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神の憐みによる選び (ローマ9:1~18)

メッセージ
2021/10/10
富里キリスト教会礼拝説教
「神の憐れみによる選び」
(ローマ書9:1〜18)

①同胞に対する心の痛み
私たちは、今年度、ローマ書を通して神様の恵みをいただき続けていますが、前回でローマ書全16章のうち、8章、つまり半分までが読み終わりました。そして、その真ん中の8章は実際にローマ書における中心メッセージであり、ピークであり、クライマックスでした。その中心メッセージとはなにかと言いますと神の救いの確かさということであり、神の愛による私たちの勝利宣言でした。何者をも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのだ。パウロはそう言い切って圧倒的な勝利宣言をし、救いの喜びの歌を高らかに歌ったのでした。
そして手紙は今日の箇所である9章へと入っていきます。しかし、ここからパウロのテンションはそれまでのクライマックスハイテンションがうそのように、ガラッと変わります。

ローマ9:2
「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」

深い悲しみ、絶え間ない痛み。さきほどまで勝利宣言をしていたパウロがここでいきなり悲痛な声で泣き叫ぶのです。この感情の落差に戸惑いを覚える人もいるかもしれません。私も嬉しいのか悲しいのかどっちやねん、とツッコミを入れたくなってしまいます。このパウロの二つの感情は一見、矛盾のようにみえるかもしれません。しかし決してそうではありません。
なぜならこのパウロの痛みというものは、いまだ救われていない同胞、家族に対する心の痛みの叫びだからです。救いの喜びというものは高まれば高まるほど、逆に未だ、救われていないものの苦しみに、心の痛みを覚えるのです。かつて、自分がその苦しみの中にいたからこその痛みです。この喜びと苦しみは決して矛盾しません。むしろクリスチャンとして当然の感情といえるでしょう。
私たちは神の救いの恵み、つまり神の愛を受け取ったとき、決してその恵みの喜びを独り占めして満足して終わったりはしません。自分だけ救われて、ああ、よかったよかった、めでたしめでたし。で、終わりはしないのです。そうではなく、だからこそ私たちはこの喜びを伝えたい。そのように思うのです。喜びを分かち合いたくなるのです。私はこのような思いを、とってもスケールが小さくなってしまって申し訳ありませんが、美味いラーメン屋を見つけたら、大好きな友達に伝えて一緒に食べに行くでしょ。と例えています。宣教という働きは主イエスから私たちすべてのクリスチャンに与えられた命令でもありますが、私たちはそのキリストの命令に対する従順ゆえに宣べ伝えつつも、そこには何より自分自身がその喜びを知ってほしい、そして一緒に喜びたいという主体的な思いと願いがあります。
他方、未だ救われていない人に対する切実な悲しみというものもあります。私の大切な人が今、まさに罪に苦しみ、そして死に向かっていっている。この切実さは美味しいラーメン屋なんてレベルの話ではないでしょう。心が痛むのです。そこには決して自分は真理を知り、あの人達は何にもわかっていない愚か者なのだといった優越感はありません。
救われていることの喜び、救われていない者に対しての悲しみ。クリスチャンはこの2つの思いを抱えて生きています。この喜びと悲しみをもったパウロは矛盾どころかむしろ健全であるといえるでしょう。そしてこのパウロの思いは、自分が神から見捨てられてもいいから同胞が救われてほしいとまでいうほどのものでした。罪あるイスラエルの民をとりなすモーセの姿を彷彿とします。私たちは同胞、家族に対してここまでの情熱と愛を持っているでしょうか。恥ずかしながら、このパウロを前にした時、自分の思いがいかにちっぽけなものかに気づかされます。本当にパウロのこの姿に見習いたいと願います。
パウロはなぜ、ここまでのことを言ったのでしょうか。それは彼の同胞であるイスラエルの民とはアブラハムからずっと続く神に選ばれた約束の民だったからです。パウロ自身もその一人であり、なにより彼はイスラエルの民であることになによりも誇りと愛着をもっていました。
イスラエルの民は地上のすべての民族が祝福を受けるようになるために祭司の王国として神に選ばれ、召された民でした。このイスラエルには神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束も与えられていると言い、イスラエルこそ神の祝福を受け継ぐ契約の民であるとパウロは強調します。しかし、これは神が人類の救いのためにイスラエルを用いたのですが、これをイスラエルは、自分たちは特別であると勘違いし、高慢になり異邦人を見下しました。そして律法を追い求め続け、イエスを拒み、その高慢ゆえに十字架につけてしまったのです。律法への固執とプライドゆえに彼らはキリストにつまづいたのです。この現状にパウロは心を痛めているのでした。

②約束の民イスラエル
この今のイスラエルの状態をみて、神様はイスラエルを見捨てたのだろうか?神様の言葉、約束はキャンセルされたのだろうか?そういう疑問がでてくるかもしれません。しかし、決してそうではありません。パウロは神の言葉は決して効力を失ったわけではないと言います。神様は必ず約束を守られる、誠実な愛なるお方です。旧約聖書を見ればよくわかりますが、どこまでも不従順なイスラエルを神様は最後まで見捨てませんでした。その中で約束されたのがイエス・キリストです。イスラエルの救いの約束のメシアがイエス様なのです。イエス様は私たち人類すべてのためにこの地に来られましたが、それはイスラエルの救世主という意味合いもあるのです。
イエス・キリストの十字架と復活は神のアブラハムの時からなされた約束の成就です。すでにこの約束を実現された主が、イスラエルを見捨てることはありえません。神の選びは確かであり、神の言葉に偽りはないのです。民数記23:19にはこのようなみことばがあります。

「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを成就されないことがあろうか。」

神は言われたことを必ずなされ、必ず約束を守られます。救い出すと選んだイスラエルを最終的には必ず救い出されるのです。ただそれは自動的にイスラエル民族だったら救われるということではありません。逆にイスラエル民族だから必ずキリストにつまづくということでもありません。使徒をはじめ多くのユダヤ人がキリストへの信仰ゆえに救いの恵みにあずかっているのです。信仰を持ったものこそが真に霊的なイスラエルとして選ばれた者なのです。いつか、彼らのように多くのイスラエルの民がイエス・キリストをまことのメシアだと信じる時がくるということです。
パウロは常に本質を見ていきます。そしてその本質はみことばを根拠として語られていきます。神の救いの計画はアブラハムとの約束から始まります。しかし、その約束はアブラハムの子供全員ではなくイサクによってのみ、なされました。神との約束の中で与えられた子供はイサクだけだったからです。神の約束は選びによってなされていきます。ヤコブとエサウの場合においても、なぜか彼らが生まれる前から神様はヤコブを選ぶと約束されました。神の救いの計画はアブラハム、イサク、ヤコブを選ぶと言葉をもって約束された中で起こされていったのです。理由は私たちにはわかりません。ただ、神の主権、神の自由な選びによってなされていったのです。逆にいえばイサクやヤコブが優れ、エサウやイシュマエルが劣っているということでもありません。その選びの基準は決して人間的理由にはあてはまりません。
ここだけ聞くと、どこか一方的なように聞こえ、納得できない方もいるかもしれません。しかし、神は愛なる方であり、どこまでも誠実なお方です。神の選びは必ず私たちにとって最善の選択なのです。また、選んでいない方を愛していないということでも決してありません。
天の父なる神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくないものにも雨を降らし、すべての生きとし生けるものを心から慈しまれてもいます。エサウは、ヤコブとの仲直りのシーンで「わたしのところには何でも十分ある。」と言いました。アブラハムの子であるイシュマエルについても、「必ずあの子を大きな国民とする」と泣き叫ぶ母親ハガルに神様は約束されました。エサウを憎んだといいながらも、決して選ばなかった者を冷たく忌み嫌い、見捨てたわけではなく、そこにも慈しみと憐れみがありました。この表現はヤコブへの愛の強調ゆえの表現であると思います。
ただ、神の救いの計画においてはイサク、ヤコブを主権によって選ばれ、そこからイスラエルが生まれ、民族となり、王国となりダビデが生まれ、イエス・キリストへと続いていったのです。そしてそのイエス・キリストはイスラエル民族だけでなく全ての者を救い出すために十字架にかかり、復活されたのです。この真理を信じる信仰が与えられている者が霊的な意味においてのまことのイスラエルなのです。救いは血統でも能力でもなく、ただ神の憐れみと慈しみの選びによっておこされるのです。

③神の選び
神様は、このようにアブラハム、イサク、ヤコブを選び、救いの計画をなされていきました。そして、これは私たちの救いも神の主権による選びによってなされたことを意味します。このことに対して私たちはどのように思うでしょうか。神様、ちょっと不公平じゃない?みんな救ったらいいのに。ケチだ!!あの人はいい人なんだから救われるべきだ!!なぜ?神様、なぜですか?
このような疑問が出てくるのは人間ならば当然かもしれません。なぜ、救われるのか?どういう人が救われるのか?私たちは頭で理解し、納得したいところがあるのでしょう。しかし、厳しい言い方かもしれませんが、そこには人間の傲慢さがあるのではないかとも思うのです。どこかで人の意志や努力で救いは起こされるのだと思っているがゆえのモヤモヤなのです。
なぜ、選ばれ救われたのか。それは神の主権によってです。それ以上でもそれ以下でもありません。理由はわかりません。基準もわかりません。少なくとも人間側がどうこうだからというものではありません。私たちには、わかっていることよりも実はわからないことのほうが圧倒的に多いのです。そこはもう神様の領域なのです。その領域の事柄についてはわかりえないのが人間なのだとわきまえることが、神の御前における被造物たる人間の謙遜さであるといえるでしょう。
ただ、間違いなくわかっていることが一つあります。それは、私が救われたのは自分の意志でも努力でもなくただ神の憐れみと慈しみによってなされたのだということです。選びの教理というものは、他人に向けた時、とってもモヤモヤします。パウロはこの後ローマ書10章で、「だれが天に上るか、誰が底なしの淵に下るか」などとは言ってはならないと語ります。あの人が選ばれた、選ばれていないなどということは決して言ってはならないことです。
しかし、この選びの教理を自分自身に向けた時、この神の主権によって私は選ばれたのだという大きな慰めと平安が与えられます。神ご自身が選ばれた、だからこそこの救いは確かなものなのだ、となるのです。私がキリスト教を選んだのだと思えば、私なんかはこの信仰があっというまになくなってしまうのではないかと不安でたまらなくなってしまいます。流されやすい私からすれば自分の意志など全く信頼できません。神の主権による選びの事実とは、救われたこの私の信仰を揺るがないものとし、どんなに小さな信仰であろうとも大丈夫なのだと大きく励ましてくれるものなのです。
選びの教理について一つたとえ話がありますが、この話はとてもわかりやすいなと私自身は思っています。それはどのようなものかと言いますと、目の前に天国への入り口、ゲートがあるのですが、そのゲートの正面には「どなたでもご自由にお入りください。」と書いてあります。そして、実際にそのゲートをくぐり振り返ってみたら、そのゲートの裏側には「あなたは最初から私に選ばれていました。」と書いてあったという話です。言葉だけ捉えれば矛盾かもしれませんが、愛なる神様の御性質を踏まえれば私には、このたとえがとてもしっくりくるのです。誰が選ばれるのかといくことを、ああだこうだいうのではなく、私自身が神様に選ばれたのだと、その救いの確かな結果を喜ぶことが、一番神様が望まれていることであり、それは聖書全般から語られている私たちへの大切なメッセージだと思います。
私たちは神様のご計画によって選ばれた者です。それは慈しみと憐れみのゆえであり、また、それは神様が救いの完成のために私たちを用いるためでもあります。神の救いの計画は人知をはるかに超えた深いものであります。今、現在もイスラエルの民の多くは心を頑なにし、キリストにつまずいています。しかし、これはまず異邦人が救われるための神のご計画ゆえのことだったと聖書は語っています。そして、イスラエルも必ず救うのだとあります。神は必ず約束を守られるお方です。
ヨハネ黙示録21章では、この世の最後には天上のエルサレムがこの地に降りてくると語られていますがその都の城門にはイスラエルの12部族とキリストの12使徒の名前の両方が刻まれているとあります。救いの完成の時には必ず異邦の民とイスラエルの民が共に救われることが約束されているのです。それがどのようになされるのかは私たちには、全くもって予想もつかない見えない計画でしょう。しかしゴールに用意されているものは間違いなく最善なのです。
私たちの周り、同胞、家族にもイスラエルのように頑なで、無理かなぁと思う人がいるかもしれません。しかし、今は頑なでもその人はすでに神様から選ばれている人かもしれません。自分も振り返ってみて、頑なだった時はなかったでしょうか。その自分が今、この教会の群れにとどまりキリストを礼拝している。これはもう、神の選びであったとしか言いようがないでしょう。万事を益とされる神の最善のご計画を信じて、私たちはたとえ目の前の者が頑なであろうと、その者のために祈り、心を砕いていきたいと願います。救いは神の主権によって起こされます。しかし、神様は人を用いて人を救いへと導かれるからです。すでに救われた私たちはそのためにも選ばれたとのだということを覚え、神の確かな救いに身を委ねながら、喜びをもって福音を述べ続けていきたいと願います。

武井誠司

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