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神の正しい裁き (ローマ2:1~16)

メッセージ
2021/5/9
富里キリスト教会礼拝説教
「神の正しい裁き」
(ローマ書2:1〜16)

①他人をさばく者とは
先週は、異邦人の罪の現実。異邦人とは律法に生きないユダヤ人以外のもの、つまり大きく見れば人類そのもの、私たち人類が弁解の余地がないほどに罪に囚われ、惨めな者となっていること、その姿はまさしく悲惨の二文字である。そういった中々、耳に痛く肩にも何かズシーンとのしかかるようなメッセージでありました。申し訳ございません。今しばらく、この罪シリーズが続きます。しかし、それは福音の救いの喜びに至る最初の坂道でございます。苦しみの坂道を超えた先には喜びの景色が広がっております。今少し、忍耐を持ってみ言葉をともに受け取っていきたいと願います。
先週の箇所でパウロは異邦人に言葉を向け、その彼らの罪を赤裸々に暴きました。ローマ教会とは異邦人とユダヤ人のクリスチャンが混在していた教会と言われています。まず、パウロは異邦人に対して語ったのでした。そして、その異邦人の罪を聞いて、うんうん、そうだそうだと小気味よく頷いていた人たちが当時いたことでしょう。その人たちとはユダヤ人のことです。俺たちはまあ、律法もよく知らないあいつらとは違うからな。そういって当時のユダヤ人は優越感を感じていたことでしょう。
しかし、パウロは異邦人の罪を明らかにした、その返す刀で今度はそのユダヤ人たちの罪を明らかにし、ぶった切っていきます。いや、お前たちの方が実はもっと、たちが悪いよ、と。

ローマ2:1
「だから、全て人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」

あなたは、他人をさばきながら自分を罪に定めている。人を裁くことすら罪であるのに、さらに人を裁くあなたもそんなに変わらないよ。似たような者だよ。同じ穴のムジナだよ。パウロはユダヤ人に向けてそのように語ります。福音の恵みを受け取るに至るには自分自身の罪の認識というものが不可欠です。当時のユダヤ人は、自分たちのことを選民イスラエル。自分たちは神様に選ばれた特権階級なのだ。そういった間違った認識を持っていました。確かにイスラエルは神様に選ばれた民ですが、それは神の栄光を表すために選ばれただけであって、彼らだけがどこか特別な上級民族ということではありません。そういった彼らの目の鱗を取る必要がありました。そのため、2章からはユダヤ人の偽善という罪にむけたメッセージが語られていきます。異邦人の罪を示し、ユダヤ人の罪を示し、どちらも罪人、義人などこの世にはいないのだと絶望を語った上でパウロは希望の福音を語る、そういうパウロの狙いがこのローマ書の前半では明らかにされています。
しかし、あまりにもストレートなメッセージであるがゆえか、16節まではユダヤ人という固有名詞はでてきません。徐々にユダヤ人に対して気づかそうとするパウロの牧会的配慮でもあるでしょうが、それゆえここで語られる、あなたは、あなたはと投げかけてくる二人称単数形の呼びかけ。まさしく、このあなたとは私自身のこと、全ての者に突きつけられ、自分自身に突きつけられた普遍的なメッセージがここにはあります。
つまり、当時はユダヤ人の選民意識に問いかけたものでありながら、時空を超えてみ言葉は今、私たちクリスチャンが未信者の方に対してどこか優越意識をもっていないか。そのようにも問いかけてくるのです。このユダヤ人の意識というものは実はすべての人間が持ちうるものなのです。
他人を裁く者は2重の罪を持ちます。それは、さばくことそのものと自分が同じことをやっているのに気づいていないということです。人は本当に他人の目のおが屑は見えるのに自分の目に刺さっている丸太には気づかないのです。イエス様はそのような高慢なパリサイ人に対して非常に厳しく批判しました。裁く者とは、自分自身の罪に対する悔い改めがないのです。
クリスチャンになると罪に対して敏感になります。しかしまことのクリスチャンとは、他人の罪ではなく自分の罪に対して敏感になるのです。悲しいかな、その逆というパターンがけっこうあるように思います。私たちは本当に人の悪いところばっかり目についてしまうのです。自分の罪に対してはしっかりと見つめ、他者に対してはその人の恵みを見ていきたいものです。罪を見過ごし、素通りしろというのではありません。伝えることもまた愛です。しかし、さばきではなく愛の訓戒であれば、自ずと言い方や、その人に対しての慈しみや憐れみというものが伴ってくることでしょう。
そもそも神のさばきである十字架とは罪に対する神の怒り、その怒りをイエス様が私たちの代わりに一身にお受けになられたということです。この真理を私たちは信じているだけで罪がゆるされているのです。自分は何にも偉くないのです。そして、十字架は神の怒りだけなく、その怒りを人に下したくないという私たちへの愛、憐れみが表れているものです。この神の憐れみを受けて私たちは心打たれ、悔い改めることができたのです。この憐れみがあなたを悔い改めに導いたにも関わらず、あなたは憐れみを受けた者として人を裁くのですか?聖書はそのように私たちに問いかけてきます。

②神の怒りと忍耐
ローマ2:4−5
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」

高慢にも他者を裁く。そういった事柄に対して、聖書は非常に厳しくNoと語ります。それは、人を見下し、裁く者は神の愛、寛容、忍耐を忘れてしまっているからです。そのようなものに対して、神は実に怒りをためているとパウロは語ります。クリスチャンと自認しながら人の罪を裁く者。それは異邦人を見下し、自分たちは特別と高慢に振る舞うユダヤ人と何ら変わりありません。それは、他者をさばき自分を神とする偶像礼拝なのです。他者を裁く人はそのことに気づいていません。
福音を笑い、受け入れないユダヤ人。これは自分の罪を認めない者なのです。彼らは自らの罪を認めないがゆえに人を裁くのです。自らの罪を認めた者は他者の罪を責めたりはしなくなります。なぜなら彼らは裁いた言葉がブーメランのように自分に返ってくることをよくわかっているからです。私たちはどうでしょうか。各々、自らの心を探ってみましょう。
このように、自らの罪を認めず他者を裁く者は、いつか最後の審判にて神様によって裁かれるとパウロは語ります。いつかは、そのときがくるのです。しかし、いまだきていません。終末とはフイクションなのか。そうではありません。神様は、私たちを愛し、さばきたくないがゆえにただただ忍耐を持ってその日を伸ばし続けてくださっているのです。主はそれほどまでに憐れみ深いお方なのです。

Ⅱペテロ3:9
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

神様は罪に対して怒られる方ですが、それ以上に愛と寛容と忍耐に満ちたお方なのです。時に旧約の神は怖い、厳しい、そういった言葉を聞くことがあります。確かにそこには、神の裁き、懲らしめというものが描かれています。しかしそれ以上に、旧約聖書にはまさしく愛と忍耐の神の姿が色濃く描かれております。エジプトの奴隷であったイスラエルが主の憐れみによって救いだされたにも関わらず、彼らは何度も神に背を向けて偶像礼拝に走ります。
しかし神様はその背信のイスラエルに向かって決してあきらめず、何度も預言者を送って帰ってこい、立ち返れと叫び続けられます。しかし、結局イスラエルは立ち返ることができず、神様はバビロン捕囚というさばきをもって国を滅ぼさざるを得ませんでした。しかし、神様はそのどん底の時に回復の預言も語られました。捕囚を受け、悲しみの淵にあるイスラエルの民に神様は新しい契約をし、罪をゆるすと約束されるのです。その約束こそがイエス様そのものです。旧約聖書の預言書には例外なく裁きと回復、その両面が必ず語られています。神の懲らしめは私たちを救いに導こうとするものでもあるのです。
罪への怒り、人への愛、どちらも神様のご性質であり、その両面が完全に交わり、表れたものが主イエスの十字架であります。そしてその十字架の愛と義が私たちの心を悔い改めへと導くのです。
主は憐れみ深く、情深い。怒るのに遅く、恵とまことに富み、罪を赦す。このように主はご自身のご性質を出エジプト記の中で自己紹介されました。旧約の神は怖いと言いますが、新約も旧約も同じただひとつの生けるまことの神様です。主は厳しいお方でもありますが、それ以上に主は情け深く憐れみ深いお方なのです。神様は私たちの罪に怒りながらも我慢して裁かないようにと忍耐されているのです。一人でも救われてほしいからです。それゆえにまだ終末の時は引き延ばされ続けているのです。さらには私たちが裁かれないためにご自身が人となって十字架を持って代わりに裁かれました。ここまで神様はされているのです。ここまで神様は、私たちのことを愛されているのです。

③神は分け隔てしない
ローマ2:11
「神は人を分け隔てなさいません。」

分け隔てしない。新改訳では「えこひいきしない。」と訳されております。今日の箇所はパウロが異邦人に対して優越感を感じているユダヤ人に向けて、裁かれる者でありながら人を裁くという偽善の罪を突きつける。そういった箇所です。神の裁きの原則は、すべての者に対して平等にあてはまる、えこひいきはないのだとパウロは語ります。
ユダヤ人は神に選ばれた選民イスラエル。神の律法を知り、聞いている私たちは救われる。そんなことはないのです。他方、異邦人は律法を知らずに罪を犯したのだから仕方ないじゃないか。裁かれないでしょ。それもまた、ないのです。法律と同じです。たとえその法律を知らなくても、やってしまったら法の下において裁かれるのは自明の理であります。神の裁きは公正かつ平等になされるのです。
ユダヤ人に対してパウロはこのように言います。律法は知っているだけでも、聞いているだけでもだめ、行って初めて意味があるのだ、と。これは行いこそが救いの条件だということではありません。まやかしの信仰ではだめだということです。まことの信仰には必ず行動が伴ってくるものです。私たちにおいても同じことです。イエス様を知っていても、み言葉を聞いていても、それが実際に実となって表れていなければ、本当に信じているといえるのだろうか。他人を裁くためではなく、自分の信仰を吟味するための試金石として、信仰が行いとなってあらわれているのかどうか確かめることはとても大切なことでしょう。
しかし、そうやって自己吟味していくとき、あることに気づかされるかもしれません。それは、多少なりともできていたとしても、自分の行いが神のみ前で正しいとされるほどではないということです。信仰によって確かに行いは生まれますが、自分の行いによって神のみ前において義とはされないのです。律法は十戒をはじめ、様々な戒めがありますが、イエス様はその律法の究極は、神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ、という言葉に尽きると語られました。
さあ、みなさん。胸を張って私は神も人も愛していると言えますか。確かに多少はできているでしょう。しかし、愛に上限はありません。愛そうとすればするほど、私たちは自分の中にある愛がいかにちっぽけなものであるのかということを痛感するでしょう。私たちは神様が私たちを愛するかのように隣人を愛することができないのです。
律法を私たちは完全に実行することはできないのです。13節でパウロは律法を実行するものが義とされると語りますが、それは実際にはそんな人間などいないということをユダヤ人に伝えるための布石であるととらえて良いでしょう。そして、3章に入り「義人はいない。」と続いていきます。パウロの周到な言い回しがここにあります。
また、異邦人にもパウロは語ります。あなたたちは律法を知らないから関係ないということでもない、と。実はあなたたちは律法を知らないようで、知っているのだ、と。それは良心というものが異邦人に与えられているからだとパウロは言います。これは、私たちも同じことですね。私たち人間は神様によって、神様のかたちに似せて造られた存在です。罪によってその神のかたちは著しく損傷しつつも、私たちの中に神のかたちは残っており、神のみ心を求める心、良心というものはすべての人間にちゃんと備えられているのです。
何が良くて何が悪いのかということを人間は根源的な部分においては誰に教えられるでもなくなんとなくわかっているものなのです。たとえば、殺人は罪であると律法を知らなくても大半の人間がその行動に抵抗と嫌悪感を覚えるものです。教えなくても子供でもなんとなくそれはいけないことだということはわかっているのです。私は聖書も読んだことがなかったし誰も教えてくれなかった。教えてくれなかった神様の方が悪いといういいわけはできないのです。厳しいようですが罪の責任は神にではなく、その本人にあるのです。
ユダヤ人であろうが、異邦人だろうが関係ない。罪を犯すものはすべて神のみ前において裁かれるのだ。パウロははっきりとすべての者に対して人間の罪を明らかにし、神の裁きの原則を語りました。・・・・身もふたもないですね。これでは絶望です。袋小路です。しかし、これはキリストがおられなければという前提の話です。イエス様がいなければこれほど私たちは絶望的なのだということです。
しかし、主イエスは来られました。確かに来られたのです。主イエスの十字架は、私の罪の怒りに対する神の裁きの表れです。その盃をイエス様はすべて私たちのために愛を持って飲み干してくださったのです。福音とは主イエスが裁き主でありながらも甘んじて裁かれたことをも意味するのです。この十字架にかかる主イエスを見た時、私たちはもはや他人の罪を裁く者ではなく自分の罪を悔い改める者となるのです。

マタイ7:1
「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためです。」

裁かれる理由もないのにあえて私たちのために裁かれたお方、主イエスの言葉です。このお方の流された血潮によって私たちはもはや裁かれません。そのような者同士で裁き合う姿を主が見られた時、とても悲しまれることでしょう。赦免された者として、赦し合い、認め合い、互いに敬意をもって私たちは、裁き合うのではなく愛し合おうではありませんか。赦し、愛し合う姿こそ主は私たちに望まれているのですから。

武井誠司

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