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神の宝の民 (申命記7:6~11)

メッセージ

2011年10月23日富里キリスト教会
「神の宝の民」
(申命記7:6~11)
1.信仰を持って過去を振り返る

誰しも人生の節目にあって、これから自分はどう進んでゆこうかと考える時があります。私も、牧師になろうとする時考えました。本当に神様はいるんだろうか、これから牧師になるために仕事を辞めてやって行けるだろうか。いや、そもそも、神様は本当に存在しておられて、これからも自分を助けてくださるだろうかと考え込んだことがありました。

そしてある時、朝ふと目が覚めたので、枕元にある聖書を開いて読んでみました。その頃は、朝早く目が覚めると、神様が御言葉をいろいろと語りかけて下さるようなきがしておりました。布団の中で、目を覚ましていると聖書の言葉があれこれと頭に浮かんでくるのです。ですから、枕元にノートを置きながら、布団に入ったまま聖書を読んで、メモを取っていました。そうしましたら、ある時、この申命記の4:32の御言葉が目に入って来ました。

「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。」(申命記4:32)新共同訳ですと少しニュアンスが弱いですが、口語訳聖書で読んでみますと明確に書いております。「試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神は地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。」となっています。この最初の、「試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。」という言葉が、非常にインパクトが強く、わたしの心を捕らえました。

そんなにこれから、伝道者となって献身することにためらいがあり、将来に不安があるならば、試しに今までの自分の30年間の人生に起こったことを思い起こしてみなさいというのです。神がいなかったことが一度だってありましたか、神がお前を見捨てたことが一回だってあったかどうか、ちょっと振り返ってみればわかるじゃないかと言うのです。そう言われれば、言い返す言葉は何もありません。

もし皆さんも、自分の信仰に確信が持てなかったら、神の存在が解らなかったら、自分の今までの人生を振り返ってみることをお勧めします。あの時、この時どうだったでしょうか。神がいなかったことが一度だってありましたか、ないはずです。たとえ、失敗し、挫折し、孤独の中にあっても悲しみの中にあっても、いつも主はすぐそばにいたはずです。そして、これからの人生も神なしでは生きて行けないことに気付くのではないでしょうか。

今日の聖書箇所申命記7:6にはこうあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛の故に(救い出されたのだ。)」(7:6~8a)

私たちが救われたのは、神の一方的な愛によるところの選び以外の何物でもないのです。しかも、私たちが信仰深かったとか、優秀だとかいうのではなく、貧弱だったからだと言っています。しかも、いつも神に逆らい、心のかたくなな民でした。(9:6~7)そういう箸にも棒にもかからない、手の焼ける頑固な者であったけれども、神様は、そのような私たちを神の民として選んでくださり、神の宝の民としてくださったのです。それは神の愛のゆえだと、モーセは語りました。旧約聖書に神の愛が語られている箇所は、非常に珍しいのですが、神は私たちを愛して神の宝物としてくださったのです。

3.未来を希望を持って待ち望む

神様は決して悪いようにはなさらない。生活面でも確かに苦しい時はありましたが、でも伝道者になっても、ある程度公務員並みの生活は常に支えられてきました。そしてこれからもきっと支えてくださるでしょう。子供はありませんので、将来どうなるか心配です。しかし、何も心配する必要はありません。今まで守り支えてくださったお方は、これからも生涯主の御許に帰る時まで支え守ってくださいます。

イザヤ書46:3~4(P.1137)を読んでみましょう。
「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

私たちは生まれた時から主に背負われてきました。そして私たちを背負ってきてくださった神様は、私たちが老いる日まで、白髪になるまで背負って行こうとおっしゃっておられます。偶像の神は、人間が担ってあちこち運びます。人間に担いでもらわなければなりません。しかし、私たちの神は人間に担がれる必要はありません。神様の方が私たちを担いでくださるのです。しかも、老いる日まで、白髪になるまで私たちをしっかりと背負って下さるお方なのです。私たちを生涯にわたって、神の宝物としてくださるのです。老後も心配はありません。いや、それよりももっと素晴らしいことが、死んだ後に待っているのですから。

そして、過去において私たちをその大きな愛の故に選んでくださった方は、将来においても私たちを見放すことなく、どこまでも担って下さるお方なのです。過去も将来も主の御手の内にあるなら、私たちは、生きている今、主の教えを守って極力聖い生活をして、主に信頼し主を目指して精一杯生きるのではないでしょうか。

4.今を主の愛のうちに生きる

先日、テレビを見ていましたら、一人の俳優さんのドキュメンタリー番組をやっていました。お名前は忘れましたが、このかたは高齢になってから癌の宣告を受けました。余命三か月と言い渡されたのです。その時から、彼は今まで以上に俳優の仕事に専念され、治療で休むどころかテレビに舞台にと、最後の命の輝きをもって精一杯自分の本業に打ち込みました。そして70歳を超えてから、芝居とは何かということが解ったとおっしゃっておりました。最後に息子さんの結婚式に臨んで、こう言いました。「人生、今日が最後だと思って、今、この生きていることに全力を傾けなさい。そうすれば、やがて永遠というものが解ってくる。」と。

そして、ふと気が付いてみましたら、余命三か月の期限を10日間も過ぎていたのです。まだ生きている。しかも元気に芝居ができているわけです。記者にインタビューされました。「病院の先生から余命何か月と宣告されましたか?」と。そうしましたら、「三カ月を超えてまだ生きている。今は、死後10日目だ。」と答えました。余命を超えて生きている、本来ならば死んでいる日なのに、生かされている。今は死後10日経っているというのです。もう死んでしまった時間を生かされていると語っておられました。

わたし達クリスチャンンも、そうではないかと思います。一度、バプテスマによって水の中に死んでしまったものです。一度死んだものです。今生かされている命は余命(残された時間)ではなく、与命(神に与えられた時間)ではないでしょうか。しかも神様は、私たちを神の宝の民として、聖なる民にしようとして選ばれたのです。それは残された人生を、神様から与えられた人生として神の栄光のために生きるという目的が与えられているのです。ただ、生きているのではなく、一日一日が神に与えられた大切なかけがえのない時として精一杯生きているのです。

明日死んでもいいつもりで、今日という日に全力を傾ける。それが私たちの生き方ではないかと思います。私の父は癌で入院して、余命いくばくもない時に、「元気になったら、お寺の境内の掃除をしたい。」と言っていました。それは手遅れになってしまいましたが、私たちはまだ何かできるはずです。明日召されてもいいように一日一日を精一杯生きるということです。山﨑兄は、本当に最後の最後まで、体のハンデイを抱えながら全力で主に仕えてくださいました。いつ主に呼ばれてもいいと思っていたのではないでしょうか。そしてある日突然、主に召されました。

ですから、私たちを選び、救い、聖め、神の聖なる民としてくださった主の愛の故に、私たちも主の御言葉に従って聖くなるように生きたいものです。これが主の選びです。神様は貧弱で汚れた私たちを、愛の対象として、選ばれ、聖なる者となるようにと召してくださいました。(エフェソ1:4)

イザヤ書43:1b、4にこうあります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」と。
私たちは神に愛され、選ばれ、救われ、神に最後まで担われるものとして、今、この時を神と共に生きております。そして、神の戒めを守って精一杯自分の果たすべき務めを全うし、聖き実を結びたいと願っています。  (岡田 久)

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