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神の勇士(ギデオンの祭壇) (士師記6:11~24)

メッセージ
9月10日富里キリスト教会

「神の勇士」(ギデオンの祭壇)
(士師記6:11~24)

1.勇者よ、主はあなたと共におられる

「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミデイアン人に奪われるのを免れるために、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現われて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます。』」
(士師記6:11~12)

ギデオンは周囲の敵ミデアン人の目を恐れて、酒ぶねの中で隠れてこっそりと小麦を打っていました。いかにここにイスラエルの民が、異教の民に立ち向かうことができないで、周りの敵から隠れて暮らしていたかが分かります。大の大人が、こつこつとぶどう酒を絞る酒ぶねの中に隠れて、小麦を打っているのです。異教の民と戦うことも忘れて、その日暮の寂しい生活をして命をつないでいた神の民の姿を見ることができます。そして主はそういう全く不信仰な弱い小さな一人の人に目を止めて、主の勇士だと呼びかけられたのです。

それが、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」という御使いの第一声です。神様は圧迫される民の祈りを聞いて下さり、名もない一人の貧しく小さな者を選んでくださるのです。モーセもそうです。一介の羊飼いにすぎない人間を選んで、神の山にまで導いて行って、燃える柴の中から語りかけました。この神の召しによって、モーセはエジプトからイスラエルの民を脱出させるという大事業に取り組んだのでした。この時、モーセ80歳です。(出エジプト記3:1~6)神様はこのようにして、無力な者、年をとっても枯れてしまって何もできない者を選んで用いられるのです。

皆さん方は、神の勇士なのです。Mighty worrior なのです。有名なワーシップソングにこういうのがあります。
「大いなる方に感謝ささげます、御子キリストの愛の故に。
大いなる方に感謝ささげます、御子キリストの愛の故に。
今、弱い者よ、叫べ勇士だと、勝利の主が共にあられる。
今、貧しい者よ、叫べ富んでいると、恵みの主が共におられる。
感謝します。」

2.ギデオンの言い訳

この神の突然の召しに対して、ギデオンは何と答えたでしょうか。ギデオンも私たちと同じですね。三つの否定的な言葉を発しました。一つは13節の「なぜこのようなことが私たちにふりかかったのですか。」です。「Why」と言いました。そして二つ目は15節「どうすれば救うことができましょう。(いや出来ません)」という言葉です。「How」という言葉です。そして三つ目は17節の「もし、御目にかなうならばしるしを見せて下さい。」です。「If」です。この「なぜ=Why」と「どうすれば=How」と「もし=If」という三つの不信仰がギデオンの口から出て来ました。

A)なぜ=Why

最初に、13節の「何故」というギデオンの言葉についてみてみたいと思います。なぜというのは、現在の状況の結果の原因を探している言葉です。自分が不幸なのはなぜだろう、親のせいではないか、あるいは先祖のせいか、学校のせいか兄弟のせいかと、自分の今の不幸な状態の原因を追究しているのです。原因探しです。犯人探しです。ギデオンも言いました。「わたしの主よ、お願いします。主なる神が私たちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業は全てどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミデアン人の手に渡してしまわれました。」(6:13)

ギデオンは、何で我々は先住民に圧迫され、畑は荒され、食べる物もなくなり惨めな生活を強いられているのですか。あのエジプト脱出の神はどこに行っていまわれたのですかと、神に食ってかかりました。自分たちの今の状況は、神のせいだと考えているようです。神が見放されたのでこうなってしまった。我々の不幸の原因は神にあると言わんばかりです。これが「何故」という不信仰です。

自分のせいにしていないのです。神様はわたしに対して「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と言って下さったのです。神様は、わたしを選んでわたしを伝道者として、魂の救の業を委ねたのです。やるのはわたしなのです。他の誰でもない牧師がまず、先頭切って伝道の働きに着かなければならないのです。みんながやらなければしない、誰かがやらなければしないというのではありません。あなたが、鍵なのです。他ならないあなたが勇士なのです。そして不振の原因が、教会にあるのでもなく、他の信徒にあるのでもなく、自分にあると言うことです。あなたの罪がそうさせているということに気がついていないのです。

御使いはギデオンに、「あなたのその力を持って行くがよい」と言いました。わたしたちにはすでにその力を持っているのです。死の国エジプトからわたしたちを救ってくださった神の力を既に受けているのです。イエス・キリストの十字架によって救われました。だからこそ救われたではありませんか。主に救われた者は主の力を経験しているのです。主に救われた者は、主の救いの力を身に帯びているのです。あなたはがあの救いの力を経験しているなら、あなたが立ち上がらなければならいのです。あなたはその救いの力を持っているのです。イエス・キリストが共にいて下さるのです。救われた人は救いの証人、キリストの証人なのです。もしそうでないならば、あなたの罪がその神の力を見えなくしているのです。

B)どうすれば=How

二番目の不信仰は、「どうすれば救うことができるのでしょうか。」という問いです。救いの方法、伝道の仕方ですね。ここでは伝道は何か方法があるとは書いていません。ギデオンは自分の信仰と力のなさを感じて神にこう言い訳しました。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすれば、イスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(6:15)

でも伝道のできるのは、強い人ですか、年のいっている年長者でしょうか。伝道ができるかどうかは、その人の経験や能力や学力、信仰歴ではありません。自分の能力を見てはいけません。自分を見てはいけないのです。個人伝道を訓練しなくては伝道できないというのではありません。(しないよりはした方がいいですが・・・。)訓練されていても、いなくてもいいのです。伝道するために神学校に入らなければならないのではないのです。なぜなら、伝道するのは主御自身だからです。救われるのは神様なのです。勝利されるのは主御自身なのです。そのことを忘れてはいけません。

ですから、「どうすれば人々を救うことができるのでしょうか?」という問いに対しては、「主が共にいて下さるからできます。」が答えなのです。(6:16)神様が共にいると言うことがわたしたちの最大の武器なのです。強力な伝道戦略なのです。救われるのは主御自身ですから、主がいなければ勝てません。救いは起こりません。「わたしはここにいます、主よあなたが共にいて下さり、用いて下さい。」というだけでいいのです。なぜなら、そこにあるように救いの方法は「わたしがあなたと共にいるから」と言うことなのです。これがわたしたちの力なのです。救いの源なのです。主が共に働いて、救いを成し遂げて下さる。これに尽きるのです。これが伝道の方法です。主と共にいること、これが伝道の方法です。ただ主の御声に従って、行けばいいのです。

C)もし=If

三番目のギデオンの不信仰は、「もし」でした。「もし御目にかないますならば、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せて下さい。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」(6:17~18)と言いました。そしてギデオンは、
急いで子山羊一匹分の肉を料理して持って来て、パンと共に備えました。すると御使いは、杖の先をこの供え物に差し伸べて、火を持ってこの供え物を焼き尽くしました。ギデオンの供え物を受け入れたと言うことです。

その時初めて彼は、この御使いが神の使いであることが解りました。やっと彼の霊の眼が開かれたのです。そして22節にこう記されています。「ギデオンはこの方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。『ああ、主なる神よ、わたしはなんと顔と顔を見合わせて主の御使いを見てしまいました。』主は彼に言われた。『安心せよ。恐れるな。あなたは死ぬことはない。』ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、『平和の主』と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。」(6:22~24)

ギデオンは疑っていました。この御使いは本当に神から来たのか、人をからかっているのではないだろうか。こんな自分を選ぶなんて、信じられませんでした。「もし本当ならば、しるしを見せて下さい。」と言ったのです。神が本物かどうか、本当におられるのかどうか試して確かめようとしたのです。誰でもそうです。本当だろうか、もし本当ならば、目に見える確かな神からのしるしかサインを送って下さいと言いたくなります。

皆さんもそのようにして神様を試したことはありますか。そういう不信仰な行為に対しても、神様は誠実に答えて下さるお方なのです。もし神様から「勇者よ。」という召しを受けたが、どうしても自信がない、信じられない、不安だと思う方は、ぜひ神様に尋ねてみてください。本当にあなたがわたしを勇士として、士師として選ばれたのなら何かしるしを見せて下さいと。

ギデオンの霊的な目が開かれて、この御使いが本当に神からの使いであると悟った瞬間に、この御使いの姿が消えてなくなりました。これは、あのエマオ途上での二人の弟子の姿に似ていますね。あの新約の二人の弟子も、イエス様が復活されたという確信が与えられた瞬間に、イエス様の姿が消えてなくなりました。ギデオンも今やっと、目が覚めたのです。勝利の主が共にいて下さる。恐れることはない、主の呼びかけに応えて立ち上がろうとした瞬間に、今まで見えていたものが見えなくなったのです。

つまり、日々の生活で、戦々恐々として、食べること生きて行くことばかりに明け暮れていた自分でした。人目を忍んで食べ物を算段をしていたのです。神よりも生きる生活の方が大事だと、生きることにあくせくしていました。そのあくせくしていた生活の只中に主が現れて下さったのです。そして突然「あなたは主の勇士です。さあ、剣を取って立ち上がりなさい。」と呼びかけられたのです。

彼は自分の疑問や不満や心配、恐れのありったけを神に申し述べました。その彼の疑問にことごとく答えて下さった主は、ギデオンの目をも開いて下さいました。「ああ、主なる神よ。わたしは、何と顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」(6:22)「神を見てしまった自分はもう死ぬほかはない。」と思いました。しかしは、「安心せよ。恐れるな。あなたは死ぬことはない。」(23)という言葉をいただきました。つまり、神を忘れ、苦しい追われるような生活に明け暮れていた自分。そんな罪深い自分の姿を、今、悟ったのです。それでも主は、ギデオンを滅ぼしてしまうことなく、その罪を赦して、「安心しなさい。」と平安を与えて下さったのです。そこでギデオンは、自分たちにとってかけがえのない食料、子山羊とパンを持って来て主にささげたのです。そこに、自分と神様との交わりを回復する祭壇を築いたのです。

ギデオンは今ここで初めて、神を第一としたのです。神を最優先にしたのです。祭壇を築くこと、礼拝をすることを求めたのです。それがこのギデオンの祭壇です。「平和の祭壇」です。一般的な世界平和の祭壇ではなく、今まで神に背を向けて生活に追われていた自分の罪を告白して、悔い改める決心をした記念の祭壇なのです。神との交わりの回復、神様との間の和解と回復を込めた祭壇なのです。これがギデオンの祭壇、神との平和の祭壇なのです。神との和解と平和を求めて、この祭壇すなわち祈りを献げたのです。

そしてこのギデオンの祈りを神は聖霊の火をもって受け止めて下さり、同時にギデオンにも聖霊の炎を持って神が見える霊的な目を与えて下さったのです。
これがギデオンの築いた祭壇です。死ぬべきはずの人間が、罪赦されて生かされた。この祭壇は、神の罪の赦しをいただいて新しく生まれ変わって、主の戦士となって行く大事な人生のランドマークです。

皆さん方の祭壇はいかがですか?日々の生活で追われていませんか。神に献げる肉とパンよりは、自分が日々食べる肉とパンを最優先していないでしょうか。
まずあなたが食べるべきその肉とパンを、最初に神にささげなさいと言うことなのです。それが神との和解、神との平和の祭壇なのです。皆さんが神様よりも、自分の生活、自分の日々のパンや肉を第一としていたならば、それは神に対する罪なのです。神のものを奪っているからです。神のものは神に返す。すべてのものは、神の手から出ているのだとうことを忘れないで、まず神を第一として祭壇を築くことです。これがギデオンの築いた神との平和の祭壇です。

ともするとクリスチャンでさえも神の救いの力、十字架の贖いの力を忘れ去って、自分と生活を第一にしてしまっているような時代です。背信時代です。その只中にあって、神様はわたしたちに「勇者よ、立ち上がれ。主があなたと共におられる。」と呼びかけておられます。この主の呼びかけに応えて行きましょう。罪の悔い改めをもって、主の祭壇を築いて祈って行く者となりたいと願っています。       

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