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神の偉大な業である聖霊降臨 (使徒言行録2:1~13)

メッセージ
2020/05/10
富里教会礼拝説教
「神の偉大な業である聖霊降臨」
(使徒言行録2:1〜13)
① 五旬祭とは
今日、私たちに与えられた神のことばの場面は、時は五旬祭、五旬節とも言いますね。五旬節という言い方の方が皆さんにとって馴染みがあるかもしれません。そして、場所はエルサレムです。そこにイエス様が約束された聖霊が使徒たちの上に降り注がれた。これが、今日の聖書箇所の出来事です。
本来、五旬節とはギリシャ語のペンテコステという言葉の訳語であり、50日目の祝日という意味を持っています。レビ記23:15に明記されていますが、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われていたユダヤ人のお祭りの日であり、七週の祭りと呼ばれているものです。大麦の収穫の終わりと共に小麦の収穫の始まりを知らせる、現実生活に即したお祭りでもあり、過越の祭り、仮庵の祭りと共に3大祭りの一つと言われています。これらの祭りは旧約聖書の律法にはっきりと明記されており、現代のユダヤ人においても盛大に祝われている大切なお祭りです。
そして、この七週の祭りの霊的な、もっといえば本質的な意味は、神の契約の民としてイスラエルの民がエジプトから解放されたことを記念することと、
シナイ山における契約の民のしるしである律法が与えられたことを記念するものでありました。ユダヤ人が今も大切にしている理由がよくわかりますね。
しかし、これはイスラエルの民だけなく私たちクリスチャンにとっても非常に意味深いものでもあります。エジプトからの解放は私たちにとっては、キリストの贖いによる罪の奴隷からの解放を指したものであり、私たちが聖なる神の契約の民たるしるしは、律法ではなく、まさしく聖霊そのものと言えるからです。この七週の祭りは、教会の時代が始まることを予表していたものとも言えるのではないでしょうか。

② 聖霊を待ち望む使徒たち
この五旬節の日、使徒たち一同はエルサレムで一つとなって集まっていました。その時は三大祭りの一つである七週の祭りですから、世界中のユダヤ人や異邦人がエルサレムに集まっていました。もちろん、使徒たちもその祭りに参加していたことでしょう。しかし、彼らがエルサレムで一つとなって集まっていた本当の目的はお祭りではありません。イエス様の「エルサレムで聖霊を待て」という約束の言葉を信じ、従順にその言葉を守っていたのです。それは、イエス様が昇天なされたあと、すぐにエルサレムに戻ったことからもわかりますし、14節の

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

というみことばからみても彼らがエルサレムにいた理由はイエス様のことばを信じ、従順に聖霊を待ち続けていたゆえであることがよくわかります。信じて、祈って、待ち続けていたのです。
そして、この五旬節、ペンテコステの時に約束の聖霊は確かに使徒たちに降り注がれるのです。主の言葉を信じ、待ち続ければ必ず聖霊が与えられるのです。このペンテコステの出来事は、非常にそのことを象徴的に表されているように思います。
聖書を読んでいても、教会に来て説教を聞いてもよくわからない。信じたいなと思うけど信じられない。そのような方はおられませんか?私もクリスチャンホームで育ちながらもかつては、そのような時がありました。しかし、そんな私でもある時、聖書を読んで不思議と涙が止まらないという経験をしました。あれだけ信じられなかったのに、「ああ、神様は確かに生きておられる」という確信が与えられました。
最初はだれでも聖書のことはわかりませんし、信じることができません。しかし、それでも聖書を読み、教会に通い、待ち続けている人には必ず聖霊が注がれます。そう約束してくれていることのしるしがまさにペンテコステなのです。
ユダヤ人にとってのペンテコステは七週の祭りですが、私たちキリスト者にとってのペンテコステは、信じて待ち望むものに必ず注がれる約束のしるし「聖霊降臨」なのです。そして、ここから教会の時代が始まります。それゆえ、ペンテコステは教会の誕生日とも言われています。

③ 聖霊降臨
では、その聖霊降臨とはどのように起こったのでしょうか。聖霊が現れ、使徒たちに降り注がれるその様は、全く見たことのない、人間には想像もつかないような光景でした。
まずは、激しい風が家中に響き渡りました。風というものは、ヘブル語でルアッハといい、旧約聖書においては呼吸、息、霊とも訳される言葉です。創世記では神の息という意味として用いられており、私たち人間は神の息を受けて命が与えられていることが書かれています。そこから私たち人間は非常に霊的な存在であることが伺えられます。また、風は神が創造し、それをご自分の支配下に置いてみこころをなすための神の力としても表しています。
そして、新約聖書において風という言葉はまさしく、聖霊のわざの形容としても用いられています。聖霊は風の如し、という言葉はよく聞きますが言い得て妙です。風と同様、聖霊は見えないし、つかむこともできません。しかし、間違いなく感じることができ、見えなくともその存在が必ずあることを私たちは確信しています。
次に炎のような舌が分かれて、一人一人の上に留まりました。炎、火は神の臨在、顕現を表すものとして旧約聖書で顕著に描かれています。モーセが神様からの召命を受けた場面での柴の炎や、イスラエルの民を導かれた火の柱などが有名な例でしょう。また、火は神の栄光、守り、さばき、罪への怒りのシンボルとも表されており、火とはもはや、神様ご自身を表すといっても良いでしょう。
そして、その炎の舌が一人一人の上に留まりました。一つの御霊がそれぞれの上に、一つの御霊でありながらも留まったのです。御霊は一つでありながらも、神様は一人一人、全体ではなく個人としてのあなたを見ておられるのです。一人一人にその人にしかできない役割が与えられており、そのユニークさを活かすことをなによりも神様は喜ばれるのです。
その神の力と臨在である聖霊が使徒一同の心を満たしました。すると、なんと一同それぞれが世界中の言葉を話し出したのです。ガリラヤという田舎出身で無学な弟子たちがです。福音はこのペンテコステという聖霊降臨以降、世界の至るところまで広がっていき、それは現在進行形で今もなお、広がり続けています。この世界宣教を使徒たちに委ねられたのです。神のご計画のために必要な力は必ず、聖霊によって与えられるという約束がこの光景から伺えられるのではないでしょうか。
私たちは、自分の能力や自信のなさや自己都合から、神様のご計画や召しに対して「できません」と、言ってしまうことがあります。私自身も牧師の召しを受けたとき、できませんと当初は言っていました。できる自信が全くなかったからです。
しかし、それに対して主は、「恐れるな、私が共にいるから」と力強く語られ、私はその憐れみゆえにその召命を受け取ることができました。今も、私自身の能力は欠けだらけで、とても牧師にふさわしい力量があるとは思っていません。しかし、それを重々承知で神様は召し出されたのですから、その働きのために必要な力は必ず与えてくださるのだ。そういう思いをもって、今日も説教を語っております。そして、確かに自分の力ではなく、聖霊によって全てが成されていることを実感しております。そこには本当に神の力を間近でみる幸いがあります。
なにか、信仰の大きなチャレンジを神様に示された時はどうか、自分の能力や状況ではなく、あなたを選んだ神様のみこころを信じ、一歩踏み込んでみてください。そこには、必ず、助け主であり、慰め主である聖霊の力を実感する幸いが待っています。

④ 福音はエルサレムを中心に世界へと
話を戻します。そのような聖霊に満たされた使徒たちの姿を見て、あっけにとられた人たちがそこにはいました。当時、多くのユダヤ人がビロン捕囚以降、イスラエルだけでなく世界中の都市に離散して生活していました。ディアスポラという人たちです。その人たちが七週の祭りという大々的行事のために、世界中のユダヤ人がエルサレムに帰ってきていたのです。
その人たちの住んでいた場所は、リストが多く挙げられていますがユダヤ、エルサレムを中心として非常に広範囲に及びます。パルティア、メディア、エラム、メソポタミアは今でいう、イランやイラクあたりでエレサレムから見て東にあたります。カパドキア、ポントス、パンフリアなどは当時でいう小アジア、今でいうトルコあたりで、これは北にあたります。アラビアは南、エジプト、クレネに接するリビア、クレタなどは今でいう北アフリカで西、そしてさらに西の地の果てがローマです。
実にエルサレムを中心に全方位からユダヤ人が集まっていたことがよくわかります。それだけの多くの者たちがこの神の偉大な業をみていたわけです。ここから、まさに福音はエルサレムを中心として世界中に、全方位に地理的に拡大していくのです。
そして、そこには純粋なユダヤ人だけなく、改宗者と言われる元々は異邦人だった人たちもいました。福音は地理的だけでなく、民族的にも広がっていくのです。全ての地域の人たち、全ての民族たち。つまり、福音とは神に創造された全ての人間に開かれた喜びの知らせなのです。例外はいません。全ての人間を神様は救いたいと願われているのです。
そして、特に注目したい点は、これだけ様々な国から来た人たちがなぜか、使徒たちの言葉を全て理解することができたということです。弟子たちが、聖霊の臨在の下で世界各地から集められた人々に共通の理解しうる言語で語ったことは、バベルの塔以来の言語における「のろい」が破棄されたことを意味するといえるでしょう。
その意味でも福音こそ全世界の人々を統一する唯一の言葉と言えるでしょう。そして、教会にこそ、その福音が委ねられているのです。その1ページを今、まさに踏み出そうとしているのがこの聖霊降臨、初代教会誕生の瞬間なのです。

⑤ 神の偉大な業を見たときの驚きと戸惑い
この聖霊降臨という神の偉大なみわざをみて人々は驚き、戸惑いました。その驚きはきっと私たちの想像をはるかに超えたものでしょう。私たちだって目の前で聖霊降臨のみわざをみたら、それは心臓が口から飛び出すほど驚くことでしょう。
人は神の偉大なみわざを見たとき、驚き、戸惑うのです。それはあまりにも理解不能で、常識をはるかに超えたものだからでしょう。その極みがキリストの十字架の贖いと復活です。神のみわざは人の理性、知識、経験の範疇で理解できるものではないのです。ここで「驚き」と訳されているギリシャ語は、福音書でのイエスさまの数々の奇跡、みわざがなされたとき民が驚いたときの「驚き」と同じ言葉です。
イエスさまの奇跡を通して、多くの人たちが神のみわざを見て、驚き、時に悔い改め、時に賛美し、時に感謝し、救いへと導かれ、神のみわざである「人の心が変えられる」という奇跡を体験しました。神と出会った時、人は良くも悪くもそこには驚きがあるのです。良くも悪くもと言ったのは、その驚きは理解できないものに対する戸惑いをも意味するからです。しかし、それは人として当然なことでもあるでしょう。問題はその驚きと戸惑いにどのように向き合うかということなのです。

12−13節
「人々は皆、驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」

ここでは、神の偉大なみわざを見て、驚き、戸惑う人々のわかりやすい二パターンの反応をみることができます。一つは、驚き、戸惑いつつも「いったいこれはどういうことなんだろうか。」と互いに話し合いました。理解できないが一旦立ち止りつつも一人では抱え込みませんでした。このように理解できなくても、一旦グッと踏みとどまること。冒頭から言っていますが、これこそ聖霊を待つことです。どういうことなのだろうと戸惑いつつもここで踏みとどまったからこそ、この後、彼らのうちの三千人が、復活の主の福音を受け入れることとなったのです。
他方、もう一つの反応は否定と、嘲りです。神の偉大な業をみて、彼らは「あの人たちは酒に酔っているのだ。」と嘲ったのです。理解不能なものに対して人はなにかと否定したがります。神の偉大な業とは知性や理性では決して理解することはできないのです。人間の能力の限界を知らずに、理解できないものをあざける。ここに人の傲慢さが見受けられます。罪ある人間の性質として私たちにも色濃くあるかもしれません。しかし、私たちは驚きの先にある、確かな恵みを信じて踏みとどまる者でありたい。そう願うのです。

⑥ 聖霊の力に生きる
今日は、神の偉大なみわざ、聖霊降臨なるペンテコステについて見てまいりました。振り返ってみるとそこから三つのメッセージがあったように思います。一つには、聖霊が与えられることを信じて、従順に待ち望めということです。求めるものには必ず聖霊が与えられるとイエスさまが約束してくださっています(ルカ11:13)。信じて待てば、必ず与えられます。必ずイエス・キリストこそ私の主ですと告白する時がきます。
また、信仰が弱いと嘆いている方は、聖書を読み、祈り求め、礼拝を守り続ければ必ずその信仰は聖霊によって強められます。こんな私ですら不思議と信じることができましたし、少しは信仰も強められました。だからというわけはありませんが、大丈夫です。主が約束してくださっているからです。
二つ目は、福音はバラバラだった私たち人間を一つにしてくれるということです。言葉も違う、人種も民族も違う、文化も性別も考え方も、実は信仰の表し方も違う。私たちのような小さな群れですらそういった面があります。しかし、私たちクリスチャンは復活の主イエス・キリストを唯一のまことの救い主であるという信仰告白、その共通項一点のみで一致することができるのです。
かつて、私は世界中をバックパッカーとして渡り歩いたことがあります。そのときの私の楽しみの一つは世界中の教会に行って祈るということでした。「私はイエス・キリストを信じている日本人クリスチャンだ。祈らせてくれないか。」拙い英語で、そう伝えるだけで彼らは笑顔で、遠い異国の神の家族を喜んで迎え入れてくれました。そこで見た教会もそこにいた人たちも本当に様々でした。時にロシア正教の聖堂で祈ったこともありましたが、信仰のスタイルが全く違うことに驚きを覚えましたが、それ以上に表し方は違ってもそこにある主イエスへの信仰は全く同じだという実感も覚えました。口で説明するのはなんとも難しいのですが、「確かに私たちは違うけれども同じ御霊を受けているんだ。」そういう感動がありました。復活の主の福音はバラバラだった私たちを一つにしてくれるのです。それが御霊の一致です。
最後に三つ目は、神のみわざを見て驚き、戸惑いつつも踏みとどまる人には必ず聖霊が降るということです。そして、恐れず、踏みとどまるために互いに相談する仲間、教会が私たちには与えられているということです。互いに励まし、祈り合い、踏みとどまる中で聖霊は豊かに働かれます。
しかし、必ず否定してくる人も現れます。これもまた、現実です。使徒たちは、このような人たちに毅然と力強く言葉によって戦いました。同じ復活の主の証人である私たちも、彼らに倣うことが求められています。なにも議論をしたり、論破しろということではありません。ただ、毅然と力強く、しかし柔和に「私は復活の主イエス・キリストと出会いました。そして、その主が今も生きておられるということを信じています。」と証しするだけでよいのです。
私にそんなことができるのでしょうか・・・と思う方もおられるかもしれません。大丈夫です。自分の力でするわけではありません。あなたの心のうちにおられる聖霊によって私たちはキリストの証人となるのですから。復活の主を告白し、証しすることこそ聖霊の最も大きな力なのです。
さあ、みなさん。その聖霊の満たしを祈り求めて、福音を、神のことばを語る者となりましょう。以前も言いましたがこれは、義務ではなく、祝福です。聖霊の満たしを求める者は結果として自分の心がとても慰められます。
聖霊は慰め主だとも言います。みことばを通して私たちの心に入り、語り続けてくださるお方なのです。ひとひとつのみことばから慰め、憐れみ、励まし、心をキリストの愛で満たしてくださるのです。イエス様の十字架と復活の喜びで満たされるのです。それゆえに、私たちは主イエスの証人となることができるのです。
そして、そこには喜びと共に罪や、自我からの解放が起こされます。自分のために生きることから神と隣人のために生きるようになるのです。それは一見辛く見えたり、損な生き方に見えるかもしれませんが、実はその人の心は本当に解放されています。これこそ本当の意味でのキリスト者の幸いなのです。
聖霊は主を証しする力であり、慰めであり、喜びであり、解放です。その聖霊の満たしをただただ求めましょう。イエス様は求めるものには必ず聖霊を与えると約束されたのですから。私たちは神の偉大な恵み、賜物である聖霊によって日々変えられていくのです。聖霊を求めましょう。

武井誠司

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