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神の接ぎ木 (ローマ11:11~24)

メッセージ

014年5月4日富里キリスト教会

「神の接ぎ木」
(ローマ書11:11~24)

1.神の接ぎ木の目的

この園芸の栽培技術を例にとって、パウロは古いイスラエルであるユダヤ人と新しい異邦人教会の関係を説明しております。17節から読んでみます。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

野生のオリーブと言うのは、異邦人クリスチャンのことで、この場合はローマ教会のクリスチャンのことです。根と言うのは、神に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人のことです。切り取られた枝と言うのは、イエス・キリストを信じなかったユダヤ人たちのことで、十字架につけた祭司長やパリサイ人、そしてこの時もパウロの命を狙っているユダヤ人たちのことです。

しかしパウロは、枝を切り取られたのは、彼らが悪かったから、完全に神に背いて捨てられてしまったからだとは言っていません。そうではないといっています。11節のところで、「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。」と言っています。ここでパウロは「つまずくこと」と「倒れること」を区別しています。つまずくということは、歩いていて何かに引っ掛かっても「おっとっと。」といって体のバランスを崩してしまうことです。信仰に入ったばかりの人が良く、献金や奉仕につまずくということがあります。でもその人がそれで完全に信仰を失って、倒れてしまったわけではありません。また、信仰を持って立ち直り成長して行くこともあります。そのまま倒れてしまうということはありません。

倒れるとはバタンと完全に地面に落ちてしまうことです。つまりパウロは、ユダヤ人が主を拒み福音を拒んでいるのは、それはつまずいたからであって、完全に拒否してしまったからではないのであって、むしろ彼らの的外れの熱心さと無知がそうさせているのだといっています。どこまでもユダヤ人を弁護、擁護しています。いやそれどころか、世界の救いは、最終的にはこのつまずいたユダヤ人も悔い改めて救いに入ることであり、神の救いの目標はそこまでを視野に入れているのだといっています。ユダヤ人のつまずきは聖なるつまずき、神から与えられたつまずきだとさえ言っているような気がします。

ユダヤ人のつまずきの四つの利点さえあげています。●ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされた。●ユダヤ人の罪が世の富となった。●ユダヤ人の失敗が異邦人の富となった。(11:11~12)さらに、●ユダヤ人が捨てられたことが、世界の和解になった。(11:15)と言っています。そして最終的には、彼らユダヤ人が異邦人の救いに妬みを起こし、自分たちも奮起して神に立ち帰って救いに入るならば、どんなにかすばらしいことだろう。彼らが神に受け入れられることこそ、死人が甦ることではないだろうかと言っています。こうして、最終的に神の救いが完成するという青写真を描いていましたし、まさにこれは神様の救いの青写真でもあったわけです。だから、自分は同胞から命を狙われようとも、まず異邦人に福音を宣べ伝えて行く、そのことが最終的には、同胞ユダヤ人の救いにもつながるのだと確信していたのです。

2.神が枝を切った理由

次になぜ神様が、枝を切り取ったかということです。それははっきり申しまして、ユダヤ人が切り取られなければ、野生のオリーブである異邦人が救いの台木につながるチャンスがなかったからだというのです。神は私たちのような、神に見捨てられた異邦人をも哀れに思い、罪の中にいる私たちをも憐れんで、そのためにご自分の愛された目に入れても痛くないほどの宝の民を、あえて切り取られたのです。彼らを切り取った後に、野生の木であった私たちを神の救いの台木に接ぎ木するためです。自分の愛する民をも切り取って、神御自身が血を流し、痛みを覚えながらも、神とは無縁の者であった私たちを、神の救いの木につないでくださったのです。これが、神が木を切り取った理由です。

ですから、あなたがたは、決して自分を誇ったり、逆にユダヤ人を見下げたりしてはならないと言うのです。18節にあります。「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはいけません。むしろ恐れなさい。」(11:18~20)

ですから、決して自分を誇ることなく、思い上がることなく、神の慈しみと厳しさを思いなさいといっています。そしてあなたがた、この神の慈しみによって救われ接ぎ木をされたのだから、決しておごり高ぶることなく、へりくだって信仰を持って畏れおののいて神に繋がっていなさいと言っています。もし私たちが、この神の慈愛と峻厳を忘れるようなことがあるならば、神は容赦なく今度は、私たちをも切り落とされるのです。(11:20~22)

3.神は再び接ぎ木できる

23節からを読んでみましょう。「彼ら(ユダヤ人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、もとからこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(11:23~24)

いったん切り捨てられて、地面に落とされてしまった枝も、不信仰にとどまらないならば、即ち罪を悔いて神の憐れにすがって立ち帰るならば、いつでももう一度接ぎ木をされるというのです。いつまで、切り捨てられたままではないのです。しかも、この切られた枝は、もともと栽培されていた木の枝ですから、私たち野性の枝よりももっと簡単に元木につくはずだといっています。もともと同じ性質、同じDNAをもっている枝ですから簡単につくはずです。

ですから、私たちクリスチャンは、決してユダヤ人を軽視したり軽蔑したりしてはならないし、むしろ神の選ばれた民としての彼らの霊的な祝福を尊敬するする必要があるのではないでしょうか。ユダヤ人こそ間違いなく神に選ばれた信仰の民であり神の宝の民なのです。そして、わたしたちはその恩恵にあずかっているのです。同じ霊のイスラエルなのです。そして彼らユダヤ人が、一日も早く悔い改めに至るように、そして救いが完成するように、私たちもパウロと共に伝道に励む者となりたいと願っています。

また同じように、わたしはこの聖書箇所から、今、教会を離れている人々の救いについても教えられたような気がします。今、教会から離れている多くの他行会員の方々も、何かにつまずいて不信仰に陥り、教会を離れているかもしれません。救いの枝から切り離されている状態といってもいいでしょう。でもやがてまた、戻して悔い改めて主のもとに立ち帰ってくることを願っています。神様には、切られた枝を再びつなぎ直す力があります。そしてまた、その切られた枝は、元の台木につきやすいといっています。

自分は、この神の救いの木から切り取られてしまった人間ではないだろうかと思っておられる方はいませんか。人生に挫折し、失敗し、どうしようもなくなって見捨てられてしまったと感じている人はいないでしょうか。でも、神様には、その枝を再びつなぐ力があるのです。もう一度、その倒れたところから振り返って、主に顔を向ける時、必ずもう一度繋ぎあわせてくださいます。「わたしはぶどう木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:5)とおっしゃって下さっておられるのです。しかもその折られた枝は、野生の新しいものよりも付きやすいのだとおっしゃっておられます。富里教会が、この北総の地に福音の種を蒔いて多くの実を実らせてゆくならば、きっとあちこちに散らばっていたオリーブの枝も、また元木であるイエス・キリストのもとへと立ち帰って来るのではないでしょうか。私たちも勇気を出して立ち上がりましょう。見捨てられていた野生のオリーブである私たちをも、尊い神の救いの木に接ぎ木して下さった神様の慈しみと憐れみを忘れることなく、へりくだって主の福音を証して行きたいと願っております。             (岡田 久)

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