全なクリスチャンとして成長するため、また教会が歪みあわず一つにまとまっていくためにはキリストの福音を全体として体系的に教える必要があり、また、それができるのがパウロでありました。その自負と、神に召されたその役割と責任の自覚の中、パウロは筆を取り、行ったことのないこのローマ教会の人たちに向けて、やがて訪問するということを考慮しつつ丁寧に語っていきます。しかし、その慎重さゆえに、この書は非常に難解なものともなりました。
この手紙の中心テーマは一言で言うなら「神の義」です。ここには神の義なる本質と神との正しい関係と言う二重の意味があります。そして、この神の義が啓示されたものが神の福音であるとパウロは語ります。神の福音。これこそキリスト教の中心であり、根幹です。私たちは何を信じ、何に救われたのか。ともにみ言葉に聞き、確かめてまいりましょう。

②神の福音
ローマ1:1
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、」

私は、神の福音のために選びだされ、召されたキリストの僕であり使徒である。そのようにパウロは自負しております。パウロがこのように励ましの手紙を書くのも、時に厳しく非難するのも自分の思いからではありません。これは神から、私に与えられたミッションなのだ。パウロの行動の根拠や動機は常に神様にあります。そして、このローマ書の冒頭で彼は福音の根拠も神にあると語るのです。
 神の福音なのです。パウロの福音でもペテロの福音でもローマ人の福音でも、ユダヤ人の福音でもない。武井の福音でもない。これは、神の福音。人が考え出したことではないのだとパウロは言います。この神の福音は神ご自身が聖書の預言者を通して、つまり私たちにとっては旧約聖書をとおして啓示されていた約束の成就だというのです。私たちの信仰の確信の根拠であり土台はやはり、神の言葉である聖書でなくてはならないというメッセージをここから受け取ることができます。
 そして、パウロはこの神の福音とは御子に関するものであると語ります。そして、その御子は肉と霊という二つの性質があることを対比させながらパウロは語ります。まず肉においてはダビデの子孫であると言います。ここでいう肉とは人間としての歴史的誕生と由来を表しています。間違いなくイエス・キリストは歴史的事実として人間として存在し、生きていたのです。イエス・キリストとは概念や価値観、まして道徳などではありません。生きた、リアルな、まことの人なのです。
他方、パウロは肉に対比し、御子は聖なる霊でもあると言います。キリストの霊的本質です。神の御子である主イエスを歴史的一面から理解するだけでは不十分であり、霊的本質に立ち入る必要があります。イエスさまは神の大能の力、死への勝利の表れである復活という歴史的出来事を通して神の御子としての本質を明らかにされたのです。復活のイエスは、まことの神なのです。
肉なるイエスと霊なるイエス。まことの人でありまことの神でもある。このお方こそが私たちの救い主、主イエス・キリストです。神が人となってこの地に降りて歴史に介入され、その歴史に復活を通して神の栄光を、私たちの人類の罪への勝利を表してくださったのです。神のご身分でありながらただただ、私たちを愛するがゆえに、全てを捨てて私たちのしもべとなるべく人となってどこまでもへりくだられたお方。私たちが救い主だと信じている主イエス・キリストはこのようなお方なのです。そして、そのお方こそが神そのものなのです。その本質は愛です。神は愛なり、だからです。
福音とはまさにそのイエス・キリストそのものであります。キリストが主であり、目的であり、その命なのです。神の力そのものなのです。神の義を証しし、信じるすべてのものを救いに導かれます。イエス様そのものに福音がぎゅっと詰まっているのです。受肉、宣教、癒し、十字架、復活のイエス。このお方を信じて仰ぐ、信仰によって私たちは罪赦され、義と認められ、新しく生まれ変わり、キリストに似た者へときよめられていく、聖化されていくのです。これが聖書の語る救いであります。

③パウロの召しとローマ教会の召し
ローマ1:5
「わたしたちはこの方により、その御名を広めて全ての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」

パウロは、この福音そのものである復活の主イエスと出会いました。そして、その出会いによって律法主義を正義とし、その価値観に従わない者には暴力をもゆるされる。そのように信じていた全てが間違いであったことに気づき、心砕かれ、目から鱗が落ち、彼は180度変わりました。
復活の主と出会い、罪はゆるされ、彼は救いの恵みを受けたのです。しかし、それと同時に彼は使徒として召され、使命も与えられます。それは異邦人伝道、異邦人を信仰への従順へと導くというミッションでした。それゆえに彼は世界中を駆け回り、このローマ教会をはじめ多くの教会に手紙をしたためたのでした。
恵みを受けて、召され使命が与えられる。これはパウロだけの特別のことではありません。全てのクリスチャンに当てはまります。私たちは、神の恵みを受け、その神の栄光を表すために召されているのです。その使命の内容は人それぞれに違い、多様であるでしょうが、その目的、見上げているものは共に神の栄光ということで一致しているでしょう。やることは違っても見ているものは同じということです。
私と同じようにあなたがたも召されて、イエス・キリストのものとなっているのですよ。そのようにパウロはローマ教会だけでなく、私たちにも語りかけています。神様は、あなたは私のものだと愛し、めで、その主権によって選び出されたのです。イザヤ書43章にはこのような御言葉があります。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

神様は、あなたの人格そのものをじっと見つめ、そのあなたの名を愛を込めて呼び、選び出し、その罪を贖い、あなたは私のものであると夫が妻を抱きしめるように、親が子を抱きしめるようにして、その御手をもって包み込んでくださっています。
あなたは私のものだと言われたら、みなさんはどのように思いますか。いや私の人生は私のものだと主張しますか。しかし、主は、あなたは私のものといいながらも、私たちの救いのためにすべてを捧げてくださったお方なのです。この福音を受け止めたとき「私の人生は私のものではありません。私はあなたのものです。」と心が変えられていくのです。あなたは私のものという言葉に対し、はい、わたしはあなたのものです、といえる神様との関係。これこそ福音の恵みに生きるクリスチャンのまことに幸いな人生だと言えるのではないでしょうか。
この神の福音の恵みを受け取り、神に愛され、召されたものとして、その使命に人生をささげる。ここに恵みと平安があるのだ。そういった思いを込めてパウロはこの冒頭のあいさつを締めくくろうとします。

ローマ1:7
「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

この御言葉は時空を超えて、今の私たちへ「神に愛され、召されて聖なる者となった富里教会の人たち一同へ」と語りかけています。聖なる者と言われると、私なんて・・・と言いたくなる人もいるかもしれません。しかし聖書のいう聖なる者とは単純に聖人君子のような人のことを言っているのではありません。キリストのきよさにあずかり、その恵みによって聖とされているということなのです。クリスチャンはきよいのだと特別視して、誇ることが良いとは言えませんが私たちはキリストに属する聖徒であるのだという自覚をもつことはとても大切なことです。この罪に汚れた者を主イエスはその尊い血潮によってきよい者としてくださったのだということです。その恵みに応えて私は生きる。これが聖なる者として生きるということです。
パウロは最後に恵みと平和があなたがたにあるようにと締めくくります。この言い回しは当時の手紙の書き方の常套句ではありました。パウロの書き残した手紙では基本的に同じように締めくくられています。しかし、この恵みと平和という言葉をパウロは格別に大切な言葉として用いていました。恵みと平和。これこそ神の福音が私たちに与えるものです。神の恵みは私たちの心とこの世界に平和をもたらすものなのです。2021年度、このローマ書をとおして共に神の恵みと平和を受け取り、この神の福音に生きる者として共に歩んでまいりましょう。

武井誠司

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