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神の忍耐 (ルカ13:1~9)

メッセージ

2012年5月20日富里キリスト教会
「神の忍耐」
(ルカによる福音書13:1~9)

1.悔い改めることの大切さ

聖書の中にも第三者的な見方で、事故を理解し、イエス様に訴えて、どうしてこんな悲惨なことが起こったのかその理由を問いただした人々がいました。
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」(ルカ13:1~5)

ここに「何人かの人が来て」とあります。いわゆる名前のない一般大衆です。いつも事件をマスコミやインターネットのように、伝えるだけで、自分とどうかかわっているのかということを見ないで、論評したがる人たちです。そして、なんでそういう不条理がこの世にあるのか、神がいるならどう答えるのかと、暗に、イエス様に対する批判をしようとしているわけです。こんな悲惨なことが起こったのに神は黙っているのか、神はこんなにも不条理な方なのかと反論しているのです。
 
それに対して主は、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:2~3)とおっしゃいました。

つまり私たちは、他人の不幸を見て、第三者的に「あの人たちは運が悪かった、もしかしたら悪いことをして神の罰が当たったのかもしれない。自分は大丈夫だ。」と考えてしまうことがあります。イエス様は、そうではない、そういう突然の不幸や事故は、あなたに対する警告だということを教えました。誰でも、自分の罪を悔い改めなければ、あのように滅ぼされてしまうのですと答えられました。他人事ではないというのです。

3.三年間待った

「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」』」(ルカ13:6~9)

このたとえ話は、大切な意味を含んでいます。「ある人」と言うのが神様です。「いちじくの木」というのが私たちです。「園丁」がイエス様です。「ぶどう園」は教会とみてもいいのではないでしょうか。ふつう、日本でもいちじくの苗木を植えると、三年目あたりで実がつきます。ところがこのぶどう園に植えたいちじくは、三年経っても実がつきませんでした。

「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と主人は言いました。実のつかないいちじくに対する持ち主のいら立ちが、手に取るように分かります。ここで、主人は、「三年間待った」と言っています。さて、この三年間の期限付きで実をつける、すなわち結果を出すことを求められたらどうでしょうか。皆さんも、バプテスマを受けてから、三年後には新しい魂を一人導かなければならない、と言われたらバプテスマを受けるのをためらうことはないでしょうか。

実をつけないで、三年間も肥沃なぶどう園に植えられていて、土地を無駄にふさいでいたのは、あの人ではなく、あなたなのですよ。切り倒されるべきはあなたで、あの不幸にあった人たちではないのですよと、イエス様は問うているのです。病気、交通事故などの災難に遭う、裁かれる、切り倒されるというのは、相手ではなく自分だということに気がつきなさいとおっしゃっているのです。

4.切り倒されるのは私

ある教会に一人の御婦人がおりました。この方は、その教会の創設時からの方で、40年間も教会を支え、役員をしたり婦人会長さんをしたり、地域では青少年の非行防止のためのボランテイア活動もされておりました。その体験談をつづった本も出版しておられました。ある時、教会で個人伝道の研修会がありまして、福音の伝え方、十字架の救いなどを手を使って伝達する訓練をしておりました。

そうしましたら、その方曰く、「わたしは40年間も教会で奉仕してきましたが、今日初めて、このイエス様の十字架の救いの意味が解りました。」と言いました。そして、「でも、わたしは今までクリスチャンとして40年生きていながら、一度も一人の魂を救いに導くことができませんでした。なんと自分は実をつけることのできない、クリスチャンだったのだろうか。実をつけないで、切り倒されなければならないいちじくの木は、わたしのことを言っているのだということが、今初めて解りました。」とおっしゃったのです。三年どころか、40年間待っても実をつけることができなかった。このままでは、天国に行ってもイエス様に申し開きができませんと、謙虚におっしゃっておられたのを思い出します。

実をつけるということの意味は、二つあります。一つは内面的な心の内側の実のことを指しています。内側の実は、「信仰、希望、愛」(Ⅰこりんと13:13)、そして御霊の結ぶ実である「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)です。これらは内側にあり、その人の態度や行いや言葉に表れてきます。そして、もう一つの外側の実と言うのは、伝道して新しい魂を救いに導くことです。(ヨハネ15:16)次のクリスチャンを生み出すことです。これは牧師の専売特許ではなく、信徒の仕事です。

ですから、先ほどの信仰的な姉妹は、40年間教会に来てもまだ一人も救いに導いていない、このままでは天国に行ってイエス様に合わす顔がないというのです。そうはいっても、彼女はとても素晴らしいクリスチャンです。切り倒されなければならないのは、私だということをへりくだって皆さんの前で告白されました。わたしはその時、彼女は立派な実をつけていると思いました。

5.今年もこのままにしておいてください

ところが最後に、切り倒されなければならないいちじくの木に過ぎない私たちのために、このぶどう園を管理して手入れをしてくれていた園丁がこう言いました。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」(13:8~9)と。

本当に、愛も信仰もない、そして実をつけない貧しいいちじくのような私たちです。でも、それにもかかわらず、もう一人の人園丁、園の管理人が御主人にとりなして下さいました。「どうか、今年は切り倒さないでください。後生ですから。今年はなんとか木の周りを掘って肥料を入れてみますので、もしかしたら来年はいっぱい実をつけるかもしれません。ですから、今年は切り倒さないでください。」とお願いしてくれました。

実はこのとりなしをしてくれている園丁が、私たちの主イエス様なのです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。それは私たちの罪を赦すためです。誰でも、この主の前に行って主の十字架を見上げ、自分の罪を告白するならば救われます。イエス様はどこまでも私たちを愛し、今もあの十字架の上で、私たちの罪の贖いととりなしをしてくださっておられます。

園丁はこう言いました。「来年こそは実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。」と。私たちは本当に実のつかないいちじくかも知れません。でも、イエス様はどこまでも、その貧しい不十分な私たちのために十字架の上でとりなして下さっておられます。来年こそはきっと実をつけますからと。「もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と言いました。

そして、イエス様は、実のつかない私たちのために、身代わりになって十字架の上で神様の罰を受けてくださいました。一度だけではありません。十字架の贖いは永遠に続きます。たとえ私たちが来年実をつけなくても、再来年も実をつけなくても、イエス様は私たちの代わりに神様の裁きをその身に受けて下さいました。切り倒されたのはイエス様です。

ですから、今日と言ううちに、この主の前に自分の罪を悔い改めて主のもとに立ち返りましょう。「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)今こそ悔い改める時です。主は私たちの罪のために切り倒され、十字架の上で、大いなる忍耐をもって、私たちの悔い改めることを今も待っておられます。(岡田 久)

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