ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

神に答えよ (ヨブ38:1~11)

メッセージ
2017年10月22日富里キリスト教会

「神に答えよ」
(ヨブ記38:1~11)

1.ヨブの苦難は全人類の問い

私は今まで、このヨブの苦難は、ヨブ個人の体験ではないかと思って来ました。あるいは、架空の人間ではないかと考えたりもしました。あまりにも大きな災難と犠牲を経験したからです。「世の中には本当に不幸な人間もいるのだなあ」と、自分とは次元の違う人のようにみていました。でもある時、ふと考えました。この苦難は、すべての人に当てはまる出来事ではないかと思うようになったのです。

例えば、6年前の東日本大地震の津波で犠牲になった方々。原発事故で故郷を離れ、今も仮住まいの生活を強いられている方々。中には家、財産、畑、家族、親族まで一瞬にして失った方もおられます。さらに遡るならば、今から72年前の人類最初の悲劇的な出来事が起こりました。突然、空から一発の原爆が投下され、一瞬のうちに死の灰に帰した広島、長崎の方々です。普通の灰の中に座って、神に嘆きを訴えるのではなく、被爆者された方は死の灰の中に座って、そこから神に呼ばわるしかありませんでした。みな現実の出来事です。ヨブよりも悲惨です。そして、世界は今もなお、この危機の中にあります。いつ核戦争が起こるか解りません。

あの広島の死の灰の中から、「これでも神はいるというのか。」という叫び声が聞こえてくるような気がします。そしてあの津波の後の土埃の中からも、「神はいるのか、それならばなぜこんな惨いことをなさるのか。」という声が聞こえてくるような気がします。一瞬にして、家も財産も家族も失うと言うことは、ヨブだけではなく、現代の私達のすぐ目の前にある現実なのです。自分の生まれた時代を呪うのは、ヨブだけではありません。2011年3月11日の時代の人々、1945年の太平洋戦争の時代の人たちも同じではないでしょうか。そしてその未曽有の苦しみは、これからも起こる危険性をはらんでいます。

たとえ自分自身が、そのような災害や戦争に巻き込まえなくても、私達は人間として同じ思い、同じ感情を持つのではないでしょうか。これでも神はいるのかと。多くのクリスチャンが、みなこのような問題と問いを抱えて、神に向かって声をあげて来ました。ある人は、生涯をボランテイア活動に献げる人もあるかもしれません。ある人、世の不条理を正そうと革命運動に身を投じる人も出て来るかもしれません。このような反体制の活動家の中には、意外とクリスチャンが多いのです。昔、教会へ行っていたという人を多く見つけることができます。つまり、この義人の苦難と言うテーマは、ヨブ個人の問いではないと言うことです。人間なら誰でも抱えている問いなのです。そして現代世界の人間の問いでもあるような気がします。

2.神は世界を創造された(神と人間)

今朝は、そのような全人類の問いかけに、神はどのように応えられたかを見てみたいと思います。38:1~3までを読んでみましょう。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」(ヨブ記38:1~3)

神はこう言ってから、38章から41章にわたって、延々と御自分が創造された世界の一つ一つを取り上げて説明をしています。しかし、その神様の説明をみてみますと、正直言いまして、ヨブの質問に答えていないのではないでしょうか。ヨブは、苦難の意味と理由を尋ねているのです。それに対する神の答えは、お前はわたしが天地創造の時にその場にいたのか、と言う答えです。12節には「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。」と逆にヨブに問いかけています。お前は海の底に行ったことがあるのか。(38:16)光と暗黒の住んでいる所を知っているのか。(38:19)雪の倉、あられの倉を見たことがあるか。(22)天体の法則を知っているのか。(33)と次々にヨブを詰問しています。

そして39章からは、山羊の子供を産む時を知っているか、鹿の出産の苦しみに立ち会ったことがあるか。(39:1)野生のろばを知っているか、野牛を知っているか駝鳥の生態を知っているか。(13~18)馬を知っているか、鷹や鷲の飛ぶのを知っているか。(39:19,26,27)とたたみかけています。まるで生物学者のように、動物や鳥の生態、特に子育ての仕方について取り上げて、ヨブがこれを知っているかと問い詰めています。この自然の生態系の不思議な営みです。人間には理解できない不思議な神の摂理、神の経綸する世界です。この神様の一連の答えは、ヨブの質問に合っているでしょうか?説明になっているでしょうか。

33:9~14のエリフの言葉の中に、神様の考えがあるような気がします。
「(お前の言葉を聞いた。)『わたし(ヨブ)は潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見い出し、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる。』ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争うとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。」(33:9~14)と。

つまり神は神であり、過ちも不正も罪も犯すことがなく、人間を夫々の道にしたがって、義をもって正しく裁かれる方だということです。(34:10~12)だから人間の本分は、神の前にへりくだって、神を畏れ、神の御心を行うこと以外にはありえないというのです。天地万物、宇宙も地球も、空も星も光も闇も、そしてそこに住む動物も鳥も、海の怪物に至るまで、すべて神の御支配のもとにあるのだと言うことです。そして人間も神の被造物の一つにすぎないと言うことです。これが神の経綸です。神の摂理、神の支配する世界です。

神と人間は対等ではない。神は神であり人間は人間、土から造られたはかない存在なのです。神の被造物の一つに過ぎないのです。この神に造られた者が、神に向かって不義をあげつらって問いかけると言うこと自体が、間違っているというのです。自分を義とすること自体、神を不義とするのであり、神に対する不信仰、「自分」と言う罪の表れでもあるのです。「じゃあ、我々人間は神に対して何も言えないじゃないですか。」となるのですが、まさにそのとおりなのです。人間が神を問いただすのではなく、神が人間に問いただしているのです。人間はこの神の問いに対して、何と答えますか。何と言えますか。そうです、「はい」か「いいえ」しか言えないのです。「でも・・・」とか「なぜ?」と言う問いは、最終的には人間の側からはできないのです。

3.神に答えよ

40:7~8でも、同じようにこう言っています。「男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とするのか。」(40:7~8)と。つまり、神様がヨブに求めたことは、なぜおまえはいつも、自分の義を立てようとするのかと言うことです。「そこにお前の過ちがある」と神は指摘します。「人間という神の被造物でありながら、この神の被造世界の不思議さとその摂理を、お前は一つでも知っているのか」と言っています。つまり、自分の立場をわきまえろと言うことではないでしょうか。

なぜ、造られた者が造った者に向かって、「こんな自分を造ったのですか。こんな世界を造ったのですか。」と反論できる立場では全くないと言うことです。自分の無知蒙昧を棚に置いて、この世界はなぜ悪がはびこるのかとか、不条理は何故存在するのかと、反論できる立場かどうか反省しなさいと言っているような気がします。それはお前の「自我」、「自分」と言う罪がそうさせていることにまだ気がつかないのかと言うのです。お前は質問者ではない、お前は神に対しては答えなければならない存在なのだ。問われているのはお前の方なのだ、と言うことを教えているような気がしてなりません。

人間は人工知能まで作りましたが、確かに機械の計算や、勝負の世界では、計算で答えが出せないことはないと思います。しかし神様は、駝鳥の羽毛を造ることができるか、どんなに踏みつけても壊れない駝鳥の卵を造ることができるかと尋ねています。この世界のどの動物についても、全くその生態も子育ても知らないのに、なぜすべてを知っているふりをするのかと、神は言っているような気がしてなりません。確かに、どんなに科学が進んでも、あの小さな卵一個さえ、人間は造ることができません。

これが神の答えなのです。神は、ヨブの生活の上での不条理の問題とその理由について答えているのではありません。そうではなく、何でも自分ができる、なぜ神は答えないのだ、自分は間違っていないというこのヨブの自己絶対化と言う罪を問題にしているのです。ヨブの「自分、自分、我が、我が。」と言う「自分」と言う罪です。自分からの問いかけです。これを退けるために、神はヨブに対して、ヨブの知らない世界、ヨブの知恵が届かなかった世界をヨブに知らせたのです。お前が神ではないと。

ヨブも、自分が何も知らなかったことを、今初めてここで認めました。駝鳥も烏も、山羊も、鹿も、ロバも、野牛も鷹も鷲も、何にも知らなかったのです。自分の無知に気がつきました。神に問うている自分を恥じました。問われているのは自分なのだと言うことです。彼の人生の視点が、実はこの時、ここで初めて180度転換したのです。自分が神を見ようとしたが、実際は既に神に見られている存在だと言うことです。神に見られ、神に問われているのは自分の方なのだと言うことに気がつきました。この台風のような大嵐から、神がヨブに語ったと言うことは、圧倒的な力と主権を持ってこの一人の人間の前に神御自身が立たれたと言うことです。

神がわたしと面と面を合わせて向き合ったのです。そのとき皆さん、どうされますか。考えてきた質問をぶつけるでしょうか。もうその時には、人間はこの圧倒的な存在をもって、人間の前に立たれたお方に対して、ただもうひれ伏すしかないではないでしょうか。神の圧倒的な存在の前に、降参して自分を明け渡すのではないでしょうか。塵灰に過ぎないわたしたち人間のできることは、そこにひざまずくこと、ひれ伏すことです。

ヨブも、こう答えるしかありませんでした。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張しません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(40:4~5)と。こうして長かったヨブの反論は終わりました。神様は決してわたしたちを滅ぼされようとしているのではなりません。わたしたちを愛しておられるのです。わたしたち一人一人と確実に出会って下さるお方です。しかも嵐を通してです。時には人生の苦難の嵐かも知れませんが、その苦難の只中で出会って下さるのです。嵐の中で語りかけて下さるのです。「男らしくしなさい。腰にしっかりと帯を締めて、嵐の中で立ちあがりなさい。そしてわたしに答えなさい。」と。  

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional